阿修羅像を見学に行った興福寺。
バス車中でお弁当を食べていたので、外をよく見ていなかったけど、すっとバス駐車場に到着した。
そこがなんと、国宝館と東金堂の間で、どうやら南門とか塀などなかったようだ。
大阪で生まれ育つと小中学校の遠足はたいてい奈良や京都の神社仏閣へ行く。
あるいは友人達と連れ立って見学に行くこともあるが、
当時はあまり興味がなかったのでどこへ行ったかも記憶がさだかでない。
奈良公園近辺の東大寺や春日大社は行った記憶が残っています。
興福寺に着いた時、かすかな記憶の片鱗もなかったから、たぶん初めてだったのでしょう。
興福寺を訪れていろいろ感じるところがあったのでちょっと調べてみた。
興福寺の築地塀は往来の妨げになるからと、明治初期の廃仏毀釈で取り除けさせられました。
廃仏毀釈時の境内敷地は約7,000坪だったそうで、現在の奈良公園がかつての境内だったと聞くと驚く。
五重塔すらも廃仏毀釈時代には売りに出され、中金堂は明治の廃仏毀釈で県庁舎となったそうだ。
建物も壊されるだけでなく、多くの仏具や仏像が消えました。
海外の博物館や美術館などにあるのかもしれません。
創建1300年の大きな節目を迎えた興福寺は、法相宗の総本山です。
幾度もの焼失や、明治の廃仏毀釈の荒廃を乗り越えて、立派に再建されています。
2時間ほどの滞在時間で、国宝館に入るのに40分ほど並び、
さらに五重塔や東金堂でも15分ぐらいづつ並んだため時間がなくなってしまった。
現在解体再建中の「中金堂」は、藤原不比等によって一番最初に建立されました。
7回も火災焼失し、1717年以降仮堂のままとなっていたのを、
10年前から念願の再建に取り組み、今年10月にいよいよ立柱式を行うそうです。
その養生テントに覆われて見えない位置に「北円堂」があります。
興福寺では現存最古の堂で、藤原不比等の追善を営むために建立されました。
珍しい八角円堂で、屋根に乗っている燃え上がるような火炎宝珠露盤が印象的だそうです。
堂内には、運慶の最晩年の集大成と言うべき 「彌勒菩薩像」、「無著・世親像」が安置されているそうだ。
また機会があれば行ってみたいと思います。
国宝指定の彫刻は、法隆寺と並び17件。
そのうち11件が、鎌倉時代に制作された国宝彫刻24件のうちの約半分を占めます。
どうりで国宝館は博物館みたいだと感じたのでしょう。
中世の興福寺は、大和の多くの寺院を私院化(末寺)するだけでなく、
商工業の同業組合である「座」を統制管理して莫大な利益をあげました。
「墨座」「そうめん座」「油座」「酒座」など。
独占的市場を自由化して「楽市楽座」を開いた織田信長の狙いは、
強い僧兵をもつ興福寺の解体へ向けての第一弾だったのでしょうね。
★追記 2014/6/2
西国33番札所になっているのは南円堂ですが、このときは時間がなくて朱印賜れなかった。
後日再訪し、無事朱印頂戴しました。
そのときの画像は見つかったら貼り付けておきます。