秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

やっっと終わったガス漏れ補修工事

2017-03-12 | 世情雑感


撮影時間22:32
このあと水で洗浄したりして11時半までにやっと終わりました。
正午過ぎ、ガス漏れ感知したので工事しますと聞かされた。
なんとお隣さんの玄関前道。

ガス漏れで爆発とか陥没とかするの?
と聞いたら今のところ大丈夫ですっていうけど、…

1時間後、工事現場に立ち会うガードマン探して20社以上当たったけど見つからないから工事できなくて、19時開始になると追報告受ける。
今はガードマンが居ないと工事できないというルール規制もいかがなものかと思う。


聞いてた通り19時数分前から工事音が始まる。

20:33撮影。
一箇所は補修できたがもう一箇所見つかったって。

戦後すぐに適当なインフラ工事からスタートしたという地域です。
ガス管も水道管も、70年程経過したら耐用年数過ぎてあちこち劣化も当然。
適宜取替えてるとは思ってましたが、実態はどうなんでしょう。
日本中あちこちで抱えてる問題なんだろうと記録残しておきます。

★3/13追記
朝明るくなってから確認行くと


小さな穴が両端に二箇所開いてました。
もしまだ漏れてた場合空中に逃すため?



三国街道塩沢宿でガイド9の啓示は

2017-03-12 | 旅・関東&中部&北陸地方


いろいろ思うとこあり、去年10月から半年もあけずに再訪の越後旅でした。

昨日3/11夕方の投稿した雪深い画像は、340年の歴史ある造り酒屋さんの入口で撮影したもの。
雪積もってるし降ってるしで、ふだん雪に縁なく暮らしてるのでうれしかった。
大晦日の永平寺、1月22日夕方からの大雪寸前の鳥取砂丘、2月最初の金剛山、どこも雪なく、やっとあえた雪(^○^)V

越後旅最終日は朝9:30に越後湯沢駅前のホテルを出発し、30分足らずで塩沢宿に到着しました。





カマキリはその冬の積雪量を予想して卵産むんですってね。
過去の積雪高さが記されてました。





三国街道は江戸から群馬の高崎、越後の寺泊を結ぶ重要な街道です。
佐渡の金や受刑人だけでなく、塩沢紬や米も行き交いました。
上杉謙信の越後からの戦路でもありました。



三国は越後と信州と上野なんですね。
和泉と摂津と河内の国の境にあった三国丘高校出身なので、三国に人よりは反応してしまいます。




ガイドさんの旗には天地人 9
塩沢宿目ぬき通りの名は牧之通りといい、それは鈴木牧之(ぼくし)から。
鈴木氏家紋も、丸に九枝笹でここでも9で、おまけに笹ですやん。

家に帰ってめねふねさんのブログ訪問したら、ちょうど昨日投稿された記事でも「9の神託...」がキーワードに。

ガイドさんの塩沢紬のベスト背中に大きく「愛」の赤い刺繍が目に留まります。
9の啓示は「愛」ということでしめさせてもらいましょ。


★3/14画像追加






maari さんがコメントで書いてくださった薄荷糖と雁木、そしてマンホールの蓋画像です。

塩沢宿は現在南魚沼市ですが、かつては旧南魚沼郡塩沢町、
それで汚水マンホール蓋の中央には旧町章が記されているのですね。
周りの模様は何かと調べたら、雪の結晶らしいです。




あの日をわすれない

2017-03-12 | 世情雑感
秋篠宮さまが追悼のおことば「深く心が痛みます」(17/03/11)




全文
6年前の3月11日午後2時46分、私たちが今までに経験をしたことがない巨大な地震とそれに伴う津波が、東北地方太平洋沿岸部を中心とした東日本の広範な地域を襲いました。そして、この地震と津波によって、2万人近い人が命を落とし、また2500名を超える人の行方がいまだ知られておりません。
ここに、本日、参集したすべての人々と共に、震災によって亡くなった方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。この6年間、被災地においては、人々が互いに助け合いながら、数多くの困難を乗り越え、復旧と復興に向けた努力を続けてきました。
そして、そのことを支援するため、国内外の人々が、それぞれの立場において、様々な形で力を尽くしてきました。その結果、安全に暮らせる住宅の再建や産業の回復、学校や医療施設の復旧などいくつもの分野において着実な進展が見られました。また、原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされた地域においても、帰還のできる地域が少しずつではありますが広がってきております。今まで尽力されてきた多くの関係者に対し、心からの感謝と敬意を表するとともに、復興が今後さらに進んでいくことを祈念しております。
しかし、その一方では、被災地、また避難先の地で、困難な生活を強いられている人々が今なお多くいます。特に、避難生活が長期化する中で、年々高齢化していく被災者の健康や、放射線量が高いことによって、いまだ帰還の見通しが立っていない地域の人々の気持ちを思うと深く心が痛みます。困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく、平穏な暮らしを取り戻すことができる日が来ることは、私たち皆の願いです。東日本大震災という、未曽有の災害のもとで、私たちは日頃からの防災教育と防災訓練、そして過去の災害の記憶と記録の継承がいかに大切であるかを学びました。この教訓を決して忘れることなく、私たち一人ひとりが防災の意識を高めるとともに、そのことを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られることを強く希望いたします。様々な難しい課題を抱えつつも、復興に向けてたゆみなく歩みを進めている人々に思いを寄せつつ、一日も早く安寧な日々が戻ることを心から願い、御霊への追悼の言葉といたします。