秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

野江の水神社と水流地蔵尊は共に1885年、、、

2023-10-19 | おでかけ・近畿
17日は神嘗祭で神吉日でしたので、天神橋筋からの帰りにもう一箇所。


大川(旧淀川)に架かる源八橋を渡りました。
ずーっと向こうに見えるのが、往路に渡った桜宮橋です。

橋の由来の記銘版、逆光で見えませんね。

この場所に初めて橋が架けられたのは昭和11年6月のことで、それまでは渡しが唯一の交通手段であった。この渡しは、江戸時代、元禄末(1700年頃)には、すでに「源八渡し」として知られていた。この名の由来は、川の中程に「源発」という名の砂洲があったことにもとづくと言われ、また、「中野の渡し」とも呼んだ。
右岸は大阪城代配下の与力などの役宅が並び、左岸はのどかな農村地帯であったが京街道にも近く、梅や桜の名所でもあったので渡しは大変賑わったという。
この渡しも、架橋とともに姿を消し橋名に名を留めるのみとなった。
「源八を わたりてうめの あるじかな」  蕪村



しばらく大川沿いを走り都島橋で、地下鉄谷町線上の道を右折。
都島駅過ぎて、野江内代駅で昔の京街道に合流。
ちょうどそのゆるやかなカーブの所にあるのが、

野江水神社。




鳥居右手に並んで、野江水流地蔵尊。
1885(明治18)年の淀川大洪水の吉凶物語がありました。


水神社は、1533年10月三好政長(宗三)が榎並築城の際たびたび水害を被ったので、
水火除難の守護神として城内に小祠を建てて篤く祀ったのが、現在の社殿の位置だそうです。

2023-1533=490、ほぼ500年前ですね。

御祭神は、水波女大神 みずはのめのおおかみ

幾多の洪水を免れるも、1885年は未曾有の大洪水でついに倒壊し、1888年再建されました。


古代は淀川や大和川の流れが今と異なり氾濫多く、上町台地東側は河内湖。
この地に人が住み始めたのは奈良時代のようで、
菜種を栽培し菜種油を第46代孝謙天皇に献上し「油江村」の名を賜る。
いつしかなまって「野江村」になった。

その後、この地は榎並猿楽発祥の地に。
鎌倉末期、丹波猿楽の新座がこのあたりにできて、
南北朝時代には榎並座は丹波猿楽の楽頭として活躍した。
猿楽は後に観阿弥や世阿弥たちによって能楽として大成します。


一方、隣接の野江水流地蔵尊は、明治18年の淀川大氾濫で、この地に流れ着いた霊験あらたかな地蔵尊。
城東区民にとって、忘れてはならぬ出来事の証人として守り伝えられているそうです。


早めの七五三参拝で訪れる着物姿の幼児とご家族もみかけました。

境内通り抜け裏鳥居から出ると、ちょうど地下鉄駅への近道。
ということもあり人の絶えない、親しまれてる神社のようです。

2年前、鍼灸院へ自転車で通った道、6回も!
駅近く、水神社☞の看板が
今にしてやっと目に留まり😅











 





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