今朝ベイ・シティ・ローラーズ(以下BCR)のヴォーカリストだったレスリー・マッコーエンの急逝が報道され軽いショックを受けた。70年代半ば、筆者が洋楽に目覚めた中学生の頃、BCRは日本でアイドル的人気を誇っていた。クラスでも熱狂的な女子ファンが騒いでいて、キッスやエアロスミス好きな男子は“BCRはミーハー向け”と馬鹿にしていた。それを決定づけたのがNHKテレビの『ヤングミュージックショー』だった。BCRは全曲あからさまな口パクで演奏し、曲も聴かずに大騒ぎするファンに向かって手を振ってばかりで楽器を弾いていないのにギターの音が出ているのを見て「やっぱりBCRは楽器も弾けない偽物バンド」といった印象が定着してしまった。後で聞くと契約やギャラの関係で生演奏を拒んだそうだが、下手でもいいからライヴパフォーマンスを見せていれば評価は違っていたかもしれない。そんなわけで完全に馬鹿にしていたが、時々ラジオやレコード店でBCRがかかっているとぜんぜん悪くないどころか、ポップロックとしての完成度の高さに驚くこともある。レスリーの冥福を心からお祈りします。
Saturday Night - Bay City Rollers
ベイ・シティ・ローラーズの10年前、1966,7年頃に日本で大人気を誇った洋楽バンドがウォーカー・ブラザーズだった。元々アメリカ出身のスコット、ジョン、ゲイリーからなる3人組で「太陽はもう輝かない」「ダンス天国」「孤独の太陽」などのヒットを放ち、67年に初来日、ビートルズをしのぐほどのセンセーションを巻き起こした。特に学ランを着たスコット・ウォーカーの姿は、当時の日本のGSに熱を上げていた10代女子の目を洋楽に向けさせるきっかけとなったという。
The Walker Brothers - Land Of 1000 Dances (1966)
1967年にいったん解散し、メンバーそれぞれソロ活動をスタート(68年、75年に再結成)。スコット・ウォーカー(本名:スコット・エンゲル Scott Engel)は抒情派シンガーとして活動し、内省的・哲学的な歌世界を展開し、デヴィッド・ボウイやトム・ヨークなどに影響を与える。ジョン・ウォーカー(本名:ジョン・ジョセフ・マウズ John Joseph Maus)も正統派シンガーとして活動し、10数枚のシングルと7枚のアルバムをリリースした。
そして残りの1人、ドラマーのゲイリー・ウォーカー(本名:ゲイリー・リーズ Gary Leeds)が今回の主役である。
1942年3月9日生まれ。1962年末~64年、ロサンゼルスのガレージバンド、スタンデルズ The Standelsにドラマーとして参加。脱退後P.J.Probyのバンド・メンバーとして英国をツアー。ブライアン・ジョーンズと交友を深める。米国に帰国後ウォーカー・ブラザーズのスコットとジョンと出会う。ウォーカーズのサウンドが“スウィンギング・ロンドン”にピッタリだとして、ロンドン行きを説得。65年2月ウォーカーズのメンバーとなり、スコット、ジョンと共にロンドンに拠点を移す。その後ウォーカーズは大ヒットを放ち人気グループとなる。スタンデルズ~ブライアン・ジョーンズの流れから想像できるのはゲイリーは生粋のガレージサイケ好きではないか?ということだ。その証拠に1966年の2枚のソロシングル『夜明けに恋はない You Don't Love Me b/w ゲット・イット・ライト Get It Right』『トゥインキ―・リー Twinkie-Lee b/w すてきなあの娘 She Makes Me Feel Better』はどちらもガレージ感覚たっぷりの粗削りなサイケポップ。シングル曲はUK サイケ発掘ものコンピレーションに収録されている。
You Don’t Love Me
1968年1月ウォーカー・ブラザーズとして2度目の来日の際、日本のGS、ザ・カーナビーツと共にレコーディングしたのが『恋の朝焼け Cutie Morning Moon b/w ハロー・ゲイリー Hello Gary』。スコット・ウォーカーが作詞を担当、プロデューサーとしてレコーディングに立会った。ファズギターとコーラスが印象的なカーナビーツの演奏がメイド・イン・ロンドンに聴こえる本格的サイケポップ。B面はカーナビーツのカラオケに乗せてゲイリーがラリッタように「Hello How Are You?ミナサン コニチワ」と語り掛ける、ダニエル・ジョンストンもビックリのアシッド・ソング。
Cutie Morning Moon
ウォーカー・ブラザーズは実質的に67年5月に解散しており、ゲイリー・ウォーカーは次の活動のためにレインというバンドを結成した。メンバーは ゲイリー・ウォーカー(ds,vo)、ジョーイ・モランド Joey Molland (g, vo)、ポール・クレイン Charles "Paul" Crane (vo, g)、ジョン・ローソン John Lawson (b)。1968年1月にシングル『スプーキー Spooky b/w いつまでも僕のそばに I Can't Stand To Lose You』をUKポリドールからリリース。2ndシングル『孤独な影 The View』、3rdシングル『マガジン・ウーマン Magazine Woman』、さらに1969年1月リリースの唯一のアルバム『アルバム No.1 Album No.1』は日本のみのリリースだった。68年7月にレインは来日し、ザ・カーナビーツを前座に日本ツアーを行い人気を博したというから、日本のレコード会社の要望でアルバムが制作されたのかもしれない。ロンドンの霧に七色の閃光が光るようなドラム&ベースのビートとファズギターで幕を開けるアルバムは、サージェント・ペパーズ症候群の感染拡大を露わにするとともに、ゲイリーがスタンデルズ以来追い求めてきたガレージサイケへの憧れが最大限に開花した夢のサウンドといえるだろう。
Gary Walker & the Rain - The Sun Shines
アルバムの後69年にUK Philipsからシングル『Come In You'll Get Pneumonia』をリリースしレインは解散。ポール・クレインはプロデューサーに、ジョン・ローソンはハニカムズの後継バンドLaceに加入、ジョーイ・モランドはバッドフィンガーのメンバーになる。ゲイリーは英国滞在許可期間が切れたため米国に帰国。75年に英国に戻りウォーカー・ブラザーズ再結成に参加、78年に再び解散。79年にイギリス人女性バーバラと結婚し、公の場から姿を消し、特殊な樹脂混ぜた砂を使って城や船など様々な模型を作る事業を始めた。2005年に27年ぶりにステージに登場しジョン・ウォーカーと共演したという。2007年にジョンと共にラジオ出演した動画を見つけた。しかしジョン・ウォーカーは2011年5月7日に死去、スコット・ウォーカーも2019年3月22日に没したため、現在79歳のゲイリーがウォーカー・ブラザーズの最後の生き残りとなってしまった。願わくば長生きしてほしいものである。
Gary & John Walker with Mike Quinn Part 1
「サイケデリックは精神の在り方である。サウンドエフェクトやファッションやアートワークの見せかけのギミックに騙されるな」と90年代のサイケマニアは悟ったように語ったものだが、サイケはもっと自由で多様性があることが明らかになった2021年現在、ゲイリー・ウォーカー&ザ・レインのような埋もれた宝石に現を忘れて耽溺するのが、21世紀のサイケデリアの正しい在り方のひとつであることを声を大にして宣言したい。
アイドルは
ガレージサイケの
夢を見る