昨年末から約4か月間に及んで行われたジオガイド養成講座の中で、島内6つの地区の方から、地域ごとの暮らしや歴史を聞く機会がありました。
その中で印象深かったのが、命がけで差木地村(さしきじむら)のために働いた“藤内さん”の物語でした。
その藤内さんのことが、絵本になりました!
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とても素敵な本なので、印刷製本した差木地のOさんの承諾を得て、内容のごくごく一部を紹介します。(今日の前半の写真は絵本より)
今からおよそ180年ぐらい前(?)、伊豆大島は5つの村に分かれていました。
今の一周道路はなかったので隣の村に行くにも一苦労。
それぞれ別々の村として暮らしていました。
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村には、船を持ち、漁をしたり、大島でできたものを船で江戸に運んだりする「浦方」と呼ばれる2つの村と、山の木で薪を作ったり、海水から塩を作ったりする「山方」と呼ばれる3つの村がありました。(西暦1800年に波浮が開港し浦方は3つになりました)
「山方」は船を持つことが禁じられ、島の外の人々との付き合いがなかったため、読み書きもできず、朝から晩まで山や畑で働いて、イモや、アワ、ヒエなどを食べて暮らしていました。
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さらに三原山の噴火による降灰の凶作が続き、天保の大飢饉(1833年〜1839年)では、差木地村で20数人の餓死者も出るほどでした。
船を持つことが禁じられていたので、海に出て魚をとることもできなかったのです。
当時は、にいしま村(今の元町)が全島を支配する決まりになっていました。
藤内さんは「自分たちも船を持ち、自分たちのことは自分たちで決め、取った魚や薪などを自分たちで売りに行ったら、暮らしは楽になるだろう」と考えました。そこで同じ思いを持っていた人たちを誘い、幕府に訴えることにしたのです。
その頃、秋広平六さんという人が、津波で外海と繋がった噴火口を人力で港に変え、飢えのない村(波浮村)を作っていました。
藤内さんたちは海岸や山の獣道を何キロも歩き、平六さんから文字を習って訴状を書きました。
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訴状は30通にも及んだそうです。
代官所への訴状が効果がなかったため、藤内さんたちは上京し、当時の老中水野忠邦に「かご訴え」をして捕まります。
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その頃は幕府に手紙を出して訴えるだけでも牢屋に入れられる時代。
大名などの乗るかごの前に出て訴えることは大きな罪で、その場で斬り殺されることにもなりかねない行為だったようです。
藤内さん達の手鎖の刑(手錠をしたまま自宅謹慎)は3ヶ月、入牢の刑は2ヶ月に及びました。
でもついに、命がけの訴えが実を結び1841年に回船1そう、漁船3そうが「食料を確保するため」という条件付きで認められました。
これら一連の事件は「藤内事件(塩辛船事件)」と呼ばれているそうです。
差木地村に続き、残り2つの「山方」の村も行動を起こし、1848年についに6つの村の立場が平等となったのだそうです。
絵本を読んで「今の伊豆大島の「あたりまえ」の暮らしは、こうやって昔の人々の勇気ある行動の上に、作られてきたものだったのだなぁと思い、感動しました。
絵本は差木地小学校の子どもたちが調べたことを元に担任の先生が描いた紙芝居を、Oさんが印刷製本した非売品ですが、町の図書館や元町の藤井工房という喫茶店で読むことができます。
機会があれば、美味しいコーヒーを飲みながら、島の昔の暮らしに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
ところで、絵本を読んで興味を持ったので、先日差木地に藤内さんたちの記念碑とお墓を見に行ってきました。
漁港のそばに、名前が刻まれた碑がありました。
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背景の物語を知ったことで、碑の存在が、ぐんと身近になりました。
お墓は林浦寺(リンポジ)にありました。
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お墓を探していたら、素晴らしいタイミングで住職さんと出会い、案内してもらいました。
そして住職さんはなんと、5年前の土砂災害の後に私のツアーに参加してくれた方でした!(ジオガイド養成講座でも時々お見かけしました)
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ジオパークをきっかけに、様々なことがつながっていくことを、改めて「楽しいなぁ〜」と思いました。
(かな)
その中で印象深かったのが、命がけで差木地村(さしきじむら)のために働いた“藤内さん”の物語でした。
その藤内さんのことが、絵本になりました!
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とても素敵な本なので、印刷製本した差木地のOさんの承諾を得て、内容のごくごく一部を紹介します。(今日の前半の写真は絵本より)
今からおよそ180年ぐらい前(?)、伊豆大島は5つの村に分かれていました。
今の一周道路はなかったので隣の村に行くにも一苦労。
それぞれ別々の村として暮らしていました。
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村には、船を持ち、漁をしたり、大島でできたものを船で江戸に運んだりする「浦方」と呼ばれる2つの村と、山の木で薪を作ったり、海水から塩を作ったりする「山方」と呼ばれる3つの村がありました。(西暦1800年に波浮が開港し浦方は3つになりました)
「山方」は船を持つことが禁じられ、島の外の人々との付き合いがなかったため、読み書きもできず、朝から晩まで山や畑で働いて、イモや、アワ、ヒエなどを食べて暮らしていました。
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さらに三原山の噴火による降灰の凶作が続き、天保の大飢饉(1833年〜1839年)では、差木地村で20数人の餓死者も出るほどでした。
船を持つことが禁じられていたので、海に出て魚をとることもできなかったのです。
当時は、にいしま村(今の元町)が全島を支配する決まりになっていました。
藤内さんは「自分たちも船を持ち、自分たちのことは自分たちで決め、取った魚や薪などを自分たちで売りに行ったら、暮らしは楽になるだろう」と考えました。そこで同じ思いを持っていた人たちを誘い、幕府に訴えることにしたのです。
その頃、秋広平六さんという人が、津波で外海と繋がった噴火口を人力で港に変え、飢えのない村(波浮村)を作っていました。
藤内さんたちは海岸や山の獣道を何キロも歩き、平六さんから文字を習って訴状を書きました。
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訴状は30通にも及んだそうです。
代官所への訴状が効果がなかったため、藤内さんたちは上京し、当時の老中水野忠邦に「かご訴え」をして捕まります。
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その頃は幕府に手紙を出して訴えるだけでも牢屋に入れられる時代。
大名などの乗るかごの前に出て訴えることは大きな罪で、その場で斬り殺されることにもなりかねない行為だったようです。
藤内さん達の手鎖の刑(手錠をしたまま自宅謹慎)は3ヶ月、入牢の刑は2ヶ月に及びました。
でもついに、命がけの訴えが実を結び1841年に回船1そう、漁船3そうが「食料を確保するため」という条件付きで認められました。
これら一連の事件は「藤内事件(塩辛船事件)」と呼ばれているそうです。
差木地村に続き、残り2つの「山方」の村も行動を起こし、1848年についに6つの村の立場が平等となったのだそうです。
絵本を読んで「今の伊豆大島の「あたりまえ」の暮らしは、こうやって昔の人々の勇気ある行動の上に、作られてきたものだったのだなぁと思い、感動しました。
絵本は差木地小学校の子どもたちが調べたことを元に担任の先生が描いた紙芝居を、Oさんが印刷製本した非売品ですが、町の図書館や元町の藤井工房という喫茶店で読むことができます。
機会があれば、美味しいコーヒーを飲みながら、島の昔の暮らしに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
ところで、絵本を読んで興味を持ったので、先日差木地に藤内さんたちの記念碑とお墓を見に行ってきました。
漁港のそばに、名前が刻まれた碑がありました。
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背景の物語を知ったことで、碑の存在が、ぐんと身近になりました。
お墓は林浦寺(リンポジ)にありました。
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お墓を探していたら、素晴らしいタイミングで住職さんと出会い、案内してもらいました。
そして住職さんはなんと、5年前の土砂災害の後に私のツアーに参加してくれた方でした!(ジオガイド養成講座でも時々お見かけしました)
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ジオパークをきっかけに、様々なことがつながっていくことを、改めて「楽しいなぁ〜」と思いました。
(かな)