今日は、ご両親&高校生の息子さんのツアーで、三原山を歩いて行きました。
(ご両親は、お2人とも物理の先生だそうです。)
元気に枝を伸ばす「小松君」と青空の組み合わせが、とても爽やかな歩きはじめでした。
しかし・・・
朝の天気予報では午前中はそれほど風が吹かない予報だったのに、歩きはじめ(9時頃)から、風がゴォ~っと唸っていました。
寒いので、休憩はこの場所で・・・。
かまぼこ形の画面の中を、白い雲が動いていくのが面白いです。
火口展望所も、時々足を取られるぐらいの風が吹いていました。
息子さんは動じていませんが、右側のお父さんの姿が、風の強さを現しています。
強風ではありましたが皆で相談した結果、未舗装の西側斜面をおりることになりました。
斜面は下から風が吹き上げてくるので、山の稜線ほど足元がすくわれることはありません。
最初の下りはじめだけ、気合いを入れて・・・
後半は余裕で、フカフカの地面を楽しみながら下山しました。
2回目の休憩。
予想よりずっと風が弱く、寝転がって、青空を流れる白い雲を見上げるのは最高の気分でした。
「ここで以前お客様が、雲ができる場所を見つけたんですよね。」という話をしたところ・・・
真剣に探してくれました。
そして・・・
「あ、あそこじゃない?ほら、2つの小山の間・・・」
「あ、ほんとうだ!」
あっさり見つけてくれました。
さすが、理科系のご両親です!←意味不明?
キョン(小型の鹿)も活発に活動しているようで、あちらこちらに足跡が残っていました。
天気が良いと、気分が良いのでしょうか?
溶岩が集落に流れ出るのを防ぐために作られた壁では、
「近くで見たい」という希望が出て・・・
親子で壁登り!
やった~!
そして、親子で壁下り!
やった~!(2回目)
ポーズ、決まっていますね。
半日コースを歩き終わって、山頂ジオパーク展にヘルメットを返しに行ったら、先に部屋に入ったお客様が、熱心にガイドの説明を聞いていました。
「成分は同じでも、でき方によって色や重さが違うんですね。」と興味深そうに溶岩を観察する皆さん。
さすが理科系のご家族です!
さて、港に向かう帰り道、少しだけ波治加麻神社に立ち寄りました。
黄色いイイギリやイヌビワの葉がコケの上に落ちて、明るい森でした。
森で出会った地元の方の話では、地面のコケを傷つけないようにするため、1本1本草を丁寧に抜いているとのこと。
そして、地域のために働いた25人の若者たちを祀った祠は、お供えが置かれていました。
きちんと手入れをされた森に、暖かさを感じました。
今日も素敵な1日でした。
1年間、さまざまな感動をくれた「地球」に感謝!
(カナ)
追記
25人の若者たちの物語は伊豆大島では「ヒイミサマ」と呼ばれています。
これについてジオパーク研究会事務局の田附氏から、詳しい情報をいただきました。
「25人衆の首謀者は母方の先祖かも?」という可能性もあるそうです。
貴重な情報なので、了解を得てコピーさせていただきました!
以下、田附さんより。
ヒイミサマ (火忌様)とは現在ワタシの住んでいる集落を起源とする伝承に基ずくもので,客観的には奇習ともいえる行事のことです
具体的には1月24日朝.住居の各面の羽目板にトベラと野蒜(ノビル) をかざした後,玄関および四周に決められた磯から拾ってきた小石を置き海水を少量注ぐ。神棚には半紙を敷いた上に25個の餅をトベラ,野蒜とともに供え,行事が済んだ後にはその餅をお守りとして家族それぞれが持ち歩く。残った餅はいただく。
当日は朝からできるだけ海を見ないようにすること。 当夜は大声・大音を控えそうそうに寝付くこと。大戦前には他地区からの交通もストップしたようで電報配達夫さえも追い返されたと記している文献もあります。15才年長の兄の世代は他地区にあった高校を早退して帰宅したようです。
こんなところが主な行事です.
この行事の由来ですが,
往昔悪代官が 当集落(泉津)にいて甚だしく村民を苦しめたので当時の若者25名が相謀って,正月24日夜これを撲ち殺し,波治加麻神社境内の大木を伐って一夜のうちに丸木舟を造り,これに乗って遁げ去った.海上を利島・新島・神津島と順次漕ぎつけ,ことに新島・神津島では 上陸を懇請したけれども後難を恐れていずれも拒絶したので空しく漂流して残らず溺死した。その亡霊が忌日の正月24日の夜,丸木舟に五色の旗を立てて泉津の前浜にくるという,これが古来からの伝承である。
「伊豆大島志考 立木猛治著 昭和36年版 583頁記載」
ということで.この風習は大島以南の島 利島・新島・神津島ではカンナンボウ又は カンナンボウシなどと呼ばれ少しずつ異なるアレンジを施されながら今でも続いているようです。
住民のために蜂起して非業の死を遂げた人たちを恐れるというのは何か不合理な感じもありますが,心情的にはむしろピンと来るのは農耕民族の習性からなのでしょうか.。
この伝承がどの程度正確に事実を伝えているかは不明ですが,ワタシは320年ほど昔の出来事と考えています。 (幕府の正史には泉津で役人が殺されたという記録は無いそうです)
なお,泉津のような小集落に代官が配置されていたことはないので,被害者は手代(代行者)だったと思います。
(2007年にmixiにアップした記事を修正転記しました)