2月の広報と一緒にチラシが配られると思いますが、2月19日の夜に「この島で生きるために~ジオパークと防災IN大島」というシンポジウムが開かれます。
津波被害にあった三陸、2000年噴火で全島民が4年5ヶ月に及ぶ島外避難を経験した三宅島から講師を招き「他地域の経験に学ぶこと」を目的としたシンポジウムです。
きっと意義のある時間になると思いますが、参加できない人もたくさんいるはず…で、できるだけ平等に情報を届けるために小冊子を作ることになりました。
三陸、三宅島、大島から、主に“伝え手”となっている人に、質問に答える形で文章を寄せてもらい、まとめています。
その中で婦人会副会長の坂本さんに、話しを聞く機会がありました。とても良い話しだったので、数行の文章のみで終わらせるのはもったいなく思えて、ご本人の了解を得てブログに載せさせていただくことにしました。
まずはプロフィールを。
坂本靖子さん。
保育士歴42年。S56年からは園長。退職後山頂ジオパーク展のガイドをしてくれています。婦人会は岡田支部・支部長を5期目。
坂本さんは大島で、今までに様々な災害を体験したそうです。
以下は坂本さんの話しから…。
狩野川台風
1958年、雨量419mmで山津波
死者1、行方不明者1 家屋全壊55戸 半壊49戸
中学生だった。大雨が降って沢を見に行ったら崩れてきた。怖くなって、おばあちゃんをおぶって高いところに上がった。次の日から学校では毎日泥かきだった。1人亡くなり2人流された。
元町大火
1965年 風速30mを超す強風に日に出火、全焼584棟 418戸
19~20歳頃。
大島から、保育学校へ行くため東京へ戻った翌日に火事があった。すぐ島に戻ったら辺り一面真っ黒でなにも無くなっていた。道もわからない。目の前の光景が信じられなかった。自宅は、消防が屋根に上って放水したため屋根が落ち、つぶれていた。家財道具は沢に捨てたが、これもみんな無くなった。家が焼けていないので救援物資ももらえなかった。
1986年噴火
山腹割れ目噴火により、全島民が1ヶ月避難
娘は小学6年、息子は年長。息子の753の祝い中に噴火が始まり見に行った。最初のころは「毎日見に行きたいね」などと話していたが、その後の山腹割れ目噴火で全島避難となった。高齢の母が「絶対行かない」といい、動かないので、避難させるのが大変だった。一時的に伊東の体育館に入り、風呂屋に行ったら、下着から何から一式用意されていてありがたかった。その後、文京区茗荷谷のスポーツセンターに約1ヶ月、生活した。島から次々人が来たが、子どもは少なかった。バイキングが最初の食事。食事順を決めたり、呼びかけて歩く仕事をした。子ども達が退屈してさわぐようになり、保育の必要を感じ、公立、私立合同の園長会をひらき、各避難所ごとに保育園をはじめた。小中学生は避難先で学校に通っていたが、溶け込めない子もいたようだ。10日間ぐらい保育をし、帰島。
帰島後翌日には保育を再開した。誰も来ないかと思ったら、4~5人の子どもが来た。
この時の噴火で「もう大島に住むのは嫌だ」と言って、島を出た人もいた。
台風26号土砂災害
36人が亡くなり3名行方不明。
災害が起きたことを知り、16日の日中に、オニギリとおかずを作って開発総合センター(町役場)に届けに行った。みんな口も聞けない状態で、ボーっとしていた。このことがきっかけになって、17日から婦人会としての炊き出しが始まった。
保育士在職中は、いつも子ども達のことを考えていた。「安全か?」「どうしているか?」など。だから子どもが病気で亡くなった経験が、一番つらかった。自分自身も癌を煩い、闘病中に夫を癌で亡くした。病気なって支えられることのありがたさを感じた。
70年生きてきて災害や病気などを経験し、1人じゃないと感じる。人は1人では生きられない。噴火などの災害を経験した大島の人は皆、感謝の気持ちを持っていると思う。東日本大震災の義援金も赤い羽募金も皆、協力的。
噴火も今度の災害も、人がやる技じゃない。
ショックは受けるし悲しい時は思い切り悲しむが、受け止めて、どこかで前を向いて行かなければ。
自分の命を守るのは自分と思い、リュックにいつも避難準備をしている。でも同時に人のことも、気にかけていたい。大島に生まれて育った人は、お祭りにはみな関わるので、つながりが育つ。今回の災害で被害にあった人たちにも、様子を見に行ったり声をかけたりなど、1回だけじゃなく継続して関わりを持つことが大切だと思う。
ジオパークに出会い、山頂ジオパーク展で語る機会を与えられて感謝している。人との出会いも、楽しんでいる。
2年連続でジオパークを研究に来た大学生を、自宅に呼んで話をした。ジオパークで話を聞いた高校の先生に「是非その話を生徒にしてほしい」と言われ、話してきた。
(左が3年前の坂本さん)
忘れないことが大事だと思っている。自分の経験を語っていきたいと思う。
坂本さんの話は以上です。
数々の大変な経験を経ても、感謝して前向きに生きられる…スゴイです。
坂本さんの実体験を通して語られる言葉に、惹きつけられました。
スゴイ人がいっぱいいる伊豆大島は、本当に素敵な島だと思います。
心から、そう思います。
(カナ)
津波被害にあった三陸、2000年噴火で全島民が4年5ヶ月に及ぶ島外避難を経験した三宅島から講師を招き「他地域の経験に学ぶこと」を目的としたシンポジウムです。
きっと意義のある時間になると思いますが、参加できない人もたくさんいるはず…で、できるだけ平等に情報を届けるために小冊子を作ることになりました。
三陸、三宅島、大島から、主に“伝え手”となっている人に、質問に答える形で文章を寄せてもらい、まとめています。
その中で婦人会副会長の坂本さんに、話しを聞く機会がありました。とても良い話しだったので、数行の文章のみで終わらせるのはもったいなく思えて、ご本人の了解を得てブログに載せさせていただくことにしました。
まずはプロフィールを。
坂本靖子さん。
保育士歴42年。S56年からは園長。退職後山頂ジオパーク展のガイドをしてくれています。婦人会は岡田支部・支部長を5期目。
坂本さんは大島で、今までに様々な災害を体験したそうです。
以下は坂本さんの話しから…。
狩野川台風
1958年、雨量419mmで山津波
死者1、行方不明者1 家屋全壊55戸 半壊49戸
中学生だった。大雨が降って沢を見に行ったら崩れてきた。怖くなって、おばあちゃんをおぶって高いところに上がった。次の日から学校では毎日泥かきだった。1人亡くなり2人流された。
元町大火
1965年 風速30mを超す強風に日に出火、全焼584棟 418戸
19~20歳頃。
大島から、保育学校へ行くため東京へ戻った翌日に火事があった。すぐ島に戻ったら辺り一面真っ黒でなにも無くなっていた。道もわからない。目の前の光景が信じられなかった。自宅は、消防が屋根に上って放水したため屋根が落ち、つぶれていた。家財道具は沢に捨てたが、これもみんな無くなった。家が焼けていないので救援物資ももらえなかった。
1986年噴火
山腹割れ目噴火により、全島民が1ヶ月避難
娘は小学6年、息子は年長。息子の753の祝い中に噴火が始まり見に行った。最初のころは「毎日見に行きたいね」などと話していたが、その後の山腹割れ目噴火で全島避難となった。高齢の母が「絶対行かない」といい、動かないので、避難させるのが大変だった。一時的に伊東の体育館に入り、風呂屋に行ったら、下着から何から一式用意されていてありがたかった。その後、文京区茗荷谷のスポーツセンターに約1ヶ月、生活した。島から次々人が来たが、子どもは少なかった。バイキングが最初の食事。食事順を決めたり、呼びかけて歩く仕事をした。子ども達が退屈してさわぐようになり、保育の必要を感じ、公立、私立合同の園長会をひらき、各避難所ごとに保育園をはじめた。小中学生は避難先で学校に通っていたが、溶け込めない子もいたようだ。10日間ぐらい保育をし、帰島。
帰島後翌日には保育を再開した。誰も来ないかと思ったら、4~5人の子どもが来た。
この時の噴火で「もう大島に住むのは嫌だ」と言って、島を出た人もいた。
台風26号土砂災害
36人が亡くなり3名行方不明。
災害が起きたことを知り、16日の日中に、オニギリとおかずを作って開発総合センター(町役場)に届けに行った。みんな口も聞けない状態で、ボーっとしていた。このことがきっかけになって、17日から婦人会としての炊き出しが始まった。
保育士在職中は、いつも子ども達のことを考えていた。「安全か?」「どうしているか?」など。だから子どもが病気で亡くなった経験が、一番つらかった。自分自身も癌を煩い、闘病中に夫を癌で亡くした。病気なって支えられることのありがたさを感じた。
70年生きてきて災害や病気などを経験し、1人じゃないと感じる。人は1人では生きられない。噴火などの災害を経験した大島の人は皆、感謝の気持ちを持っていると思う。東日本大震災の義援金も赤い羽募金も皆、協力的。
噴火も今度の災害も、人がやる技じゃない。
ショックは受けるし悲しい時は思い切り悲しむが、受け止めて、どこかで前を向いて行かなければ。
自分の命を守るのは自分と思い、リュックにいつも避難準備をしている。でも同時に人のことも、気にかけていたい。大島に生まれて育った人は、お祭りにはみな関わるので、つながりが育つ。今回の災害で被害にあった人たちにも、様子を見に行ったり声をかけたりなど、1回だけじゃなく継続して関わりを持つことが大切だと思う。
ジオパークに出会い、山頂ジオパーク展で語る機会を与えられて感謝している。人との出会いも、楽しんでいる。
2年連続でジオパークを研究に来た大学生を、自宅に呼んで話をした。ジオパークで話を聞いた高校の先生に「是非その話を生徒にしてほしい」と言われ、話してきた。
(左が3年前の坂本さん)
忘れないことが大事だと思っている。自分の経験を語っていきたいと思う。
坂本さんの話は以上です。
数々の大変な経験を経ても、感謝して前向きに生きられる…スゴイです。
坂本さんの実体験を通して語られる言葉に、惹きつけられました。
スゴイ人がいっぱいいる伊豆大島は、本当に素敵な島だと思います。
心から、そう思います。
(カナ)