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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ヒトラーとユダヤ人

2022-05-03 22:49:43 | 歴史

 ヒトラーがユダヤ人を殲滅しようとしたことは、歴史的に明確である。

 ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ人だという。それをロシアの外務大臣は、こう発言した。

 「私が間違っているかもしれないが、ヒトラーにもユダヤ人の血が流れていた。(だからゼレンスキーがユダヤ系であることは)全く意味をなさない。最も過激な反ユダヤ主義者はたいていの場合ユダヤ人だと、賢明なユダヤ人は言う」

 ヒトラーにユダヤ人の先祖がいたという説はあるが、しかしそれは確定したものではない。ヒトラーの先祖にユダヤ人がいたという可能性はないわけではないが、だからといって、「最も過激な反ユダヤ主義者はたいていの場合ユダヤ人だと、賢明なユダヤ人は言う」という発言は許されない。

 ロシアにはユダヤ人がたくさんいて、ロシア人はユダヤ人を迫害していた。「ポグロム」はロシア語である。反ユダヤ主義を、プーチン政権の幹部が未だに持ち続けているということの証明でもあろう。

 

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藤森常次郎のこと

2022-02-06 16:52:18 | 歴史

 「静岡新聞」の記事を読んで思いだした。

 米飯の持参を始めたのは、当時磐田郡豊岡村の村長、藤森常次郎であった。豊岡村は磐田市に合併してしまったが、先進的な村政を展開していた。

 私は『豊岡村史』の執筆者として、すでにその頃は引退していた藤森氏を訪ねて何度かお話しを聴いたことがある。「持参米飯」については、新聞記事に任せることとして、他にも唸るような施策を行った。その施策を一緒になって考えたのは、その後村長になった佐藤茂雄氏であった。藤森氏も、佐藤氏も、アイデアマンであった。村のために何が出来るかを必死に考えた人達であった。今の首長には、おのれの栄達のために立候補した者が多いが、この二人は村のために、村民の利益のために働いていた。

 「持参弁当」のほか、田床改良事業。豊岡村は天竜川と磐田原台地をその村域としている。天竜川は、浜松市側の三方原大地と磐田原大地の間を自由に流れていた。したがって、平野部の地下には天竜川が運んできたたくさんの砂利が埋まっている。

 豊岡村の田地は、天竜川の冷たい伏流水が田床から湧いてくる。したがって米の出来は良くない。藤森は、地下に埋まっている砂利を販売し、その業者に田床をタダで改良させた。地下から冷たい湧き水の浸出を防ぐためだ。その結果、豊岡村の米の生産力はアップした。

 この方法は、天竜川の両岸で、今も行われている。

 豊岡村の景観は、今も農村そのものである。しかし工業生産高は高かった。藤森は、県内外の優良企業を誘致し、それも天竜川沿いの農業の不適地に工場を立地した。藤森氏は、これからは農業だけでは生活できない、工場などで働きながら農業を維持していくことが必要だからだ、と語っていた。誘致した企業は、ヤマハ、同和メタル、浜松ホトニクスなどである。現在浜松市に合併したが、当時の浜北市よりも工業生産高はずっと高かった。

 また計画的な土地利用のために、村全体を市街化調整区域にし、土地利用の規制をはかった(工場地区、農業地区として乱開発を許さないという決意であった)。磐田市に合併したあとそれは解かれ、規制は緩和された。

 また東名高速道路ができたとき、藤森氏は豊岡村の南側に盛り土ができるのはよくないとし、橋脚で建設させた。

 その他、村(村民)のためのユニークな施策を行った。全国的にも早い時期の予防医療への取り組みなど。そのすべてを書くことはできないが、私は豊岡村が磐田市に合併するという話しを聞いたとき、すでに藤森氏は他界していたが、藤森氏は悲しむだろうと思った。藤森氏は、日本一の村づくりを目ざしていたからだ。

 『豊岡村史』の戦後部分は、藤森村政を詳しく書いた。地方自治体の首長のあるべき姿を描いたつもりである。

 

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『性差の日本史』

2020-11-10 20:37:21 | 歴史

 国立歴史民俗博物館で、「性差の日本史」という展覧会が行われているそうだ。北原みのりさんのコラムで知った。

 行きつく先が「慰安婦」制度だった… 教科書では学ばない“性差”の日本史

 北原さんが疑問を持っているように、私もセックスワーカー論には違和感をもつ。セックスワーカーの人権は守らなければならないが、私は「性労働」がない社会こそあるべき社会だと思っている。  私には娘がいるが、娘がセックスワーカーになってほしくないし、万が一そういうことにでもなるなら私は体を張ってそれを止める。

 私は、「性差の日本史」の図録を注文した。

 

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2020大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭

2020-08-26 19:06:20 | 歴史
 1923年9月16日、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の3人が、甘粕正彦ら東京憲兵隊によって虐殺されたが、その墓が静岡市の沓谷霊園にある。

 毎年9月、午前11時から墓前祭が行われ、その後2時から追悼講演会を開催してきた。

 しかし今年は、新型コロナウイルスの流行が終息しないため、地元の者だけで墓前祭だけを執り行うことにした。9月12日である。

 翌日は、名古屋市の日泰寺で、橘宗一墓前祭が行われる。ここも、墓前祭だけを行う。13時からである。ただし、日泰寺の墓域はとても広いので、案内者がいないとたどり着けない。

 いずれにしても、今年は感染を避けることが優先されなければならないから、参加者も少ないはずである。
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ベートーベンはヨーロッパの音楽だから共産思想

2020-08-23 19:30:04 | 歴史
「ベートーベンはヨーロッパだから共産思想」だと断じる時代があった。そのDNAは今も、国家権力の担い手に受け継がれている。

でっち上げの治安維持法違反で逮捕された2人のその後
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〈翻訳〉パンデミックが底辺の人々を襲う

2020-05-19 10:32:17 | 歴史
From Black Death to fatal flu, past pandemics show why people on the margins suffer most

黒死病から致死性インフルエンザまで、過去のパンデミックは、底辺の人々が最も苦痛を受ける理由を示す

 1349年1月までに黒死病(ペスト)がロンドンに到達したとき、ロンドンは何ヶ月もの間、恐怖のなかにあった。ロンドンの人々は、前年60%の人々がペストで死亡したフィレンツェのような都市の荒廃の報告を聞いていた。1348年の夏、ペストはヨーロッパ大陸からイギリスの港に伝播し、首都に向かって猛威を振るい始めた。ペストは、発熱、嘔吐、血を吐く咳、皮膚の黒い膿疱、リンパ節の腫れなど、痛みをもちぎょっとするような症状を引き起こした。死はいつも3日以内に到来した。

 市は最善の方法を準備した。当局はできるだけ多くの犠牲者を神聖となった土地に埋葬するために、イースト・スミスフィールドと呼ばれる大規模な共同墓地を建設した。そこなら、審判の日、死者がキリスト教徒であることを 神が確認することができると 信者たちは信じた。命を救うことができないので、市は魂を救おうとした。

 そのインパクトは、恐れていたのと同じくらい恐ろしいものだった。1349年には、ロンドン市民の約半数が黒死病で死亡した。1347年から1351年にかけて、ペストはヨーロッパ人の30%から60%を殺した。恐ろしい時代を生きぬいた人々にとっては、誰もが安全ではないように思えた。人口の約半分を失ったフランスでは、歴史家ジル・リー・ミュイシスは「金持ちも中流階級も貧乏人も安全ではなく、それぞれが神の意思を待ち構えた」と書いている。

 しかし、イースト・スミスフィールドやその他の場所での注意深い考古学的・歴史的研究は、次のことを示している。すなわち社会的・経済的な不平等が交差することが、黒死病やその他の伝染病の道筋をつくった。古代社会における健康と不平等を研究しているアパラチア州立大学の生物考古学者グウェン・ロビンス・シューグは、「生物考古学やその他の社会科学は、この種の危機がそれぞれの社会の既存の断層線に沿って展開することを繰り返し実証してきた」という。最大のリスクにさらされているのは、すでに社会から疎外されている人々であり、パンデミック前の時代においても、健康を害したり、医療へのアクセスが制限されていたような差別に直面していた貧困層やマイノリティであったのである。さらにパンデミック自体も、既存の権力構造を弱体化させたり、 強化したりすることで、社会の不平等に影響を与えた。

 (中略)

 その現実は、COVID-19のパンデミックの間でも明確に示されている。COVID-19は、イギリスのボリス・ジョンソン首相や俳優のトム・ハンクスなど、世界の富裕層や権力者にも襲いかかったが、COVID-19 は平等な殺人者ではない。被害の大きかったニューヨーク市では、ラテン系と黒人の人々は白人の2倍の確率でCOVID-19で死亡している。そこのケースは貧しい郵便番号のところ、混雑したアパートに住んでいて、家で働くことができないか、別荘に逃げることができない人々の居住地である。

 「社会的不平等が示すのは・・・人々をより高いリスクに置いているということだ」と、黒死病を研究する歴史家、モニカ・グリーンは言う。「私たちは皆、忘れられない方法で、なぜ[コロナウイルスのパンデミック]がこのような形で起こったのかを、骨の髄まで学ぶべきです」。

 黒死病が発生したとき、ヨーロッパの多くの場所ではすでに苦しんでいた。13世紀後半から14世紀にかけて気候が冷え込み、天候が不安定だった。不作で、パンデミックが発生する前の約1世紀ほどの間飢饉が発生していた。歴史的記録によると、1315~17年の大飢饉では、イングランドとウェールズの人口の最大15%が死亡した。賃金が下がり、穀物価格が高騰したため、より多くの人々が貧困に追い込まれた。家計簿や英国の荘園で働く労働者への支払いの記録によると、1290年までに英国の家族の70%が貧困ライン以下で生活していたことがわかっている。その間、世帯の最も裕福な3%は国民所得の15%を受け取っていた。

 サウスカロライナ大学コロンビア校の生物人類学者シャロン・デウィッテは、ロンドンの中世の墓地から発掘された骨格を研究することで、これらの飢饉と貧困の増大が人々の健康にどのような影響を与えたかを調査している。黒死病に至るまでの世紀に死亡した人々は、その前の2世紀に死亡した人々に比べて背が低く、若くして死亡する傾向があった。また、ペストの前の世紀に生きていた人たちは、エナメル質の成長が中断され歯に溝が多く、栄養不良や病気、その他の生理的ストレスが幼少期に生じていたことを示している。

 しかし、大飢饉と1340年代までの低賃金の歴史的証拠から、大流行の直前までその傾向が続いていた可能性が高い、とデウィットは言う。

 健康状態が悪いとペストにかかりやすくなるかどうかを調べるために、デウィットはイースト・スミスフィールドから発掘された何百体もの骨に注目した。彼女は、埋葬された人々の年齢分布と、骨格にストレスの痕跡がある人々の平均寿命を計算した。彼女の厳密なモデルによると、高齢者やすでに健康状態が悪い人ほど黒死病で死ぬ可能性が高いことを示している。この病気に感染した人は全員が同じ死亡リスクにさらされていたという仮定に反して、「健康状態は本当に影響を与えていたのです」と彼女は言う。

 骨格は その人の社会階級を告知しないから、イースト・スミスフィールドに埋葬された特定の人物が金持ちか貧乏人かは デヴィットには わからない。しかし、当時も今もそうだが、社会の底辺にいる人々の間では、栄養失調や病気がより一般的だった可能性が高い。歴史的な証拠は、イングランドの富裕層が、増加する貧困層に比べて、(病気が)より軽く済んでいたかもしれないことを示唆している。たぶん富裕な英国の地主で疫病で倒れたのは27%、一方1348年と1349年の農村の小作農の数を見ると、死亡率はほとんどが40%から70%であった。デウィットは、人々の健康を損なった不平等な経済状況が「黒死病を必要以上に悪化させた」と主張している。

 その400年後、世界のから離れたアメリカ南東部にあるチェロキー族のコミュニティを天然痘が襲った。世界の他の地域では、発熱と膿疱の噴出を伴う天然痘が感染者の約30%を殺した。しかし、チェロキー族の間では、この恐れのある病原体が、感染者の命を救い、現在のようになった可能性が高いと考えられています。しかし、チェロキー族の間では、恐れられていた病原体がさらに壊滅的な被害をもたらしたと、ストーニーブルック大学の歴史学者、ポール・ケルトン氏は言う。

 植民地時代にネイティブアメリカンが病気による死亡率が高かったのは、後天的な免疫力の欠如が原因とされることが多い。しかし、社会状況が生物学的要因の影響を増幅させたのである。例えば、18世紀半ばに南東部で発生した天然痘の流行は、アングロ・チェロキー戦争と呼ばれる、チェロキー族のコミュニティに対するイギリス人の攻撃が激化したことと重なった。イギリスは焦土作戦を用いて、チェロキーの農場を燃やし、住民を強制的に家から追い払い、飢饉を引き起こし、天然痘をより多くのチェロキーのコミュニティに広めた。歴史家たちは、伝染病と戦争が終わる頃には、チェロキーの人口は記録に残る最小の規模にまで減少していたと考えている。戦争は「天然痘が壊滅的な効果を持つための条件をつくりだした」とケルトンは言う。

 植民地時代の暴力と抑圧によってアメリカ先住民が伝染病にかかりやすくなったことから、アメリカ大陸の先住民のコミュニティでも同様の悲劇が何百年にもわたって繰り返されたと、スタンフォード大学のユマン系アメリカ人考古学者マイケル・ウィルコックスは言う。土地を追われた先住民のコミュニティでは、きれいな水や健康的な食事を得ることができないことがよくあった。カトリックのミッションで暮らす人々は、過酷な労働を強いられ、ウィルコックスが「病気のためのシャーレ」と呼ぶような密集した環境で生活していた。16世紀のフロリダのスペイン人宣教師団に埋葬された人々の骨格には、黒死病以前のロンドンの墓地でデウィットが見つけたような不健康の兆候が多く見られた。
 このような抑圧とその生物学的な影響は、「『当たり前』のことではありませんでした。変えられるものだったのです」とウィルコックスは言う。

 一時期、植民地支配の外で生活していたネイティブアメリカンのコミュニティの対照的な経験が、彼の主張を裏付けている。そのコミュニティの一つが、カリフォルニア州のヨセミテ渓谷に住む狩猟採集民のアワヒチである。19世紀後半の記述によると、アワニチの酋長であるテナヤという人物が、1850年代に、白人入植者と直接接触する前、彼のコミュニティに蔓延した「黒い病気」(おそらく天然痘)について、アメリカ人の鉱山労働者や民兵のボランティアに話したという。カリフォルニア大学マーセッド校の考古学者キャスリーン・ハルは、この病気はおそらくミッションから逃れてきた先住民が運んできたものだろうという。

 彼女は谷で発掘調査を行い、そこにあった村の数、黒曜石の道具を製造した際に生じた瓦礫の量、樹木の年輪で明らかになった焼跡の変化などのデータを分析した。これらの指標は、1800年頃にアワニチの人口が30%減少したことを示唆している。伝染病が流行する前のアワニチの人口はわずか300人で、約90人の死者は壊滅的なものだった。

 酋長テナヤは民兵ボランティアに、黒い病気の後、アワニチは伝統的な家を離れ、東部のシエラネバダ山脈に移り住んだと話した。そこではアワニチは支援を受け、長期的には結婚によってコミュニティを再構築する機会を得ることができ、約20年後、彼らは谷間の故郷に戻り、数を増やし、文化を保存した。

 ハルのデータは、その説明を支持し、アワヒチは20年間彼らの谷を残したことを示している。彼女は、彼らの出発と彼らの生活様式への復帰を、回復力の表れだと見ている。「本当に困難な出来事にもかかわらず、彼らは辛抱していました」と彼女は言う。

 アワニチの経験は稀なものだった。20世紀の変わり目までに、多くの先住民コミュニティは、伝統的な食料源や基本的な医療へのアクセスがほとんどないまま、人里離れた居留地に移動することを余儀なくされた。1918年にインフルエンザが流行したとき、先住民族は「米国の他の人口の約4倍の割合で死亡しました」と、ミシシッピ大学オックスフォード校の医療史研究家、ミカエラ・アダムスは言う。「その理由の一部は、彼らがすでに極度の貧弱な健康状態、貧困、栄養失調に苦しんでいたことにある」と。

 中には特に極端なケースもあった。例えば、ナバホ族はパンデミックで12%の死亡率を記録したが、世界全体の死亡率は2.5%から5%と推定されている。ミズーリ大学コロンビア校の人類学者であるリサ・サッテンシュピールによると、カナダとアラスカの遠隔地にあるいくつかの先住民族のコミュニティは、パンデミックで最大90%の人々を失ったという。

 今日、コロナウイルスの大流行の間、ナバホネイションでは、ニューヨークとニュージャージーを除くどの州よりもCOVID-19の一人当たりの症例数が多いと報告されているが、保留地での検査率も高い。COVID-19の合併症の危険因子である糖尿病は保留地では一般的であり、多くの人々は貧困の中で生活しており、中には水道のないところもある。

 コロラド大学アンシュッツメディカルキャンパスの遺伝学者と公衆衛生の研究者であり、ナバホ族のメンバーであるレネ・ベゲイは、コロナウイルスの大流行は、数世紀にわたる差別と無視によって引き起こされた危機であることを示しているという。
 しかし彼女は、ナバホ族の人々の伝統的な名であるディネを従順な犠牲者として特徴付けることに対して注意を喚起する。「私たちはパンデミックを経験してきた。私たちはまたパンデミックを経験することができる」と。

※ 疲れたからここで中断。気がついたら2時間近くが経過していた。
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黒羽さんと藤村の『破戒』

2020-03-23 20:55:34 | 歴史
 ナカニシヤ出版から『歴史書の愉悦』(2019年刊)という本が出ている。先日これを図書館から借りだして読んでみた。いろいろな歴史書を紹介しているのだが、そのなかに黒羽清隆さんの本が入っていた。

 黒羽さんは、1987年6月に亡くなっている。あれから30年以上が経過していることに驚いた。私は黒羽さんの葬儀に参列している。当時黒羽さんは静岡大学教授で、私が属している研究会の会員でもあった。

 黒羽さんは東京教育大学を卒業し、中学校や高校の教員を経て、またNHK高校講座の日本史担当も長く担当し、その間たくさんの教育書、研究書を著して、静岡大学に赴任した。

 私は学生時代に黒羽さんのことを知った。仲良くしていた東京都立大学附属高校出身の、黒羽さんの授業を受けた学生から、すごい授業だったという話を聞いていたのだ。忘れられないほどの授業って、どういうものだろうかと思った。
 その頃から黒羽さんの著書を読み始めた。博識であると同時に、得た知識をどのように配列して語るかという点で天才的だと思った。また研究書も、普通の近現代史学者と異なった視点からのものが多かった。その分新鮮な刺激を受けた。黒羽さんの本は、書庫に並んでいる。

 『歴史書の愉悦』を読み、黒羽さんの本を読みたくなった。図書館から、静岡大学の講義録をまとめた『歴史を楽しむこと、歴史に参加すること』(明石書店、編集は池ヶ谷真仁さん。熱烈な黒羽ファンの一人である)を借りだした。

 それを読み始めたら、島崎藤村の『破戒』についての記述があった。黒羽さんは初版本を読むことを勧めていた。今流通している『破戒』と初版本は、内容が異なるというのだ。知らなかった。最初の出だし、初版は「蓮華寺では下宿を兼ねた」とある(青空文庫の「破戒」は初版)が、現在流布されている版は「蓮華寺では広い庫裏の一部を仕切って・・・」となっているそうだ。黒羽さんは、初版本のほうがリアリティがあると言う。「」という文字をつかっているからだ。

 そしてもうひとつ知ったこと。藤村は『破戒』を自費出版し、そのためひどく貧乏であったことなどが語られていた。
 藤村の『夜明け前』は読んだし、それがすばらしい歴史小説であることも認めているが、しかし『新生』に記されたこと、その藤村の姪・こま子が「無産運動」に関わったことを知り、藤村という人間に対する感情がさめてしまったのだが、藤村の『破戒』にかけた情熱を知り、もう一度評価をし直さなければならないと思った。

 黒羽さんの本を少し読むだけでも新しい発見をする。知的なよろこびを喚起するのだ。

 亡くなられた年の2月、私は黒羽さんに講演を頼んだ。午前中の講演が終わり、一緒に昼食をとりませんかと誘ったのだが、最近おなかの調子が悪いので・・と断られた。そのあと病気がかなり進んでいることが判明し、還らぬ人となった。
 
 今も、黒羽さんの本が、若い方々に読まれていることを知った。私も読み直さなければならない。

 知り合った歴史研究者で、そんなに齢を重ねないままに亡くなられた方が何人かいる。そのたびに思うのは、惜しまれる人ほど早く亡くなる、ということだ。

 『歴史書の愉悦』、黒羽さんをとりあげてくれて感謝である。
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沈黙、しかし言葉を・・

2020-03-08 11:27:34 | 歴史
 『世界』4月号には、読むべき論考がたくさん掲載されている。読むべきということは、それを読んで知るべきこと、そして考えるべきことが記されている、ということだ。

 そのなかでまず紹介したいのは、ドイツ首相・メルケルにより、アウシュビッツ=ビルケナウ財団10周年記念式典に際して、アウシュビッツで行われた演説である。日本のアベなんかが、あるいはアベが読む台本を書く者が決して書けない深い反省と内容をもった演説である。

 ある惨劇を前にしたとき、私たちは沈黙する。

 東日本大震災のあと、私は石巻市の大川小学校に行った。津波によりたくさんの子どもと教員が亡くなったところだ。あたりは重苦しい沈黙が支配していた。しかしそこを訪れた人たちは、その沈黙のなかから、なんとか言葉をひねり出していた。もちろん密やかな声で。
 沈黙は、沈黙でしかない。そこから私たちは言葉を生み出さなければならない。その言葉は、その惨劇を伝える言葉であり、同じようなことを繰り返させない言葉でなければならない。

 アウシュビッツも同様である。凄まじい惨劇が毎日毎日繰り返され、無数の人々がドイツ・ナチズムによって殺されたところだ。ドイツ人であるメルケルは、沈黙せざるをえない。だが同時に、彼女はことばを発しなければならないのである。その惨劇をつくりだしたドイツ人のひとりとしての責任を語り、また同じようなことを引き起こさない決意を語らなければならない。

 メルケルは、「犯罪を記憶し、下手人たちをはっきり名指し、犠牲者たちの尊厳にふさわしい哀悼の心を保つこと、この責任に終わりはありません。この責任にはいかなる変更の余地もありません。この責任は、私たちの国と不可分に結びついています。」と語る。

 そのドイツと軍事同盟を結び、アジア太平洋地域で、無数の惨劇を引き起こした日本。しかし日本人、日本の為政者は、その惨劇の責任をほとんど口にしない。悲しい現実である。

 さらにメルケルは、「人間の不可侵の尊厳、自由と民主主義、そして法治国家、こうしたもろもろの価値がいかに貴重なものであろうとも、これらはまたきわめて傷つきやすいものでもある」と語る。そのためには、ドイツ国内でのヘイト犯罪、「人間憎悪をめざした危険な歴史修正主義」を許さない、と語るのだ。

 残念ながら、日本では、ヘイトを叫ぶ者たちと安倍晋三はじめ安倍政権を支える者たちが同じ価値観をもっている。両者は、いつも親和的である。

 「傷つきやすい」「もろもろの価値」は、すでに安倍政権下では傷ついている。その延長線上に、新型コロナウィルスに対する施策がある。

 沈黙ではなく、言葉を、私たちは発しなければならない。
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梅毒が日本に来たとき

2020-02-26 07:47:26 | 歴史
 ずっと前に読んだ本を思い出して書いていることをお断りしておく。

 梅毒という性病は、「新大陸」といわれたアメリカ大陸の病気であった。15世紀末からコロンブスらがアメリカ大陸に渡り、そこから梅毒を「旧大陸」であるヨーロッパにもってきた。梅毒は次々と「旧大陸」に拡散し、日本にも16世紀には入ってきた。(後期)倭寇が持ち込んだともいわれる。

 この頃の梅毒は毒性が強く、感染者は命を失う者が多かったという。しかし梅毒を引き起こす梅毒トレポネ−マという病原体も生き物であり、とりついた人間を殺してしまってはみずからの生命も失うことになる。毒性が強い梅毒トレポネ−マは人間とともに死に絶え、毒性が弱いものだけが生き残り、人類と共存しながら現在も人類を苦しめている。しかしとりついた人間を殺すことはない。

 新型コロナウィルスも、おそらく同様の道を歩んでいくのだろう。しかし初期の頃には、死ぬ者も多いはずだ。死亡率は低いといっても、確実に死ぬ者がでる。すでに日本でも4人の方が亡くなっている。

 日本政府のやり方は、新型コロナウィルスの蔓延を抑え込むのではなく、新型コロナウィルスを跋扈させ、それは罹患した一定の人間を殺すことでもあるが、そのままに放置し、いつかは落ち着くのを待つ、という施策のような気がする。もっともカネをかけない方法である。
 
 安倍政権は、国民にはカネをまわさない、消費税にみられるように、国民はただカネを取り立てる対象でしかない。集めたカネは、加計学園や「桜を見る会」などにつかったり、大企業に補助金として渡される。自分の支持者や取り巻きにしかカネをださない。

 私たちは、こういう政権の下に生きている。悲しい現実ではある。

安倍政権のコロナ基本方針に絶句! 検査受けられない体制は続行、休業・休校しても補償なし、安倍首相は会見もせず懇親会へ


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歴史研究と実証

2020-01-18 09:11:46 | 歴史
 松尾尊兌氏の『昨日の風景』に、歴史研究の方法論的な記述もある。それは史料と研究者自身の関わりをどう考えるべきか、ということである。

 「さわやかなお人柄 家永三郎先生」には、松尾氏は家永先生の学問の特色として、「主体的価値意識を強く打ち出すことを憚らない」ことをあげている。私も家永先生からお葉書をいただいたことがあるし、また家永氏のご著書はたくさん読み込んでいる。まさにそうした特徴が、家永氏の研究である。家永先生もみずから「無限にちかい過去をなんらかの問題意識で整理しなければ歴史像を構成することは不可能であって、主体的立場なしの歴史学などあるはずがない」と書いているそうだ(「私の精神的軌跡」)(124ページ)。

 また丸山真男氏も、松尾氏への書簡の中でこう記している(189ぺーじ)。

 「実証主義の名の下に、歴史的事象にたいして無批判であることが学問的であるかのようにふるまう戦後派の歴史学者が少なくない中にあって、明確な価値判断を下すことを忌避しない学兄の叙述には感銘いたしました。」

 家永さんも、丸山氏も、明確な、主体的な価値判断をすることの重要性を指摘している。私も同感である。最近は価値判断を避けているような(しかし何らかの価値判断をしないと歴史研究は成り立たない)研究が増えているように思う。

 そうした傾向が、現在の日本の政治社会状況を作り出しているのではないかと思う。

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【本】渡辺京二『黒船前夜』(洋泉社新書)

2019-12-05 20:12:22 | 歴史
 副題に「ロシア・アイヌ・日本の三国志」とある。江戸期の日本と露西亜との関係を追ったものであるが、当然その場合、アイヌモシリ(北海道)やサハリン、千島列島の先住民たるアイヌの動向を無視しては、この関係を解明することはできない。

 著者である渡辺は、『逝きし世の面影』で日本に来た外国人が、明治初期、どういうことを見たかを、彼らの訪問記や体験記で明らかにして見せたが、今度は近代国民国家成立前のロシア、アイヌ、日本の関係を様々な文献を渉猟して描いた。

 私は、幕末期のロシア側の当事者、ラクスマン、レザーノフ、ゴローヴニンの名は知ってはいるが、具体的な交渉過程についてはほとんど知らなかった。本書を読んではじめて具体的な情景を思い浮かべることができるようになった。もちろん、その交渉過程で、間宮林蔵や最上徳内、高田屋嘉兵衛、そして幕府の家臣たちも登場してくることはいうまでもない。それぞれの個性もよく描かれ、なかでも高田屋嘉兵衛はきわめて魅力的な人物として描かれているし、また幕臣たちも儒教という普遍的な思考を元に、ロシア人らときわめて人間的に接していることが記されている。
 また幕府当局者の避戦外交方針が強固に根づいていることがよくわかる。私は、歴史講座で、江戸幕府の外交政策が終始一貫して避戦方針であったことを発見し、維新以後の好戦的な近代国家の在り方と比較して、江戸幕府の評価をもっと高めるべきであることを話したこともある。そうした説を裏付けることが、本書にも記されている。

 本書でも指摘されているが、対ロ交渉をになった官僚は優秀であった。これも幕末にかけて、対外交渉で活躍した幕臣たちと同様であるが、優秀な官僚を活躍させるシステムや人物がいたなら、薩長の者どもによる近代日本国家とは異なった近代日本が立ち上がったのではないかということを示唆している(374頁)。

 そして渡辺のアイヌに対する温かい眼差しのなかから、「幕吏はたしかに商人資本の手からアイヌを保護しようとしたが、それは同時にアイヌを日本臣民化し、二級の国民として徳川国家に包摂することにほかならなかった。幕府の慈恵を受けいれることで、アイヌは自立の途を完全に失ったのである」という結論を導き出している(470頁)。

 アイヌの自立性、主体性を、渡辺は本書の中に具体的に記しているが、なにゆえにアイヌはみずからの国家を樹立しなかったのかという問いに対する答えとして、上記のように記したのである。

 ロシアとアイヌ、幕府、松前藩、商人たちとの交流を本書の中にみることによって、私たちは江戸期の北方でのイメージをもつことができるはずである。

 日本の歴史をみるということは、こうしたアイヌモシリから北の地域の歴史をみることでなければならない。かつて鹿野政直は『鳥島ははいっているか』という本で、あなたの歴史認識に「鳥島」は入っているかと問うたが、同じように、私たちの歴史認識にアイヌやロシアの動向が入っているか、ということなのだ。

 そのために、本書は役に立つはずである。

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