From Black Death to fatal flu, past pandemics show why people on the margins suffer most
黒死病から致死性インフルエンザまで、過去のパンデミックは、底辺の人々が最も苦痛を受ける理由を示す
1349年1月までに黒死病(ペスト)がロンドンに到達したとき、ロンドンは何ヶ月もの間、恐怖のなかにあった。ロンドンの人々は、前年60%の人々がペストで死亡したフィレンツェのような都市の荒廃の報告を聞いていた。1348年の夏、ペストはヨーロッパ大陸からイギリスの港に伝播し、首都に向かって猛威を振るい始めた。ペストは、発熱、嘔吐、血を吐く咳、皮膚の黒い膿疱、リンパ節の腫れなど、痛みをもちぎょっとするような症状を引き起こした。死はいつも3日以内に到来した。
市は最善の方法を準備した。当局はできるだけ多くの犠牲者を神聖となった土地に埋葬するために、イースト・スミスフィールドと呼ばれる大規模な共同墓地を建設した。そこなら、審判の日、死者がキリスト教徒であることを 神が確認することができると 信者たちは信じた。命を救うことができないので、市は魂を救おうとした。
そのインパクトは、恐れていたのと同じくらい恐ろしいものだった。1349年には、ロンドン市民の約半数が黒死病で死亡した。1347年から1351年にかけて、ペストはヨーロッパ人の30%から60%を殺した。恐ろしい時代を生きぬいた人々にとっては、誰もが安全ではないように思えた。人口の約半分を失ったフランスでは、歴史家ジル・リー・ミュイシスは「金持ちも中流階級も貧乏人も安全ではなく、それぞれが神の意思を待ち構えた」と書いている。
しかし、イースト・スミスフィールドやその他の場所での注意深い考古学的・歴史的研究は、次のことを示している。すなわち社会的・経済的な不平等が交差することが、黒死病やその他の伝染病の道筋をつくった。古代社会における健康と不平等を研究しているアパラチア州立大学の生物考古学者グウェン・ロビンス・シューグは、「生物考古学やその他の社会科学は、この種の危機がそれぞれの社会の既存の断層線に沿って展開することを繰り返し実証してきた」という。最大のリスクにさらされているのは、すでに社会から疎外されている人々であり、パンデミック前の時代においても、健康を害したり、医療へのアクセスが制限されていたような差別に直面していた貧困層やマイノリティであったのである。さらにパンデミック自体も、既存の権力構造を弱体化させたり、 強化したりすることで、社会の不平等に影響を与えた。
(中略)
その現実は、COVID-19のパンデミックの間でも明確に示されている。COVID-19は、イギリスのボリス・ジョンソン首相や俳優のトム・ハンクスなど、世界の富裕層や権力者にも襲いかかったが、COVID-19 は平等な殺人者ではない。被害の大きかったニューヨーク市では、ラテン系と黒人の人々は白人の2倍の確率でCOVID-19で死亡している。そこのケースは貧しい郵便番号のところ、混雑したアパートに住んでいて、家で働くことができないか、別荘に逃げることができない人々の居住地である。
「社会的不平等が示すのは・・・人々をより高いリスクに置いているということだ」と、黒死病を研究する歴史家、モニカ・グリーンは言う。「私たちは皆、忘れられない方法で、なぜ[コロナウイルスのパンデミック]がこのような形で起こったのかを、骨の髄まで学ぶべきです」。
黒死病が発生したとき、ヨーロッパの多くの場所ではすでに苦しんでいた。13世紀後半から14世紀にかけて気候が冷え込み、天候が不安定だった。不作で、パンデミックが発生する前の約1世紀ほどの間飢饉が発生していた。歴史的記録によると、1315~17年の大飢饉では、イングランドとウェールズの人口の最大15%が死亡した。賃金が下がり、穀物価格が高騰したため、より多くの人々が貧困に追い込まれた。家計簿や英国の荘園で働く労働者への支払いの記録によると、1290年までに英国の家族の70%が貧困ライン以下で生活していたことがわかっている。その間、世帯の最も裕福な3%は国民所得の15%を受け取っていた。
サウスカロライナ大学コロンビア校の生物人類学者シャロン・デウィッテは、ロンドンの中世の墓地から発掘された骨格を研究することで、これらの飢饉と貧困の増大が人々の健康にどのような影響を与えたかを調査している。黒死病に至るまでの世紀に死亡した人々は、その前の2世紀に死亡した人々に比べて背が低く、若くして死亡する傾向があった。また、ペストの前の世紀に生きていた人たちは、エナメル質の成長が中断され歯に溝が多く、栄養不良や病気、その他の生理的ストレスが幼少期に生じていたことを示している。
しかし、大飢饉と1340年代までの低賃金の歴史的証拠から、大流行の直前までその傾向が続いていた可能性が高い、とデウィットは言う。
健康状態が悪いとペストにかかりやすくなるかどうかを調べるために、デウィットはイースト・スミスフィールドから発掘された何百体もの骨に注目した。彼女は、埋葬された人々の年齢分布と、骨格にストレスの痕跡がある人々の平均寿命を計算した。彼女の厳密なモデルによると、高齢者やすでに健康状態が悪い人ほど黒死病で死ぬ可能性が高いことを示している。この病気に感染した人は全員が同じ死亡リスクにさらされていたという仮定に反して、「健康状態は本当に影響を与えていたのです」と彼女は言う。
骨格は その人の社会階級を告知しないから、イースト・スミスフィールドに埋葬された特定の人物が金持ちか貧乏人かは デヴィットには わからない。しかし、当時も今もそうだが、社会の底辺にいる人々の間では、栄養失調や病気がより一般的だった可能性が高い。歴史的な証拠は、イングランドの富裕層が、増加する貧困層に比べて、(病気が)より軽く済んでいたかもしれないことを示唆している。たぶん富裕な英国の地主で疫病で倒れたのは27%、一方1348年と1349年の農村の小作農の数を見ると、死亡率はほとんどが40%から70%であった。デウィットは、人々の健康を損なった不平等な経済状況が「黒死病を必要以上に悪化させた」と主張している。
その400年後、世界のから離れたアメリカ南東部にあるチェロキー族のコミュニティを天然痘が襲った。世界の他の地域では、発熱と膿疱の噴出を伴う天然痘が感染者の約30%を殺した。しかし、チェロキー族の間では、この恐れのある病原体が、感染者の命を救い、現在のようになった可能性が高いと考えられています。しかし、チェロキー族の間では、恐れられていた病原体がさらに壊滅的な被害をもたらしたと、ストーニーブルック大学の歴史学者、ポール・ケルトン氏は言う。
植民地時代にネイティブアメリカンが病気による死亡率が高かったのは、後天的な免疫力の欠如が原因とされることが多い。しかし、社会状況が生物学的要因の影響を増幅させたのである。例えば、18世紀半ばに南東部で発生した天然痘の流行は、アングロ・チェロキー戦争と呼ばれる、チェロキー族のコミュニティに対するイギリス人の攻撃が激化したことと重なった。イギリスは焦土作戦を用いて、チェロキーの農場を燃やし、住民を強制的に家から追い払い、飢饉を引き起こし、天然痘をより多くのチェロキーのコミュニティに広めた。歴史家たちは、伝染病と戦争が終わる頃には、チェロキーの人口は記録に残る最小の規模にまで減少していたと考えている。戦争は「天然痘が壊滅的な効果を持つための条件をつくりだした」とケルトンは言う。
植民地時代の暴力と抑圧によってアメリカ先住民が伝染病にかかりやすくなったことから、アメリカ大陸の先住民のコミュニティでも同様の悲劇が何百年にもわたって繰り返されたと、スタンフォード大学のユマン系アメリカ人考古学者マイケル・ウィルコックスは言う。土地を追われた先住民のコミュニティでは、きれいな水や健康的な食事を得ることができないことがよくあった。カトリックのミッションで暮らす人々は、過酷な労働を強いられ、ウィルコックスが「病気のためのシャーレ」と呼ぶような密集した環境で生活していた。16世紀のフロリダのスペイン人宣教師団に埋葬された人々の骨格には、黒死病以前のロンドンの墓地でデウィットが見つけたような不健康の兆候が多く見られた。
このような抑圧とその生物学的な影響は、「『当たり前』のことではありませんでした。変えられるものだったのです」とウィルコックスは言う。
一時期、植民地支配の外で生活していたネイティブアメリカンのコミュニティの対照的な経験が、彼の主張を裏付けている。そのコミュニティの一つが、カリフォルニア州のヨセミテ渓谷に住む狩猟採集民のアワヒチである。19世紀後半の記述によると、アワニチの酋長であるテナヤという人物が、1850年代に、白人入植者と直接接触する前、彼のコミュニティに蔓延した「黒い病気」(おそらく天然痘)について、アメリカ人の鉱山労働者や民兵のボランティアに話したという。カリフォルニア大学マーセッド校の考古学者キャスリーン・ハルは、この病気はおそらくミッションから逃れてきた先住民が運んできたものだろうという。
彼女は谷で発掘調査を行い、そこにあった村の数、黒曜石の道具を製造した際に生じた瓦礫の量、樹木の年輪で明らかになった焼跡の変化などのデータを分析した。これらの指標は、1800年頃にアワニチの人口が30%減少したことを示唆している。伝染病が流行する前のアワニチの人口はわずか300人で、約90人の死者は壊滅的なものだった。
酋長テナヤは民兵ボランティアに、黒い病気の後、アワニチは伝統的な家を離れ、東部のシエラネバダ山脈に移り住んだと話した。そこではアワニチは支援を受け、長期的には結婚によってコミュニティを再構築する機会を得ることができ、約20年後、彼らは谷間の故郷に戻り、数を増やし、文化を保存した。
ハルのデータは、その説明を支持し、アワヒチは20年間彼らの谷を残したことを示している。彼女は、彼らの出発と彼らの生活様式への復帰を、回復力の表れだと見ている。「本当に困難な出来事にもかかわらず、彼らは辛抱していました」と彼女は言う。
アワニチの経験は稀なものだった。20世紀の変わり目までに、多くの先住民コミュニティは、伝統的な食料源や基本的な医療へのアクセスがほとんどないまま、人里離れた居留地に移動することを余儀なくされた。1918年にインフルエンザが流行したとき、先住民族は「米国の他の人口の約4倍の割合で死亡しました」と、ミシシッピ大学オックスフォード校の医療史研究家、ミカエラ・アダムスは言う。「その理由の一部は、彼らがすでに極度の貧弱な健康状態、貧困、栄養失調に苦しんでいたことにある」と。
中には特に極端なケースもあった。例えば、ナバホ族はパンデミックで12%の死亡率を記録したが、世界全体の死亡率は2.5%から5%と推定されている。ミズーリ大学コロンビア校の人類学者であるリサ・サッテンシュピールによると、カナダとアラスカの遠隔地にあるいくつかの先住民族のコミュニティは、パンデミックで最大90%の人々を失ったという。
今日、コロナウイルスの大流行の間、ナバホネイションでは、ニューヨークとニュージャージーを除くどの州よりもCOVID-19の一人当たりの症例数が多いと報告されているが、保留地での検査率も高い。COVID-19の合併症の危険因子である糖尿病は保留地では一般的であり、多くの人々は貧困の中で生活しており、中には水道のないところもある。
コロラド大学アンシュッツメディカルキャンパスの遺伝学者と公衆衛生の研究者であり、ナバホ族のメンバーであるレネ・ベゲイは、コロナウイルスの大流行は、数世紀にわたる差別と無視によって引き起こされた危機であることを示しているという。
しかし彼女は、ナバホ族の人々の伝統的な名であるディネを従順な犠牲者として特徴付けることに対して注意を喚起する。「私たちはパンデミックを経験してきた。私たちはまたパンデミックを経験することができる」と。
※ 疲れたからここで中断。気がついたら2時間近くが経過していた。