浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

りんご

2014-09-03 23:17:06 | 日記
 ここ数年、長野県中川村の富永農園からりんごを購入している。今日も注文した。「つがる」という品種が10㎏で3500円である(送料込み)。これが安いかどうかは知らない。

 なぜ中川村から購入しているかというと、中川村の村長さんの見識がとてもすぐれていて、その村長さんの村政がうまくいくように協力したいと思ったからだ。毎年、何回か注文し、親戚にも送るようにしている。

 平成の大合併の大合唱が聞こえてきたとき、静岡県の市町村は、我も我もと近隣の相対的に大きな市に併合されることを望んだ。浜松市も周辺の市町村を呑み込み、日本で2番目に広い市になっている。といっても、静岡県でも頑張っているところがある。伊豆地方、周智郡森町もがんばっている。大井川上流の中川根と本川根は、都市と合併しないで、近くの町と合併しただけだからがんばっているといってもよいだろう。

 いま、浜松市に併合された市町村は、合併してよいところなんか何もないと嘆く。ボクにしてみれば嘆かれても仕方がないと思う。というのは、そうなることは事前にわかっていたからだ。ボクは知り合いには、合併するとどうなるかを説明したりした。しかしボクなんかの力はあまりに小さい。

 だが長野県は、「平成の大合併」の波に呑まれなかった。慧眼である。中川村もそうだ。自立的な村として生きていくことを選択した。

 さて、その中川村の村長さんの「美しい村」を美しいままに引き継いでいこうという文に接した。ぜひ読んでいただきたい。すべての首長が、こういう知的で創造的な認識をもつことができれば、日本は確実によくなるはずだ。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685&i=11892
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今日の「中日春秋」

2014-09-03 20:10:51 | メディア
 今日の「中日春秋」の内容はよい。しかし「防衛予算」の社説はいただけない。

 ウィリアム・バスビーさんは米軍の兵士だった。アフガニスタンの戦場から戻ってきた彼は異様なふるまいを見せ始める。水道でいつまでも手を洗い続けて言う。「落ちないんだよ」。手に汚れはない。「何のこと?」と母親が聞くと答える。「血だよ」。彼は二十三歳で死んだ。銃を自らに向け撃ったのだ

▼米兵の命を奪うものは何か。一昨年、自ら命を絶った兵員の数が、軍事行動で命を落とした兵員の数を上回ったそうだ。米兵の自殺率は一般の人の二倍前後といわれる

▼戦場で無残な死を見続け、悪夢にさいなまれた人ばかりではない。部隊内での暴行などで追い詰められた兵らにも自殺が目立つという。今や米軍にとって自殺防止は恐るべき“戦線”となっている

▼一人の戦死者も出していない自衛隊でも、自ら命を絶つ隊員は後を絶たない。海上自衛隊で上司からいじめを受けた隊員がまた自ら命を絶った。いじめは同僚らに目撃され、この隊員は転勤を願い出ていたが、無視されたという

▼東京高裁はこの春、いじめで起きた隊員の自殺をめぐり、海自が実態解明の鍵となる文書を隠していたと断じる判決を出している。やまぬ悲劇が暴いているのは、隊員の心の痛みと向き合わぬその体質だろう

▼自衛官の自殺率はかつて一般の人と同じ水準だったが、一・五倍にもなっているそうだ。米軍並みになっていくのか。
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【本】日本史研究会など『天皇制を問う』(人文書院)

2014-09-03 11:11:02 | 
 「「国学」が呼吸するとき」というテーマは、要するに近代天皇制イデオロギーをその始原から現在までを辿る旅であった。

 このテーマを考えるに際して、たくさんの本を買い、また読んだ。買ったけれども未だに読んでいない本もたくさんある。このテーマはもっともっと深めていきたいと思う。

 さて、その中の一冊が本書である。1990年に刊行されたものだが、内容的には古くなってはいない。
 
 これは日本史研究会、京都民科歴史部会が共催した「天皇制を考える歴史講座」の記録である。講座の記録であるから、内容的に緻密な論証がなされているわけではないが、それぞれの講師がとりあげた内容からは、様々な問題が提起され、触発されること大である。

 ボクと交遊があったいまは亡き江口圭一氏の論考(「昭和天皇の戦争責任と日本人の国家意識」)の鋭さ、松尾尊氏の論考は簡にして要を得たもので、まったく古さを感じない(「象徴天皇制の成立」)。

 松尾氏のそれは、後に『思想』(岩波書店)1990年4月号に掲載されたが、ぜひ読んで欲しいと思う。

 また、ひろた・まさき氏の差別論(近代天皇制と差別)も、氏の年来の主張のエッセンスが記されている。岩井忠熊氏の「近代天皇制と祭祀」ももっと詳しく論じて欲しいと思うような豊富な内容だ。

 戦後歴史学の担い手たちが研究されてきたことが、そしてその問題意識が、いまや継承されていないという気がしている。

 ボクの歴史に関する講座は、そうした問題意識と研究を、市民のなかに広げるという使命感で行われる。

 書庫には、いままで購入した本が乱雑に放り込まれている。そこから持ち出してきては読み、新たに購入しては読み、講座の内容をつくってきた。こういう機会をつくっていただいた酢山さんに感謝である。

 次は、9月12日の平和に関する講演の内容を詰めていかなければならない。毎日毎日が勉強である。
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「国学」を問うこと

2014-09-03 10:55:27 | 近現代史
 ボクの講座の最後は、『正論』5月号の八木秀次氏の主張で終わる。

 八木氏は、最近の天皇/皇后の発言について、以下のように記している。

「陛下が日本国憲法の価値観を高く評価されていることが窺える。私がここで指摘しておきたいのは、両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねないことだ。なぜこのタイミングなのか。デリケートな問題であることを踏まえない宮内庁に危うさを覚える」、「憲法改正は対立のあるテーマだ。その一方の立場に立たれれば、もはや『国民統合の象徴』ではなくなってしまう。宮内庁のマネージメントはどうなっているのか」、「それにしても両陛下の誤解を正す側近はいないのか。逆に誤った情報をすすんでお伝えしている者がいるのではとの疑念さえ湧いてくる。宮内庁への違和感と言ったのはそのような意味においてだ」

 つまり八木氏にとって、天皇制の存在意義というのは、みずからが利用できるかどうかで決まるということを示している。安倍首相のお友だちである八木氏は首相と同様に、憲法改悪を目指している。しかし、天皇/皇后の言動はそれに棹さしている、ならばそれはおかしい、と考えているのだ。

 現在の象徴天皇制は、日本国憲法に基づいている。したがって、天皇皇后が日本国憲法遵守を語るのは当たり前の話。とくに現天皇は、即位に際して憲法を守ることを言明している。

 八木氏は、昭和天皇のように、「象徴」でありながら、実際に沖縄のこと、米軍の日本駐留などのことについてしばしば言明してきた、そうした天皇を好むのだろう。

 しかし、近代日本の歴史を振り返ると、天皇(「国体」)が強調されるとき、日本「臣民」は国家のために「動員される」受け身の存在として現出した。

 そういう歴史を繰り返してはならないのである。

 ボクの講座の主旨は、これにつきる。「「国学」が呼吸するとき」というテーマは、「国学」、その近代的な形態である「国体」思想が呼吸する、つまり動き始めるときは危険であることを証明することなのだ。

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