社会的な問題についてこうあるべきだ、という思考を少なくともボクは持つ。今までの歴史家の多くも、同じようにもっていたはずだ。
たとえば「自由民権運動」を捉えようとするとき、今までの歴史家は、その運動の担い手の中に、理念や理想に生きようとした人々を見いだし、ひょっとしたらそこに自らの姿をも見ていたのかもしれない。
最近、「理念」に生きる者はほとんどいないんだなあと思うときがある。「理念」なんかくそ食らえ、それよりも「金」だ、という風潮が強まっている。政治の世界でも、「世のため、人のため」という意思を持つ者はほとんど消え、みずからの野心を実現し、同時に「金」と名誉をも手に入れようと、選挙に立候補する人々が後を絶たない。
今日、松沢裕作の『自由民権運動』(岩波新書)を読み終えた。
「自由民権運動」に関する本は、今までもたくさん読んできている。その印象は、書き手の多くは、「自由民権運動」を肯定し、したがって参加した者たちを肯定し、そこに「理念」に生きる人々、あるいは「世のため、人のため」に生きようとする人々を描いてきた。
しかし本書は、今までにない感触をもたせる。著者は、「自由民権運動」を醒めた目で見る。「自由民権運動」を、戊辰戦争に勝利した人々のなかで、維新権力に入り込めなかった人々がたどった挫折へとつながるある種の生き方として捉えるのだ。
河野広中という人物がいた。福島県の自由党の中心的な人物であった。ボクは、戊辰戦争で敗者となったからこそ、河野は「自由民権運動」に参加したのだと勝手に思い込んでいた。しかしそうではなかった。福島県三春の魚問屋に生まれた河野は、幕末、尊皇攘夷の考えをもっていた。
戊辰戦争がはじまったとき、会津藩はじめ多くの福島県民は官軍と戦った。しかし敗れた。
河野はそのときどういう行動をとったかというと、彼は官軍側につき、三春藩を官軍側につくように仕向けた張本人だという。だからこのとき、官軍側の一員として、板垣にも会ってるのだという。知らなかった。彼は、官軍だったのだ。
「自由民権運動」についてもっていたイメージが崩されていく。
「自由民権運動」には、戊辰戦争で勝者となった者たちの一部が、勝者としての待遇が不十分であるという自覚のもと、参加していった構図があるのだという。あるいは士族ではなかった者たちも戊辰戦争に官軍側に参加しているが、その者たちも同様の考えを持ち、また「自由民権運動」には戊辰戦争に関わっていなかった庶民も参加してくるが、彼らは幕藩体制下の士族が藩主から「禄」をもらっていたことを知っていて、運動に参加すればそれを得られるという「宣伝」に乗せられたのだという。もちろん、その背景には、庶民の「解放幻想」があったのだが。
維新政府の権力と権威が上昇していく中で、「自由民権運動」に参加した者たちも、運動から去り、徐々にその権力に入り込んでいく。と同時に運動は終焉を迎える。入り込めなかった者が、「激化事件」を引き起こし、挫折していく。
福島県令に、薩摩藩出身の三島通庸という者がいた。福島県自由党をやっつけようとした県令で、ボクが悪の権化だと思っている奴だ。しかし、何と、戊辰戦争で官軍と戦った士族たちは、三島の側について帝政党員となって自由党員等を襲ったというのだ。
「理念」が消失しつつある現在。「自由民権運動」は「理念」の実現をめざしておこなわれた運動であるという認識は、本書にはない。人々は権力欲や、名誉欲、あるいは「解放幻想」にとらわれて、運動に参加したというのだ。
21世紀の醒めた目で見たとき、「自由民権運動」はこう映るのか。
たとえば「自由民権運動」を捉えようとするとき、今までの歴史家は、その運動の担い手の中に、理念や理想に生きようとした人々を見いだし、ひょっとしたらそこに自らの姿をも見ていたのかもしれない。
最近、「理念」に生きる者はほとんどいないんだなあと思うときがある。「理念」なんかくそ食らえ、それよりも「金」だ、という風潮が強まっている。政治の世界でも、「世のため、人のため」という意思を持つ者はほとんど消え、みずからの野心を実現し、同時に「金」と名誉をも手に入れようと、選挙に立候補する人々が後を絶たない。
今日、松沢裕作の『自由民権運動』(岩波新書)を読み終えた。
「自由民権運動」に関する本は、今までもたくさん読んできている。その印象は、書き手の多くは、「自由民権運動」を肯定し、したがって参加した者たちを肯定し、そこに「理念」に生きる人々、あるいは「世のため、人のため」に生きようとする人々を描いてきた。
しかし本書は、今までにない感触をもたせる。著者は、「自由民権運動」を醒めた目で見る。「自由民権運動」を、戊辰戦争に勝利した人々のなかで、維新権力に入り込めなかった人々がたどった挫折へとつながるある種の生き方として捉えるのだ。
河野広中という人物がいた。福島県の自由党の中心的な人物であった。ボクは、戊辰戦争で敗者となったからこそ、河野は「自由民権運動」に参加したのだと勝手に思い込んでいた。しかしそうではなかった。福島県三春の魚問屋に生まれた河野は、幕末、尊皇攘夷の考えをもっていた。
戊辰戦争がはじまったとき、会津藩はじめ多くの福島県民は官軍と戦った。しかし敗れた。
河野はそのときどういう行動をとったかというと、彼は官軍側につき、三春藩を官軍側につくように仕向けた張本人だという。だからこのとき、官軍側の一員として、板垣にも会ってるのだという。知らなかった。彼は、官軍だったのだ。
「自由民権運動」についてもっていたイメージが崩されていく。
「自由民権運動」には、戊辰戦争で勝者となった者たちの一部が、勝者としての待遇が不十分であるという自覚のもと、参加していった構図があるのだという。あるいは士族ではなかった者たちも戊辰戦争に官軍側に参加しているが、その者たちも同様の考えを持ち、また「自由民権運動」には戊辰戦争に関わっていなかった庶民も参加してくるが、彼らは幕藩体制下の士族が藩主から「禄」をもらっていたことを知っていて、運動に参加すればそれを得られるという「宣伝」に乗せられたのだという。もちろん、その背景には、庶民の「解放幻想」があったのだが。
維新政府の権力と権威が上昇していく中で、「自由民権運動」に参加した者たちも、運動から去り、徐々にその権力に入り込んでいく。と同時に運動は終焉を迎える。入り込めなかった者が、「激化事件」を引き起こし、挫折していく。
福島県令に、薩摩藩出身の三島通庸という者がいた。福島県自由党をやっつけようとした県令で、ボクが悪の権化だと思っている奴だ。しかし、何と、戊辰戦争で官軍と戦った士族たちは、三島の側について帝政党員となって自由党員等を襲ったというのだ。
「理念」が消失しつつある現在。「自由民権運動」は「理念」の実現をめざしておこなわれた運動であるという認識は、本書にはない。人々は権力欲や、名誉欲、あるいは「解放幻想」にとらわれて、運動に参加したというのだ。
21世紀の醒めた目で見たとき、「自由民権運動」はこう映るのか。