浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】幸徳秋水『帝国主義』(岩波文庫)

2016-07-21 22:33:43 | その他
 この本は、岩波文庫の旧版で読んだことがあった。しかし、もうずっと昔のことだ。新版を2006年に買ってあったのだが、ずっと書棚に鎮座していた。旧版もどこかにある。

 中江兆民について、昨日話した。幸徳は、兆民と師弟関係にあった。この本は、兆民が亡くなった年に出版されたものだ。本書の山泉進氏の解説にも記されているが、本書は、イギリスのジョン・ロバートソンのPatriotism and Empireを下敷きにして書かれたものであるが、もちろんそのままではなく、幸徳の知見が各所にちりばめられている。幸徳秋水の『帝国主義』として、読まれる所以である。

 日本もまた、欧米の帝国主義を追って、帝国主義に熱狂した。

 而して我日本に至っても、日清戦役の大捷以来、上下これに向って熱狂する、悍馬の軛を脱するが如し。

 日清戦争の勝利は、日本人に「愛国心」をつくりだした。幸徳によれば、帝国主義は、「愛国心」と「軍国主義」により構成される。あたかも「愛国心」は肯定的に捉えられることもあるが、幸徳は、

 愛国心の発揚は、その敵人に対する憎悪を加うるも、決して同胞に対する愛情を加うる者にあらざる

 と記す、「愛国心」の高揚を求める人士は、同国人への愛情を持つわけではない。むしろ持たない。

 そして「軍国主義」。

 軍国主義は、決して社会の改善と文明の進歩に資するを得る者にあらず、戦闘の習熟と軍人的生活は、決して政治的社会的に人の智徳を増進する者にあらず

 軍国政治の行わるる一日なれば、国民の道議は一日腐敗するなり

 現代も、「愛国心」が強要され、政権の中枢には、軍国主義を奉ずる者がいる。こういう時代の雰囲気は、智徳は退き、道議は軽視される。

 そして戦争を好む人士が、跋扈しはじめている。しかし、

 戦争はただ狡獪なるを要す、ただ譎詐なるを要す

 戦争で勝つためには、相手を出し抜いたり、騙したりしなければならない。戦争は、徹頭徹尾、汚濁にまみれている。

 幸徳は、「結論」でこう記す。

 吾人は世界の平和を欲す、而して帝国主義はこれを攪乱するなり。吾人は道徳の隆興を欲す、而して帝国主義はこれを残害するなり。吾人は自由と平等を欲す、而して帝国主義はこれを破壊するなり。吾人は生産分配の公平を欲す、而して帝国主義はこれが不公を激成するなり。文明の危険実にこれより大なるはなし。

 幸徳が、こう記して115年が経過する。しかし未だ帝国主義はこの地球上に跋扈し、日本もその一員として、軍国主義と愛国心をもって世界に撃ってでようとしている。

 近代日本の思想家の努力は、また踏みにじられようとしている。
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『中国と日本』(亜紀書房)

2016-07-21 13:59:47 | その他
 図書館から、張承志の『中国と日本』を借りてきた。

 何とその中に、「解説・信康」があった。信康とは、岡林信康である。戦後日本で、不確定であったが故に未来が輝いていた時代に、岡林はギターをひっさげて歌っていた。「山谷ブルース」、「友よ」・・・・・

 学生時代、URCというレーベルのレコードを買って聴いていた。我が生きる道はいまだ暗闇の中にあり、その暗闇の中にどういう道を切り開いていくか見えなかった時代、そういう時代に青春を生きた。それから長い時間が過ぎた。その間、ほとんど振り返ることなく、前を見ながら生きてきた。あっという間のことだった。

 1948年生まれという張、日本にいたとき、よく聴いていたとのこと、また岡林との間に直接の交情もあったようだ。私より年長者である張は、岡林の歌を聴き続けたとのこと。

 この文の中で、張は「私たちの望むものは」を繰り返し書き出している。そのすべての歌詞は・・

 私たちの望むものは
 生きる苦しみではなく
 私たちの望むものは
 生きる喜びなのだ

 私たちの望むものは
 社会のための私ではなく
 私たちの望むものは
 私たちのための社会なのだ

 私たちの望むものは
 与えられたことではなく
 私たちの望むものは
 奪いとることなのだ

 私たちの望むものは
 あなたを殺すことではなく
 私たちの望むものは
 あなたと生きることなのだ

 今ある不幸にとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

 私たちの望むものは
 くりかえすことではなく
 私たちの望むものは
 たえず変ってゆくことなのだ

 私たちの望むものは
 決して私たちではなく
 私たちの望むものは
 私でありつづけることなのだ

 今ある不幸にとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

 私たちの望むものは
 生きる喜びではなく
 私たちの望むものは
 生きる苦しみなのだ

 私たちの望むものは
 あなたと生きることではなく
 私たちの望むものは
 あなたを殺すことなのだ

 今ある不幸にとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

 私たちの望むものは
 

 岡林の歌詞を、時に歌いながら、時に考えながら、生きてきた。子どもに、「友よ」にあやかって「知世」と名づけた。岡林は、私の生の軌跡に時に交錯した。

 張は、作家である。この本は、「中国と日本」を、内省的にみつめたもののようだ。副題の「批判の刃を己に」とあるように、内省的ということは、自らを問い詰めることでもあるのだろう。古来、双方から伸び出した糸が複雑に織りなしてきた歴史、それが今もつれている。もつれてしまった糸を、日中のひとりひとりが解いていくという作業が必要なのだとおもう。

 私たちの望むものは、何か。日本人は、いったい何を望んでいるのか。いや、ひょっとして、日本人は望みがないのかもしれない。日本人は、未来につながることのない選択を繰り返しているから。

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原発と札束

2016-07-21 12:51:45 | その他
 『朝日新聞』に掲載された記事。すでに『中日新聞』では報じられていたもの。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ7N5V90J7NUTIL039.html?rm=611
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テレビジャーナリズムの終焉

2016-07-21 07:31:48 | その他
 ほぼ毎夜「報道ステーション」と「NewS23」を見ていた。しかし、今年4月からは見なくなった。テレビは、したがってまったく見ないという状態だ。毎日、音はパソコンとつないでいるスピーカーからクラシックの音楽が流れる。

 テレビというメディアにおいて、もうジャーナリズムは消えた。安倍政権の愚民政策と真実を報じない、という方針に皆で歩調を合わせるようになっている。

 そのテレビによく出演していた永六輔、大橋巨泉が亡くなった。この二人、戦後民主主義の担い手でもあった。日本国憲法の平和主義や民主主義を肯定し、それが未来永劫続くことを望んでいた。

 戦後民主主義の担い手が、他界していく。寂しいことだ。それと共に、勇ましいことば、乱暴なことば、いずれも理性のフィルターをとおさないことばが、大手を振ってまかり通るようになった。

 82才のもと自衛官は、最近のこうした風潮の原因を指摘してこう語った。「本を読まなくなったからですよ」と。

 電車に乗っても、本を読む人はほとんどいなくなっている。忙しそうにスマホに手をやっている人ばかりが目につく。

 時代が変わったなあと思うのだが、その変化の先に危険を思う。

 大橋巨泉は、『週刊現代』のコラムで、安倍政権の危険性に警鐘を鳴らしていた。彼の遺書だ。

 「安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせてください」

 しかし、大橋巨泉の死を報じるテレビメディアは、この遺言に触れなかったという。まさにテレビメディアのジャーナリズム性の終焉を象徴する。

 我が国は、再び暗黒の時代へと進みつつあるように思う。

 自分に何ができるか、を考える。人々の前で、歴史を材料にして、平和や民主主義の価値のたいせつさを訴える。昨日は中江兆民に託して、今日は、アメリカの政治状況をもとに、現代を語る。

 進む歴史の方向が、肯定できないとき、少しでもそれに抗うこと、そうした努力によって、歴史を支えたい。「歴史をささえる人々」ー家永三郎氏の教科書の各編の扉にあったことばだ。「歴史をささえる」ということばは、ただ生産活動などで当該社会を支えるだけではなく、政治的主体として生きることも含んでいる。

 先学の遺産を語り継ぎたい。
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