浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

沖縄で起きている権力による無法

2016-07-23 22:30:57 | その他
 沖縄で、法治国家とはいえない事態が起きている。警察権力はじめ、安倍政権は法を無視した専制的な手法で、県道を封鎖した。

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=179715

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=179711

http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-321704.html
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沖縄・高江のこと

2016-07-23 21:58:27 | その他
 沖縄県北部の高江を、国家権力による暴力が振るわれている。

http://www.qab.co.jp/news/2016072281990.html

 この暴挙は、日本国民が参議院議員選挙により導き出したものだ。この暴挙の背後には、沖縄のことを一顧だにしない本土国民の無情と無知がある。

http://lite-ra.com/2016/07/post-2439.html

 安倍政権は、今後、沖縄に強権的に振る舞っていくことだろう。日本国民の犯罪性を感じる。
コメント (1)
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中国と日本、そしてアジアへ

2016-07-23 11:19:06 | その他
 第七章、「文学の惜別」で、張が最後に取り上げた作家は、堀田善衛である。堀田善衛の作品は、安心して読める。かつて私はスペインに行った。ゴヤの作品を見るためだ。その際、堀田の『ゴヤ』を読み、それを持参していった。それ以外でも、堀田は日本の良質な文化人を代表する人物だ。理性と良識を兼ね備え、さらに深い思考と洞察力で作品を仕上げる。
 高校生の頃、未公認サークルの社会科学研究会で、ひとつ上のMさんが、堀田を熱く論じていた記憶がある。
 
 ただ、本書で紹介されている『上海にて』は未読である。早速読もうと思う。

 堀田はそこでこう記しているという。

 お互いに、忘れることが出来るものならば、それを学ぶことが出来るものならば、学びたいものだ。私とて、いやなことは口にしたくない、書きたくもない。むしろほんとうは、深く黙り込んでいたいのだ。しかしまた、それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本なのだ。われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる。

 こういう感慨を持って、日中は共存しなければならない。

 第八章は、「「アジア」の主義」である。頭山満、新宿中村屋、宮崎滔天、大川周明、川島浪速らが登場する。日本のアジア主義は、両義的であり、最終的には大日本帝国の侵略政策のなかに収斂していってしまう。
 今の日本人には、アジア主義はないと思う。アジア主義のその背後には、義憤や正義感があった。今や、日本人にそうした思惟を感じることはできない。

 ただ私は、近代日本の大アジア主義について、深く学んだことはない。大川周明など、もっと読まなければならぬ。

 さて終章は、「解剖の刃を己に」である。

 張は、現在の中国政府のありかたに批判を持つ。近代日本を批判的に見つめることは、すなわち現在の中国を見つめることとつながる。だからこう記す。

 大国勃興の夢に興奮している中国は、今こそ日本近代の歩みを思索すべき岐路に立たされていると思う。

 そして、日本国憲法に希望を持つ。

 もしかすると、この小著が出版されないうちに、日本の平和憲法は、誰かの手によって改竄されてしまうかもしれない。永遠に戦争手段を捨て去った憲法こそ、すべての国家や民族の基本理念になるべきものであろうに。

 日本と中国の関係、とりわけて近代に於けるそれを深く考えるとき、日本の平和憲法は大きく輝いていると思う。この憲法こそ、日中間の「血」の滲出をとめるものだと、私は確信している。



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張の『中国と日本』を読み続ける

2016-07-23 08:44:32 | その他
 張は、文学者である。ここに記された文が、文学に関わるものであるが故に、読む者の思考は、それを読みながら、様々に飛翔する。人文科学や社会科学の文は、読む者の思考を羽ばたかせることはあまりない。
 
 本書の第七章は、「文学の惜別」である。作家・張は、文学を語る。

 最初に語るのは、石原慎太郎である。石原もなぜか作家である。石原は、芥川賞をとったが故に、自己認識を誤った。石原の小説は、誰が読んでも、「良い」という評価はつけられない代物だ。文学とはいえない。
 芥川賞が与えられたことにより、彼は傲慢の道を歩み始めた。
 人間には、生来、根拠なき自信をもつ者がいる。客観的には、自信を抱く根拠がひとつも見いだせないのに、みずから自信満々という人。こういう人を褒めたりすると、あとがいけない。自信が傲慢に早変わりして、もう手がつけられない。自省という言葉は消え去り、憚ることなくあたりを睥睨し、暴言を吐く。

 石原の芥川賞受賞に反対した作家が、佐藤春夫だという。佐藤は、石原の「太陽の季節」に、嫌悪感と卑しさを感じ取った。正解である。今も尚、石原は、同じ傲慢人間に期待を抱かせているが、しかし常識的な人々には卑しさと嫌悪感を感じさせている。私自身は、その小説を下品だと感じた。人間を卑しめている、と思った。

 次に張が取り上げたのが、太宰だ。太宰には、魯迅を描いた「惜別」という小説があるのだそうだ。戦時下に国策に応じて書かれたにしては、中国人への蔑視や差別感がないのだという。それだけでもすごいことだ。日清戦争以降、日本人は対中蔑視を持ち続けている。今も尚、である。他方、西欧崇拝は今も根強い。近代日本の初期にすり込まれた蔑視と崇拝が、世代を超えて続く。日常意識にそうした差別感が無意識のなかにすり込まれているから、何かを書いたり言ったりすると、そこに差別感が出てしまう。
 しかし太宰の作品に、それはなかったという。彼は、意識的にそうしたのだろうが、できたというだけで評価されるべきだ。

 次に佐藤春夫を、張は見る。張にとって、佐藤は好きな作家であるが故に、いろいろ見えてしまうようだ。佐藤には、「支那雑記」という文があるそうだ。一部が紹介されているが、中国で佐藤は、「日本人」という高みから中国(人)を見る。よほど意識しないと、そういう視点は表現に表れてしまう。しかしおそらく「日本人」にそれは気づかない。ふつーのことだからだ。しかし、高みから見られている中国人は、それを見破る。
 ついでに記しておけば、そうした高みから見てしまう「日本人」のひとりであることを自省しないで、あたかも中国人やそのほかの差別される側から見ているように錯覚して書いている文章を見かけることがある。支配階級や民族差別を糾弾しつつ、しかしその裏には、糾弾されるべき意識がこびりついている。みずからの意識のひだに分け入って自省することの重要さを感じさせられる。

 張は、石原、太宰、佐藤を論じた上で、こう書く。

 例えどんなにわずかであっても他者にたいする蔑視を排除し、己の言語と行動を古典に恥じないものとするーこれが佐藤春夫の教訓であろう。

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