第七章、「文学の惜別」で、張が最後に取り上げた作家は、堀田善衛である。堀田善衛の作品は、安心して読める。かつて私はスペインに行った。ゴヤの作品を見るためだ。その際、堀田の『ゴヤ』を読み、それを持参していった。それ以外でも、堀田は日本の良質な文化人を代表する人物だ。理性と良識を兼ね備え、さらに深い思考と洞察力で作品を仕上げる。
高校生の頃、未公認サークルの社会科学研究会で、ひとつ上のMさんが、堀田を熱く論じていた記憶がある。
ただ、本書で紹介されている『上海にて』は未読である。早速読もうと思う。
堀田はそこでこう記しているという。
お互いに、忘れることが出来るものならば、それを学ぶことが出来るものならば、学びたいものだ。私とて、いやなことは口にしたくない、書きたくもない。むしろほんとうは、深く黙り込んでいたいのだ。しかしまた、それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本なのだ。われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる。
こういう感慨を持って、日中は共存しなければならない。
第八章は、「「アジア」の主義」である。頭山満、新宿中村屋、宮崎滔天、大川周明、川島浪速らが登場する。日本のアジア主義は、両義的であり、最終的には大日本帝国の侵略政策のなかに収斂していってしまう。
今の日本人には、アジア主義はないと思う。アジア主義のその背後には、義憤や正義感があった。今や、日本人にそうした思惟を感じることはできない。
ただ私は、近代日本の大アジア主義について、深く学んだことはない。大川周明など、もっと読まなければならぬ。
さて終章は、「解剖の刃を己に」である。
張は、現在の中国政府のありかたに批判を持つ。近代日本を批判的に見つめることは、すなわち現在の中国を見つめることとつながる。だからこう記す。
大国勃興の夢に興奮している中国は、今こそ日本近代の歩みを思索すべき岐路に立たされていると思う。
そして、日本国憲法に希望を持つ。
もしかすると、この小著が出版されないうちに、日本の平和憲法は、誰かの手によって改竄されてしまうかもしれない。永遠に戦争手段を捨て去った憲法こそ、すべての国家や民族の基本理念になるべきものであろうに。
日本と中国の関係、とりわけて近代に於けるそれを深く考えるとき、日本の平和憲法は大きく輝いていると思う。この憲法こそ、日中間の「血」の滲出をとめるものだと、私は確信している。