朝日新聞記者・三浦英之さんのTwitterに、良い文言を見つけた。
一連の問題を受けて今思うのは、新聞記者は「偉く」なりすぎたんだと思う。スーツを着て霞ケ関や記者クラブに通って偉い人と話をして自分が「偉く」なったような勘違いをしてる。僕らは一市民に過ぎない。目撃者に過ぎない。今一度原点に戻るため、地方で、現場で、「犬コロ」のように扱われた方がいい
「「偉く」なりすぎた」ということば。
私にはメディアで活躍している友人がいる。またいた。「いた」と過去形にしたのは、彼らはもう引退しているからだ。私も歳をとったが、彼らも、である。なかには亡くなったひともいる。
若い頃、私は歴史の研究もし、またいろいろな運動に関わっていたから、新聞社やテレビ局に勤めている人々と知り合い、また仲良くなった。彼らと北遠の「西浦の田楽」を見に行ったり、飲めない酒も一緒に飲んだりした。新聞社の社旗を借りて、路上に車を止めたりしたこともあった。ユニークで面白い人が多かった。ほとんどが、どこの新聞社に所属していても、政治問題や現代社会などに強い関心を抱き、時に会って話をする時間は楽しく貴重であった。地方の支局などにいる彼らはまだ若く、社内でも「偉く」なっていなかった。
しかしある時から、メディア関係者の中に、「偉ぶる」人が出て来た。記者になる人間の質が変わったのだと思った。
記者は、社の名刺を持っている。すると、報じてもらいたいという望みを持つ会社の社長や首長や議員など、社会的に「偉い」とされている人々に、直接会うことができるようになる。そのうち、そういう人々に直接会うことができる自分も「エライ」のだと錯覚するようになる。しかし、そういう「偉い」人々は、記者個人ではなく、新聞社の社員としての記者に会うのであって、社の名刺を持っていなければ会わないのである。
個人として一定の力を持った記者と、社の名刺に依存して錯覚しながら生きる記者。後者の人は、政治的社会的な批判精神を持たない。
ユニークで知性あふれる記者は少なくなったと思う。もと記者とは今もつきあいがあるが、最近知った記者とはつきあわない。面白くないからだ。
どこの世界にも「偉ぶる」人はいる。会話の中に「自慢話」を必ず入れてくる人。こういう人とはビジネスレベルでの付き合いで、それ以上にしないことにしている。
私には歴史研究者や法学者に知り合いが多い、多かった。今は亡くなられた方もいるから過去形を入れているのだが、素晴らしい研究をしている人は「自慢話」はしない、偉ぶらない。実に謙虚である。私はこのような人々から謙虚さを学んだ。