浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

歴史的検証を拒否する政権

2020-05-29 21:58:30 | 政治
コロナ専門家会議、議事録作らず 歴史的事態検証の妨げに

 記録に残せないほど杜撰なことをしているということを示している。要するに、信頼できない「専門家会議」だということ。

新型コロナ専門家会議の議事録、西村経済再生相が「しっかりと記録を残したい」と3月に明言していた
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偉くなりすぎた?

2020-05-29 21:14:25 | 社会
 朝日新聞記者・三浦英之さんのTwitterに、良い文言を見つけた。

一連の問題を受けて今思うのは、新聞記者は「偉く」なりすぎたんだと思う。スーツを着て霞ケ関や記者クラブに通って偉い人と話をして自分が「偉く」なったような勘違いをしてる。僕らは一市民に過ぎない。目撃者に過ぎない。今一度原点に戻るため、地方で、現場で、「犬コロ」のように扱われた方がいい

 「「偉く」なりすぎた」ということば。

 私にはメディアで活躍している友人がいる。またいた。「いた」と過去形にしたのは、彼らはもう引退しているからだ。私も歳をとったが、彼らも、である。なかには亡くなったひともいる。

 若い頃、私は歴史の研究もし、またいろいろな運動に関わっていたから、新聞社やテレビ局に勤めている人々と知り合い、また仲良くなった。彼らと北遠の「西浦の田楽」を見に行ったり、飲めない酒も一緒に飲んだりした。新聞社の社旗を借りて、路上に車を止めたりしたこともあった。ユニークで面白い人が多かった。ほとんどが、どこの新聞社に所属していても、政治問題や現代社会などに強い関心を抱き、時に会って話をする時間は楽しく貴重であった。地方の支局などにいる彼らはまだ若く、社内でも「偉く」なっていなかった。

 しかしある時から、メディア関係者の中に、「偉ぶる」人が出て来た。記者になる人間の質が変わったのだと思った。
 記者は、社の名刺を持っている。すると、報じてもらいたいという望みを持つ会社の社長や首長や議員など、社会的に「偉い」とされている人々に、直接会うことができるようになる。そのうち、そういう人々に直接会うことができる自分も「エライ」のだと錯覚するようになる。しかし、そういう「偉い」人々は、記者個人ではなく、新聞社の社員としての記者に会うのであって、社の名刺を持っていなければ会わないのである。

 個人として一定の力を持った記者と、社の名刺に依存して錯覚しながら生きる記者。後者の人は、政治的社会的な批判精神を持たない。

 ユニークで知性あふれる記者は少なくなったと思う。もと記者とは今もつきあいがあるが、最近知った記者とはつきあわない。面白くないからだ。

 どこの世界にも「偉ぶる」人はいる。会話の中に「自慢話」を必ず入れてくる人。こういう人とはビジネスレベルでの付き合いで、それ以上にしないことにしている。

 私には歴史研究者や法学者に知り合いが多い、多かった。今は亡くなられた方もいるから過去形を入れているのだが、素晴らしい研究をしている人は「自慢話」はしない、偉ぶらない。実に謙虚である。私はこのような人々から謙虚さを学んだ。

 
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