浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

菩提寺との別れ

2024-05-31 22:25:39 | 日記

 2月に母が亡くなった。晩年を過ごした娘(私にとっては姉)のところであった。住民票を移してあったので、その地で葬儀を営んだ。家族葬であった。

 さて遺骨であるが、亡くなった次の日、浜松へ帰って菩提寺の世話人と話をした。そこにはすでに父の墓があった。菩提寺に遺骨を納めたいなら、浜松でも葬儀をしないと、つまり菩提寺の住職を中心とした葬儀をしないと納められないといわれた。

 亡くなった地での葬儀は、母の遺影を無数の花(それも母の好きな花)で覆い、葬儀後の棺の中は花でいっぱいとなった。花の好きな母であった。花代は消費税を含めて66万円であった。そのほかを含めて、葬儀費用は100万円をはるかに超えていた。もう一度葬儀をすることは考えられなかった。

 父の法事の際、菩提寺の住職は、いつもカネの話をしていた。法話なんて聞いたこともなかった(法話が話されることは、親戚の法事に参加してはじめて知った)。そんな住職一家に、母の戒名をつけてもらう、また読経をお願いする気持ちはさらさらなかった。亡くなった地での葬儀と戒名は、坊さんドットコムの僧に依頼した。とても良い僧だった。

 父の墓を撤去すること、つまり菩提寺から離れることを決断した。

 菩提寺は、私の祖先が室町時代に建立した寺で、子どもの頃は住職がいたが、檀家が少なく生活できないということから、他寺に移っていった。そこで、住職を近くの寺に頼み、その住職を兼務住職とした。しかし余りにひどいので、世話人代表であった私の叔父を中心にして、排斥運動を行ったが失敗した。かなりの金額をよこせと言ったようだ。

 さて、菩提寺を離れるということは、離檀するということである。いろいろ調べると、その際には高額な離檀料が要求されるということであった。私のもう一人の叔父の墓も、子ども(私にとってはいとこ)が関西で生活することとなったために、離檀し撤去されたが、その際高額の離檀料を求められ大もめにもめたと聞いていた。しかし、離檀料には、法的根拠はない。

 私は、もし請求されたら、徹底的に抗戦するつもりでいた。そのことを周囲にも洩らしていた。

 そして今日の朝、住職が読経をしにきた。わずか10分程度のそれであった。事前に3万円ときいていたので、その金額を納めた。読経が終わって一時間ほど経ってから、住職から電話があった。本日いただいたおカネの領収書はありません、ということだった。私は、それで結構ですと答えた。

 数日後、墓は撤去される。すでに石屋さんとは話をつけてある。「◎◎家先祖代々霊位」とある石と、姉と私との間に生まれ亡くなった水子の地蔵は、どこかの山寺で引き取って供養されるということである。その供養料も含めて約28万円である。

 すでに市役所へ行って、改葬の手続きは済んでいる。さて、父と母の遺骨はどうするか。最終的には決まっていない。しかしもう墓をつくらない。私のも含めて、である。墓があってもなくても、死んでしまったら終わり、再生はないのだから。人の一生は、はかないものだ。

 ずっと昔読んだ本に、「はか」という語は、「狭い場所」を示すということが書いてあった。「はかなし」とは、生きる「狭い場所」すらない、ということらしい(今、大野晋の『古語辞典』をみたら、そのような記述はない。日本語をさかのぼって研究した大野晋が書いていないのなら、この説は少数説かもしれない)。

 死ぬということは、生きる「場所」を失い、「狭い場所」である「はか」に入れられる、ということでもある。私は「狭い場所」は好かない。手塚治虫のまんがに「百物語」という作品がある。亡くなると、宇宙の大生命に合体するというような内容であったと記憶する。そのとき、死がそういうものであってほしいと思った。

 とにかく、「子孫に墓は残さず」である。子どもたちに、この問題で苦しませない、ということである。

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