浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

沖縄で起きている権力による無法

2016-07-23 22:30:57 | その他
 沖縄で、法治国家とはいえない事態が起きている。警察権力はじめ、安倍政権は法を無視した専制的な手法で、県道を封鎖した。

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=179715

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=179711

http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-321704.html
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沖縄・高江のこと

2016-07-23 21:58:27 | その他
 沖縄県北部の高江を、国家権力による暴力が振るわれている。

http://www.qab.co.jp/news/2016072281990.html

 この暴挙は、日本国民が参議院議員選挙により導き出したものだ。この暴挙の背後には、沖縄のことを一顧だにしない本土国民の無情と無知がある。

http://lite-ra.com/2016/07/post-2439.html

 安倍政権は、今後、沖縄に強権的に振る舞っていくことだろう。日本国民の犯罪性を感じる。
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中国と日本、そしてアジアへ

2016-07-23 11:19:06 | その他
 第七章、「文学の惜別」で、張が最後に取り上げた作家は、堀田善衛である。堀田善衛の作品は、安心して読める。かつて私はスペインに行った。ゴヤの作品を見るためだ。その際、堀田の『ゴヤ』を読み、それを持参していった。それ以外でも、堀田は日本の良質な文化人を代表する人物だ。理性と良識を兼ね備え、さらに深い思考と洞察力で作品を仕上げる。
 高校生の頃、未公認サークルの社会科学研究会で、ひとつ上のMさんが、堀田を熱く論じていた記憶がある。
 
 ただ、本書で紹介されている『上海にて』は未読である。早速読もうと思う。

 堀田はそこでこう記しているという。

 お互いに、忘れることが出来るものならば、それを学ぶことが出来るものならば、学びたいものだ。私とて、いやなことは口にしたくない、書きたくもない。むしろほんとうは、深く黙り込んでいたいのだ。しかしまた、それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本なのだ。われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる。

 こういう感慨を持って、日中は共存しなければならない。

 第八章は、「「アジア」の主義」である。頭山満、新宿中村屋、宮崎滔天、大川周明、川島浪速らが登場する。日本のアジア主義は、両義的であり、最終的には大日本帝国の侵略政策のなかに収斂していってしまう。
 今の日本人には、アジア主義はないと思う。アジア主義のその背後には、義憤や正義感があった。今や、日本人にそうした思惟を感じることはできない。

 ただ私は、近代日本の大アジア主義について、深く学んだことはない。大川周明など、もっと読まなければならぬ。

 さて終章は、「解剖の刃を己に」である。

 張は、現在の中国政府のありかたに批判を持つ。近代日本を批判的に見つめることは、すなわち現在の中国を見つめることとつながる。だからこう記す。

 大国勃興の夢に興奮している中国は、今こそ日本近代の歩みを思索すべき岐路に立たされていると思う。

 そして、日本国憲法に希望を持つ。

 もしかすると、この小著が出版されないうちに、日本の平和憲法は、誰かの手によって改竄されてしまうかもしれない。永遠に戦争手段を捨て去った憲法こそ、すべての国家や民族の基本理念になるべきものであろうに。

 日本と中国の関係、とりわけて近代に於けるそれを深く考えるとき、日本の平和憲法は大きく輝いていると思う。この憲法こそ、日中間の「血」の滲出をとめるものだと、私は確信している。



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張の『中国と日本』を読み続ける

2016-07-23 08:44:32 | その他
 張は、文学者である。ここに記された文が、文学に関わるものであるが故に、読む者の思考は、それを読みながら、様々に飛翔する。人文科学や社会科学の文は、読む者の思考を羽ばたかせることはあまりない。
 
 本書の第七章は、「文学の惜別」である。作家・張は、文学を語る。

 最初に語るのは、石原慎太郎である。石原もなぜか作家である。石原は、芥川賞をとったが故に、自己認識を誤った。石原の小説は、誰が読んでも、「良い」という評価はつけられない代物だ。文学とはいえない。
 芥川賞が与えられたことにより、彼は傲慢の道を歩み始めた。
 人間には、生来、根拠なき自信をもつ者がいる。客観的には、自信を抱く根拠がひとつも見いだせないのに、みずから自信満々という人。こういう人を褒めたりすると、あとがいけない。自信が傲慢に早変わりして、もう手がつけられない。自省という言葉は消え去り、憚ることなくあたりを睥睨し、暴言を吐く。

 石原の芥川賞受賞に反対した作家が、佐藤春夫だという。佐藤は、石原の「太陽の季節」に、嫌悪感と卑しさを感じ取った。正解である。今も尚、石原は、同じ傲慢人間に期待を抱かせているが、しかし常識的な人々には卑しさと嫌悪感を感じさせている。私自身は、その小説を下品だと感じた。人間を卑しめている、と思った。

 次に張が取り上げたのが、太宰だ。太宰には、魯迅を描いた「惜別」という小説があるのだそうだ。戦時下に国策に応じて書かれたにしては、中国人への蔑視や差別感がないのだという。それだけでもすごいことだ。日清戦争以降、日本人は対中蔑視を持ち続けている。今も尚、である。他方、西欧崇拝は今も根強い。近代日本の初期にすり込まれた蔑視と崇拝が、世代を超えて続く。日常意識にそうした差別感が無意識のなかにすり込まれているから、何かを書いたり言ったりすると、そこに差別感が出てしまう。
 しかし太宰の作品に、それはなかったという。彼は、意識的にそうしたのだろうが、できたというだけで評価されるべきだ。

 次に佐藤春夫を、張は見る。張にとって、佐藤は好きな作家であるが故に、いろいろ見えてしまうようだ。佐藤には、「支那雑記」という文があるそうだ。一部が紹介されているが、中国で佐藤は、「日本人」という高みから中国(人)を見る。よほど意識しないと、そういう視点は表現に表れてしまう。しかしおそらく「日本人」にそれは気づかない。ふつーのことだからだ。しかし、高みから見られている中国人は、それを見破る。
 ついでに記しておけば、そうした高みから見てしまう「日本人」のひとりであることを自省しないで、あたかも中国人やそのほかの差別される側から見ているように錯覚して書いている文章を見かけることがある。支配階級や民族差別を糾弾しつつ、しかしその裏には、糾弾されるべき意識がこびりついている。みずからの意識のひだに分け入って自省することの重要さを感じさせられる。

 張は、石原、太宰、佐藤を論じた上で、こう書く。

 例えどんなにわずかであっても他者にたいする蔑視を排除し、己の言語と行動を古典に恥じないものとするーこれが佐藤春夫の教訓であろう。

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考える

2016-07-22 22:41:24 | その他
 張の本から、岡林信康の音楽を聴くことになった。家には、彼のレコードがあるが、もうずっと聴いていない。レコードプレイヤーがもうない。
 しかしAmazonプレミアムに入っているので、岡林のアルバムを無料で聴くことができることを知った。
 
 今、「ラブソングズ」というアルバムを聴いている。今の歌と異なって、人生が織り込まれている。ただの人生ではない、考える人生がそこにある。

 今は、考える人生ではないなあ。次々と提出される課題をこなすために、それに専心してしまう。講座の準備、畑仕事、しなければならないことがたくさんたくさん待っている。

 考えるまもなく、あの世に逝ってしまうのだろうか。

 中江兆民は、

「児生る、其生るゝの瞬間より即ち徐ろに死つゝ有る也、何ぞや、其最長期たる七十八十に向ふて、進みて片時も休止すること無ければ、是れ徐に死しつゝ有ると謂ふ可し、何の不可か之れ有らん」

 と書いているが、生きるということは死につつあるということだ。

 生きることを考えるということは、死を考えるということでもある。
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想像力

2016-07-22 20:48:01 | その他
 張の『中国と日本』の第4章は、「赤軍の娘」である。

 今、パレスチナについての報道はほとんどない。イスラエルがパレスチナへの侵略を強めているという情報はある。気持ちとしては、私はパレスチナとともにある。だが今あまりにも報道が少ない。本当は、ボク自身がパレスチナがどうなっているかを知ろうとしなければならない。

 むかし、日本赤軍のメンバーがパレスチナの戦いに合流するために、レバノンに渡った。そしてそのメンバーが、イスラエル・テルアビブの空港で、事件を起こした。一般客に対して銃を乱射するという事件を起こしたと、マスコミは報じた。しかし、メディアが報じたことは、真実ではなかったことを、本書で知った。
 彼らの行動を、当時のボクは支持しなかった。パレスチナに連帯する気持ちは持っていたが、実際に連帯する行動をとることはなかった。そういう度胸もなかった。
 日本赤軍の行動は、パレスチナの人々から圧倒的な支持を受けた。その事実が本書に描かれる。

 今は、刑務所にいる重信房子。重信には、娘がいる。重信メイ。そのメイは、「命」を意味するという。「革命」の「命」であり、犠牲となった人びとの「命」。そして「命」は、アラビア語で「ハヤテ」というのだそうだ。

 メイは、ベイルートの病院で生まれた。その病院は、お金を受け取らなかったという。そのとき医者は、日本から、パレスチナの民衆のために、民衆とともに闘うために来た重信への感謝を捧げたという。

 張は、「赤軍の娘とは?」と問うて、こう書く。

 新しい革命がすでに始まっていることだけは、私は知っている。古い革命と大きく違い、暴力や流血はないかもしれない。でも、平和を守ろうとする最終目標は変わらない。弱者を助けたい衝動は変わらない。殺される側に立つ正義も変わらない。

 弱者を助ける、殺される側に立つ。そうありたいと思う。しかし、そうしようとするとき、ボクらは想像力をもたなければならない。弱者がどういう状態であるか、殺される側がどうであるか、それらは、ボクたちの前に示されることはない。パレスチナのことも、そして沖縄のことも、想像力なしには、つながることはできないのだ。


 
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張承志を読み続ける

2016-07-22 14:35:43 | その他
 張の『中国と日本』の第三章は、「ナガサキノート」である。大江健三郎の『ヒロシマノート』にちなんで、ある種の反発を持っての命名である。

 張は、『ヒロシマノート』には、原爆を落としたアメリカへの怒りがほとんどないという。私は、これを、高校生の頃読み、夏休みの読書感想文として提出したことがある。大江らしく、原爆がつくりだした現実に対座するなかから生じた内面の煩悶を、思考の奥底からひねりだす、というものであったように記憶している。張のそうした指摘が正しいかどうか確認することは、今はできない。

 張は、ナガサキの地理的位置を指摘する。ナガサキは、中国に近い。それだけではなく、東シナ海を介して台湾、フィリピンへとつながる。そうであるが故に、ナガサキは、そうした地域との深いつながりが過去にあったことを、あんがい丁寧に記していく。倭寇、大航海時代における西欧諸地域のアジア進出。
 ナガサキは、江戸幕府の時代、西欧につながる小さな窓となった。もちろん中国とのつながりもあったが、しかしオランダとの窓口としての役割のほうが大きかった。
 またキリスト教も、ナガサキにその存在を刻印している。

 そして19世紀。帝国主義国化する西欧諸国の東漸のなか、ナガサキは海軍の発祥地となる。ヒロシマもそうであるが、ナガサキも軍事や軍需産業とふかいつながりをもった都市として成長する。三菱の長崎造船所。

 地理的・歴史的に位置づけられたナガサキに、原爆が炸裂した。

 日本は長崎で、脱亜入欧の長い道のりを歩み始め、長崎は欧米文明を、たとえ毒入りの乳であれ貪るように飲み込んだ。追随の末に、あの絶滅の原子爆弾を被った・・・
 と、張は記す。

 もちろん、その被爆に言及するとき、核兵器を持つ中華人民共和国の存在を意識する。絶滅の原子爆弾の悲惨を前にして、中国人である張は、どうするか。

 核兵器と戦争の拒否を誓おう。他者と平和の保護を誓おう。

 その誓いは、中国にも向けられる。
 
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『中国と日本』を読み続ける

2016-07-22 10:04:43 | その他
 第一章は、「はるかなる東ウジュムチン」である。張とひとりの日本人・服部幸雄との交遊、といっても不思議な関係ではあるが、その経緯が記されている。

 時期は異なるが、中国大陸のあるところに生活していたという記憶。その記憶が重なり合い、共振し、また否定するという交流。

 しかしこれはひとつの例だ。日本人が、中国人が、それぞれ中国に関わって様々な糸を紡ぐ。そうした糸が、無数にある。その糸は、ときに国家権力が介在したこともあっただろう。しかしその糸を紡いできたのは、ひとりひとりの日本人であり、中国人だ。無数の中国人の糸と、無数の日本人の糸とが、様々に撚りあわされている。
 
 今、日本国と中華人民共和国とが、敵対しているかのようだ。国家と国家のメンツを懸けての駆け引き。

 私は、その駆け引きと、日中のひとりひとりが紡ぎ撚りあわされた糸と、いったいどちらが価値があるのか、と思う。服部幸雄は、大日本帝国の時代、「東ウジュムチン」である種の謀略活動に従事した。しかし「大日本帝国」が「日本国」となってから、服部は、貧しい中国の子どもたちに学資金を寄付してきた。中国にやってきては、子どもたちに生きる希望を与えてきた。

 国家と国家との関係より、こうした人と人とのつながりのほうが、強い。その強いつながりが、国家間関係を凌駕していくことはないのだろうか。

 第二章は、「三笠公園」である。横須賀という地と、日本が過去におこなった日清戦争と日露戦争を熟考したものだ。その末尾に、こういう文章があった。

 より糾弾すべきは、日本民族を「脱亜入欧」させ植民地主義列強の列に導いた、明治の思想家たちだ。
 あなたたちの強者と勝利の理論は敗れた。真理のほかに、勝者はいないーという結論を、煉獄のごとき惨敗を喫してはじめて、あなたたちは分かったはずだ。
 冥暗のなかの、強大無限の主宰者は他人の希望を断つような強国の夢を決して許しはしない。他人の尊厳と生存を踏みにじるような民俗の前途を成就させることはない。黒船が開国を迫り、民族が覇道を選択したときから数えるならば、日本が強国の夢を見たのは、わずか百年にもみたない。偉大なる日本精神、人々が憧憬する日本精神は、原子爆弾に負けたのでも、黒鉄あるいは物質的凶器に負けたのでもない。精神に負けたのだ。歴史の真理と永遠の道徳の前に、日本は敗れたのだ。

 そう、日本の近代は、勝利というものがなんとちっぽけであるかということを私に教えてくれている。我々であろうと、彼らであろうと、誰にとってももはやほかに道はないのだ。ただ自尊の心と他者の尊重を除いては。


 この感慨は、日本人に向けているだけではなく、近年大国主義的な対応をしてきている中華人民共和国の国民である、張にも向けられている。張は、それを自覚している。

 こういう内省的な、自己反省的な思考こそが、国家間の不毛な対立を押しのけていくのである。

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【本】幸徳秋水『帝国主義』(岩波文庫)

2016-07-21 22:33:43 | その他
 この本は、岩波文庫の旧版で読んだことがあった。しかし、もうずっと昔のことだ。新版を2006年に買ってあったのだが、ずっと書棚に鎮座していた。旧版もどこかにある。

 中江兆民について、昨日話した。幸徳は、兆民と師弟関係にあった。この本は、兆民が亡くなった年に出版されたものだ。本書の山泉進氏の解説にも記されているが、本書は、イギリスのジョン・ロバートソンのPatriotism and Empireを下敷きにして書かれたものであるが、もちろんそのままではなく、幸徳の知見が各所にちりばめられている。幸徳秋水の『帝国主義』として、読まれる所以である。

 日本もまた、欧米の帝国主義を追って、帝国主義に熱狂した。

 而して我日本に至っても、日清戦役の大捷以来、上下これに向って熱狂する、悍馬の軛を脱するが如し。

 日清戦争の勝利は、日本人に「愛国心」をつくりだした。幸徳によれば、帝国主義は、「愛国心」と「軍国主義」により構成される。あたかも「愛国心」は肯定的に捉えられることもあるが、幸徳は、

 愛国心の発揚は、その敵人に対する憎悪を加うるも、決して同胞に対する愛情を加うる者にあらざる

 と記す、「愛国心」の高揚を求める人士は、同国人への愛情を持つわけではない。むしろ持たない。

 そして「軍国主義」。

 軍国主義は、決して社会の改善と文明の進歩に資するを得る者にあらず、戦闘の習熟と軍人的生活は、決して政治的社会的に人の智徳を増進する者にあらず

 軍国政治の行わるる一日なれば、国民の道議は一日腐敗するなり

 現代も、「愛国心」が強要され、政権の中枢には、軍国主義を奉ずる者がいる。こういう時代の雰囲気は、智徳は退き、道議は軽視される。

 そして戦争を好む人士が、跋扈しはじめている。しかし、

 戦争はただ狡獪なるを要す、ただ譎詐なるを要す

 戦争で勝つためには、相手を出し抜いたり、騙したりしなければならない。戦争は、徹頭徹尾、汚濁にまみれている。

 幸徳は、「結論」でこう記す。

 吾人は世界の平和を欲す、而して帝国主義はこれを攪乱するなり。吾人は道徳の隆興を欲す、而して帝国主義はこれを残害するなり。吾人は自由と平等を欲す、而して帝国主義はこれを破壊するなり。吾人は生産分配の公平を欲す、而して帝国主義はこれが不公を激成するなり。文明の危険実にこれより大なるはなし。

 幸徳が、こう記して115年が経過する。しかし未だ帝国主義はこの地球上に跋扈し、日本もその一員として、軍国主義と愛国心をもって世界に撃ってでようとしている。

 近代日本の思想家の努力は、また踏みにじられようとしている。
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『中国と日本』(亜紀書房)

2016-07-21 13:59:47 | その他
 図書館から、張承志の『中国と日本』を借りてきた。

 何とその中に、「解説・信康」があった。信康とは、岡林信康である。戦後日本で、不確定であったが故に未来が輝いていた時代に、岡林はギターをひっさげて歌っていた。「山谷ブルース」、「友よ」・・・・・

 学生時代、URCというレーベルのレコードを買って聴いていた。我が生きる道はいまだ暗闇の中にあり、その暗闇の中にどういう道を切り開いていくか見えなかった時代、そういう時代に青春を生きた。それから長い時間が過ぎた。その間、ほとんど振り返ることなく、前を見ながら生きてきた。あっという間のことだった。

 1948年生まれという張、日本にいたとき、よく聴いていたとのこと、また岡林との間に直接の交情もあったようだ。私より年長者である張は、岡林の歌を聴き続けたとのこと。

 この文の中で、張は「私たちの望むものは」を繰り返し書き出している。そのすべての歌詞は・・

 私たちの望むものは
 生きる苦しみではなく
 私たちの望むものは
 生きる喜びなのだ

 私たちの望むものは
 社会のための私ではなく
 私たちの望むものは
 私たちのための社会なのだ

 私たちの望むものは
 与えられたことではなく
 私たちの望むものは
 奪いとることなのだ

 私たちの望むものは
 あなたを殺すことではなく
 私たちの望むものは
 あなたと生きることなのだ

 今ある不幸にとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

 私たちの望むものは
 くりかえすことではなく
 私たちの望むものは
 たえず変ってゆくことなのだ

 私たちの望むものは
 決して私たちではなく
 私たちの望むものは
 私でありつづけることなのだ

 今ある不幸にとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

 私たちの望むものは
 生きる喜びではなく
 私たちの望むものは
 生きる苦しみなのだ

 私たちの望むものは
 あなたと生きることではなく
 私たちの望むものは
 あなたを殺すことなのだ

 今ある不幸にとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ!

 私たちの望むものは
 

 岡林の歌詞を、時に歌いながら、時に考えながら、生きてきた。子どもに、「友よ」にあやかって「知世」と名づけた。岡林は、私の生の軌跡に時に交錯した。

 張は、作家である。この本は、「中国と日本」を、内省的にみつめたもののようだ。副題の「批判の刃を己に」とあるように、内省的ということは、自らを問い詰めることでもあるのだろう。古来、双方から伸び出した糸が複雑に織りなしてきた歴史、それが今もつれている。もつれてしまった糸を、日中のひとりひとりが解いていくという作業が必要なのだとおもう。

 私たちの望むものは、何か。日本人は、いったい何を望んでいるのか。いや、ひょっとして、日本人は望みがないのかもしれない。日本人は、未来につながることのない選択を繰り返しているから。

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原発と札束

2016-07-21 12:51:45 | その他
 『朝日新聞』に掲載された記事。すでに『中日新聞』では報じられていたもの。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ7N5V90J7NUTIL039.html?rm=611
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テレビジャーナリズムの終焉

2016-07-21 07:31:48 | その他
 ほぼ毎夜「報道ステーション」と「NewS23」を見ていた。しかし、今年4月からは見なくなった。テレビは、したがってまったく見ないという状態だ。毎日、音はパソコンとつないでいるスピーカーからクラシックの音楽が流れる。

 テレビというメディアにおいて、もうジャーナリズムは消えた。安倍政権の愚民政策と真実を報じない、という方針に皆で歩調を合わせるようになっている。

 そのテレビによく出演していた永六輔、大橋巨泉が亡くなった。この二人、戦後民主主義の担い手でもあった。日本国憲法の平和主義や民主主義を肯定し、それが未来永劫続くことを望んでいた。

 戦後民主主義の担い手が、他界していく。寂しいことだ。それと共に、勇ましいことば、乱暴なことば、いずれも理性のフィルターをとおさないことばが、大手を振ってまかり通るようになった。

 82才のもと自衛官は、最近のこうした風潮の原因を指摘してこう語った。「本を読まなくなったからですよ」と。

 電車に乗っても、本を読む人はほとんどいなくなっている。忙しそうにスマホに手をやっている人ばかりが目につく。

 時代が変わったなあと思うのだが、その変化の先に危険を思う。

 大橋巨泉は、『週刊現代』のコラムで、安倍政権の危険性に警鐘を鳴らしていた。彼の遺書だ。

 「安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせてください」

 しかし、大橋巨泉の死を報じるテレビメディアは、この遺言に触れなかったという。まさにテレビメディアのジャーナリズム性の終焉を象徴する。

 我が国は、再び暗黒の時代へと進みつつあるように思う。

 自分に何ができるか、を考える。人々の前で、歴史を材料にして、平和や民主主義の価値のたいせつさを訴える。昨日は中江兆民に託して、今日は、アメリカの政治状況をもとに、現代を語る。

 進む歴史の方向が、肯定できないとき、少しでもそれに抗うこと、そうした努力によって、歴史を支えたい。「歴史をささえる人々」ー家永三郎氏の教科書の各編の扉にあったことばだ。「歴史をささえる」ということばは、ただ生産活動などで当該社会を支えるだけではなく、政治的主体として生きることも含んでいる。

 先学の遺産を語り継ぎたい。
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黒羽清隆氏のこと

2016-07-20 07:15:36 | その他
 今日の『中日新聞』を読んでいたら、長野県の長野図書館の平賀という館長さんが、黒羽清隆氏のことを記していた。館長さんは、東京学芸大学附属高校のとき、担任が黒羽さんだったとのこと。

 平賀さんは、東京から伊那市に転居し、伊那図書館の館長となった。そこで廃棄図書の中に黒羽さんの本を発見し、それを読み、高校時代には見いだせなかった黒羽さんの考えを知った。そこには「なぜだろう」という問いが、学力の出発点であると書かれていた。図書館長となって、同じ気持ちを持つ自分自身を発見した。
 そういえば、黒羽さんは、みずからの紹介の際「権力者ではなく大衆の歴史を」ということを話されていた、ことも思い出した。

 私にも思い出がある。黒羽さんは、東京の高校教師を経て静岡大学教育学部の教授となった。私が属す研究会にも入られ、静岡県史の調査でもご一緒したことがある。亡くなられた年の2月、黒羽さんに講演にきていただいた。午前中の講演が終わり、一緒に昼食をという申し出に、体の調子が悪いのでこれで帰らせてもらう、といわれたことがあった。その後重篤の病が発見され、他界された。53才であった。惜しまれる死であった。

 黒羽さんの本は、今も大切に持っている。あざやかな切り口で歴史を語る。同じことでも、黒羽さんが料理すると、新鮮になるから不思議だ。人文科学などは、どういう視点からみるかによりその像は変わる。黒羽さんが描く歴史像は、民衆の視点からのもので、民衆の多様性や民衆の喜怒哀楽が浮き彫りにされるものであった。

 黒羽さんの本は、書庫の奥に並んでいる。もう一度読み返す必要があるなと思う。現在のような厳しい時代、黒羽さんだったらどのような歴史像を描くだろうか。

 黒羽さんの教えを受けたという人に、時々出会う。黒羽さんの「歴史」は、まだまだ生きている。

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アメリカ空軍の浸透作戦

2016-07-19 11:58:58 | その他
 ショッキングな情報を得た。アメリカ空軍が、中学生にミニブートキャンプを提供した、というものだ。ブートキャンプとは、「米軍の新兵、および沿岸警備隊の新入隊員を対象にした訓練プログラム」の意味だそうだ。

Yokota Airmen provide a mini boot camp to middle school students.

http://www.yokota.af.mil/Portals/44/Documents/Yokota_Journal/July/Yokota%20Journal_20160714_Yokota%20Airmen%20provide%20a%20mini%20boot%20camp%20to%20middle%20school%20students.pdf?ver=2016-07-15-023025-693

 公立の中学校が、こうした行事を行うとは!!
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日本メディアは政権の伴走者

2016-07-19 11:12:53 | その他
 作家・中島京子さんの意見に心から賛同する。

http://mainichi.jp/articles/20160717/ddm/002/070/061000c
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