11月20日、横浜中小企業懇話会の経営者セミナーにて、静岡大学名誉教授、文学博士、小和田哲男様のお話しを拝聴する機会がありました。こちらは、「戦国武将に学ぶ経営術」と題したご講演のメモです。
イントロでは、NHK大河ドラマの時代考証という仕事がどういうものなのか、お話しがありました。たとえば、これは小和田様が手掛けられたものではありませんが、2016年に『真田丸』というドラマがありました。主人公の名前は真田信繁。かつては真田幸村と呼んでいましたが、本当は信繁が正しく、このドラマでは「信繁」が採用されました(1985年の『真田太平記』では、「幸村」でしたね)。こうした歴史研究の移り変わりを反映するのも大事なお仕事のようです。
【戦国時代のキーワード】
1.弱肉強食
2.合従連衡
3.下剋上
1.下剋上と立身出世願望
1)「負け組」も勝つことができた時代
・三方ヶ原の戦いでの敗北が、家康を天下人にしたといわれる。
・朝倉宗滴 「巧者の大将と申すは、一度大事の遅れに合ひたるを申すべく候」
2)身分は固定化されていなかった
・例:石田三成(茶小姓だったという説)、豊臣秀吉(百姓)
3)通用しない「親の七光り」
・江戸時代と違い、大名の嫡男が大名とは限らない。
2.一般的だった大名間移動と途中入社
1)終身雇用ではない時代
・信長の人材登用:領地付きの城主となったのは、譜代の臣ではなく明智光秀が初。その次は羽柴秀吉。
・藤堂高虎は7度主を変えている(浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長(~秀保)、豊臣秀吉(~秀頼)、徳川家康(~家光))。
2)自己の能力開発
・禅僧から教育を受ける者が多かった(太原雪斎は有名)
・生涯学習の傾向:毛利家の家臣、玉木吉保は、中国古典→日本古典→兵法書→歴史・地理→料理→医学と生涯学び続けた武将であり、医師でもある。
3.埋もれた才能の掘り起こし
1)異能者と異業種間交流
・桶狭間の戦いの論功行賞で一番手柄だったのは、一番槍の服部子平太(一忠)でも、今川義元の首級をあげた毛利新介(良勝)でもなく、隠密の簗田政綱であった。情報の価値が武功よりも認められた事例。
2)北条氏綱の遺訓(北条氏綱公御書置)から
・「侍中より地下人・百姓等に至るまで、何れも不便ふびんに存せらるべく候。すべて人に捨りたる者はこれなく候」
・「その者の役に立つ所をば遣ひ、役に立たざる所をば遣わずして、何れをも用に立て候を能き大将と申すなり」
・「此の者は一向の役に立ざるうつけ者よと見限りはて候事は、大将の心には浅ましき狭き心なり」
・「侍中に我身は大将の御見限りなされ候と存じ候へば、勇みの心なく、誠のうつけ者となりて役に立ず」
・「皆々役に立たんも、又た立つまじきも大将の心にあり」
3)秀吉を抜擢した織田信長
・人材登用に優れていたのが、信長。
・秀吉と年齢も仕官した時期もほぼ同じ前田利家は、身長180㎝(当時の平均身長は160㎝程度と推定される)、槍の名人でもあった(「槍の又左」の異名)。家柄も利家の方がはるかに上。一方の秀吉は推定154㎝、華奢な体躯で戦国時代にあっては通常有能な家臣とは言い難い。しかし、先に出世したのは秀吉の方であった。
・信長が秀吉に見出した才能は「話術」。この才能で美濃攻めの際、西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)の籠絡に成功。彼らの内通により、難攻不落の稲葉山城は落城した。
・一方、信長の問題点は競争原理に偏り過ぎたこと。赤母衣衆筆頭の前田利家と黒母衣衆筆頭の佐々木成政は犬猿の仲であったと言われる。羽柴秀吉と明智光秀も競争関係に置かれ、それに疲れた光秀が本能寺の変を起こす遠因になったとも推測される。
4.上の人への自由な批判が可能だった社会
1)毛利家家臣、志道広良(しじひろよし)
・「君は舟、臣は水。水能く舟を覆す」(『荀子』)。江戸時代であれば、このようなことは言えない。
・『甲陽軍鑑』より。「国持つ大将、人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其そうきやうする者共、おなじぎやう儀さはうの人計、念比(ねんごろ)してめしつかふ事、信玄は大きにきらふたり」(イエスマンばかりで周りを固めたくない)
2)黒田長政の福岡城「釈迦の間」
・福岡城本丸に「釈迦の間」を設け、「異見会」という家老と対等な立場で討論する仕組みを作った。当時は関ケ原の戦い後で社会が安定し始めていたころであり、江戸時代の身分の固定化、官僚主義的な色が濃くなりつつあった時代であり、そうした背景を考えれば異例のことであった。
5.部下を信頼するシステム
1)副の置き方
・秀吉晩年の暴走は、良きサブであった弟・秀長の死後であったと言われる。
2)徳川家康の三河三奉行
・天野康景、高力清長、本多重次の三名。「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と謡われ、性格が異なる者を抜擢し、個性に応じて用いた家康の眼力がうかがわれる。
・後に老中まで上り詰めた本多正信は三河一向一揆に与し、一度追放されている。しかし、後に帰参し、石川数正が出奔し豊臣秀吉についた際、本多作左衛門(重次)を推挙したのは正信であった。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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