針が以前、少林寺拳法を習っていた時の話し。少林寺に入るには、一応仏界に入るのを前提となります。結婚式を協会で上げる時、キリスト教に、入るようなもんかなあ!。←こら、この不届き者めが!。
で、技を習得する前に教則本(科目表)の他に教典をもらいます。
皆さんは、良く社会科で教わった仏教に対する解釈で「小乗仏教は個人のみ助けて、大乗仏教は衆生を助けるので、大乗が優れ、小乗は是に次ぐ」と教わりましたよね。
少林寺の教典はそういう解釈はありません。というよりか、それは間違った解釈が後世に伝わった物と解釈します。
(聖 句)お釈迦様の言葉。
己れこそ己れの寄るべ、己を措(お)きて誰に寄るべぞ、良く整えし、己こそまこと得がたき寄るべ也。
自ら悪をなさば、自ら汚れ、自ら悪をなさざれば、自らが浄し、浄きも浄かざるも自らの事なり。他者に依りて浄むる事を得ず。
人をたすけるのに自分が頼りない者だと助けられない。そんな者は助ける前に自分が潰れてしまう。小乗仏教はこの「小」と言う文字と、自分しか助けないという誤解。
大乗は他力本願で多くの衆生を助ける、それと「大」と言う字の解釈がイコール優れているという解釈に結び付いてしまったのであります。つまり、裏返して言うと、小乗は「人を助けるのにまず自分をしっかり確立しろ」ということを説いたものだったんです。
大体、この「大乗」の解釈を伝えたのは、少林寺の飯炊き僧の恵能?だか、恵芳?とういう僧が伝えたものだと歴史書は伝えています。
この大乗の他力本願は、人に救いを求めるに、「それだけ素直な気持ちを持て」という気持ちを説いたものだったんです。真純単一に教えを請う姿勢を暗黙の内に説いたものと針は解釈します。←これはこれで、とっても大事な事です。つまり、純真な心を持って仏の前に膝ま付いて、(心をさらけ出して)教えを請うものだったんです。
これを「正果を得る」と言います。
大体仏教を大乗・小乗と分ける事がおかしいと思うわけであります。針の自分勝手な解釈は日本の神道は祖先を祭る事。仏教は人の道を教える道と考えるのであります。もっとも、人の道を教えるのはキリスト教もヒンズー教も、イスラム教もありますがね。
少林寺に達磨大師が来て僧侶のお経ばかり読んでいて体力が無い事を憂えて「易筋経」を残したとあります。後、僧侶の護身を兼ねて、また、華陀の五禽之戯を取り入れて拳法が発達しました。
この教えを元に修行された僧が「人に一つ恩を受けたら(嵩山少林寺で拳法を教えてもらった、恩を受けたら)、その人(少林寺)に恩を返すのではなくて、10人の困っている人にその恩を返せ」という教えの元に嵩山・少林寺から下山(世の中に出る)するのであります。
こうしてみると本当の仏の教えというのは偶像崇拝の宗教なんかではなくて、人の道を教えるものだったんですね。本来お経というのは、それを唱えるば願いが叶えられるものでも救ってくれるものでは全くもってないという事です。
この事は、人間でも動物でも同じです。今の世の中、自分の生活を守るというよりか、維持するだけでも大変ですものね。困った人、助けを求めている動物に目を向けるって事なんて余裕もありませんもんね。
だから、せめて、慈愛の心を持って、人を殺めたり、動物を捨てたり虐待する事だけは止めてもらいたものであります。
あ、断っておきますが、針は仏教徒(僧侶)ではありません。少林寺も突き蹴り遣っている時に、腕に蝿が止まったのを老師に見咎められて、「永久除名」になりました。ほ、本当かよ!?。←嘘だよ、嘘!。(爆)