東京都写真美術館 「おたく:人格=空間=都市」 3/5

東京都写真美術館(目黒区三田)
「グローバルメディア2005/おたく:人格=空間=都市」
2/22~3/13

こんにちは。

土曜日に写真美術館で「おたく:人格=空間=都市」展を観てきました。これは、ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展の日本館を再現した展示で、現地ではかなり好意的に受け止められたそうです。「『おたく』を、商品や作品としてではなく、その人格を起点とした横断的概念として提示する。」(パンフレットから。)という考え方の元に、「おたく」の世界がこまごまと展開されていました。

会場は大変な混雑でした。私の入った後には入場制限があったぐらいです。身動きすらとれないような中にある「おたく」の空間は、とてもラフ(粗雑ではなく、無造作という意味で。)なスタイルを示します。家電から「おたく」の街へと変貌を遂げた秋葉原の簡単なミニチュアを軸に、コミックマーケットの準備風景や、最近市場が拡大しているオンラインゲームの再現模様、それに食玩や「おたく」の私物を陳列販売するという大量のレンタルスペースまで、どれもいわゆるマニアックなものばかりです。私は漫画もゲームもあまり触れたことのないつまらない人間なので、この中ではせいぜい秋葉原やコンビニなどでよく見かける食玩ぐらいしか身近に感じられないのですが、それ以外も特に違和感を感じることはありません。むしろ、レンタルスペースの中にあるたくさんのフィギュアや、天井からぶらさがる同人誌の、恐ろしく美化された少年や少女たちの姿もなかなか可愛らしい(?!)ものです。また、それらの一つ一つからは、芸術性というよりも、精巧な作業を経て完成したことを示唆させる「職人業」を感じました。細部まで丁寧に作られた食玩やフィギュアなどは、日本の技術力の一つの象徴なのかもしれません。

どの展示スペースもすさまじい熱気です。こればかりは通常の美術展と大きく雰囲気が異なります。「おたくの個室」という「一般的な美意識とは異なる原理によって構成された」(パンフレットから。)空間も、一目見ようとする人たちの大行列で埋め尽くされていました。また、レンタルケースの向こうにあるフィギュアも、食い入るような目つきでご覧になられている方が多くて、私なんぞが安々と割り込める雰囲気はありません。ちょっと廻りを見渡したり、一歩退いてみたりするような気配も殆どなく、視線が対象に一直線に注がれている感覚です。こんなエネルギッシュな雰囲気の展覧会は久しぶりです。

ところで、一般的に日本の文化を外国で紹介することは、ともすると紋切り型の紹介で終わってしまいがちです。またそれに、文化の全貌を提示するのも大変に難しいことだと思います。その意味では、この「おたく展」も例外ではありませんでした。ここで紹介される「おたく」は、どうしてもステレオタイプ的な印象を受けますし、「おたく」のそもそもの領域や行為を、これはわざとなのだと思いますが、かなり不明瞭に提示していたので、少々物足りなさが残るようにも感じました。ですから、全般的にもう少し掘り下げる形の展示があれば良かったのではないかと思います。これは残念です。

最後に、会場でもらった冊子に、「おたく」の変遷がとても奇妙な形で説明されていました。長いですがここに引用します。

科学技術による絶え間ない前進がもたらす、輝ける未来。そのような、戦後の日本国民を高度経済成長へと駆り立てた未来像はしかし、1970年の大阪万博を最後の祭として、急速に色褪せてしまった。80年代の中頃には、そのような状況を反映して出現した新しい人格が、「おたく」という呼び名によって見いだされるようになった。
彼らは以前ならば、教室で「ハカセ」とあだ名される種類の少年たちだった。目の前の事柄よりも未来に憧れを馳せ、科学者を夢見るタイプである。それゆえ、輝かしい未来像の喪失によって受けた打撃が、ひときわ大きかったのである。
現実の未来が陰りだすと、かつての「ハカセ」たちは、夢を馳せる先を、虚構の世界に見いだすようになっていた。彼らの熱中の対象は、科学からSFへ、さらにSFからSFアニメへと移行した。
そのような受容を背景に発展した80年代の日本のアニメを見渡すと、核戦争や天変地異などによって既存の社会が破壊された後、超能力やロボットを操縦する特殊技能などによって、主人公が新たな世界の構築に英雄的な活躍を果たすという筋書きのものが多かった。色褪せた現実からの救済を、ハルマゲドンに求めようとする願望が、そこにはあった。
ところが、そのようなアニメ物語めいたハルマゲドンへの憧れを基盤にしたカルト集団が、毒ガステロによってこれを現実に引き起こそうとする事件が、1995年に起こった。約2ヶ月間にわたって日本の報道番組のヘッドラインを飾り続け、教祖の逮捕によって終幕したこの事件は、架空の未来に対して幻想を抱くことすらも困難にしてしまった。それ以降おたくたちは、学園時代のノスタルジアを重ねた「美少女」たちとの、架空な日常を描くアニメやゲームへと急速に傾斜してく。
そのような傾斜の過程で、「美少女」を中心とする架空のキャラクターに対するときめきの感情が「萌え」という呼び名で見いだされるようになった。「未来」に対する憧れを、「萌え」が代替したのである。


どうでしょうか。

「おたく」を現象として捉えて、その展開を追うスタイルそのものには異論がありません。科学からSF、アニメから美少女、そして「萌え」とする流れの説明は頷かされる部分が多いと思います。ただ、私にとって不思議なのは、それぞれの転換点の象徴として「大阪万博」と「地下鉄サリン事件」を持ち出していることです。オウム教団に関しては、その背景の「おたく」性を示した意見も見聞きしたことがありますが、それが「架空の未来に対しての幻想を抱くことすらも困難にしてしまった。」のでしょうか。これは私にはかなり乱暴な議論に聞こえます。もちろん、「大阪万博」も同様で、それが「未来像を色褪せてしまった。」とは到底思えないのです。もしこの辺の論理展開を補足していただける方がいらっしゃいましたら大歓迎です。どうぞご教授ください…。
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