都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「モネとジヴェルニーの画家たち」 Bunkamura ザ・ミュージアム
Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷区道玄坂2-24-1)
「モネとジヴェルニーの画家たち」
2010/12/7~2011/2/17
Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「モネとジヴェルニーの画家たち」のプレスプレビューへ行って来ました。
まさに印象派の聖地とも言えるパリ郊外のジヴェルニーてすが、今回の展覧会では大御所モネをはじめ、彼を慕ってやって来た数多くのアメリカ人印象派画家の系譜を辿る内容となっています。
展覧会の構成は以下の通りでした。
第1章 周辺の風景(ジヴェルニーのモネ)
第2章 村の暮らし
第3章 家族と友人
第4章 ジヴェルニー・グループ(睡蓮の連作)
モネ15点、またアメリカ人印象派画家60点超の計約80点にて、ジヴェルニーで興った芸術運動の潮流を探っていました。
さて今回はプレビューに参加し、展覧会を監修したテラ・アメリカ美術基金学芸員のキャサリン・ブルギニオン氏のレクチャーを拝聴しました。以下、その内容に沿って展示の様子を振り返ってみます。
最初の画家たち~ウィラード・レロイ・メトカーフ
モネがジヴェルニーにやって来て以来、様々なアメリカ人の画家がやって来たが、中でも早い時期のそれとして知られるのがウィラード・レロイ・メトカーフである。
当初は印象派のスタイルをとらなかった彼は、戸外で素早くスケッチを行い、その後アトリエでじっくりと仕上げるという手法を用いていた。
左、ウィラード・レロイ・メトカーフ「ジヴェルニー、1887年」 1887年 油彩・キャンヴァス ケンタッキー大学美術館
*説明するのはキャサリン・ブルギニオン氏
「ジヴェルニー、1887年」(1887年)では陰の表現に注目したい。印象派では陰に紫を使うことが多いが、彼は緑やグレーを多用していた。
アメリカ人と印象派~セオドア・ロビンソン
モネの2年後にジヴェルニーにやってきて、モネのアトリエにも出入りしていたのがセオドア・ロビンソンである。
左、セオドア・ロビンソン「冬景色」 1889年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
「冬景色」(1889年)はアメリカ人が初めて印象派スタイルをとった記念碑的作品。 村から少し離れた鳥瞰的景色を、前景をラフなタッチで、また遠景を紫を用いて表した。
ジヴェルニーのモネ~積みわらのモチーフ
モネは結局40年間ジヴェルニーにいたが、彼も当初は遠景ばかりを描いていた。
クロード・モネ「ジヴェルニーの冬」 1885年 油彩・キャンヴァス ポーラ美術館蔵
モネが「ジヴェルニーの冬」(1885年)を描いた頃は既に巨匠として画風を確立していたが、この作品を見ると雪を描くことには苦労していた後が伺える。
またモネと言えば積みわらが有名だが、彼は積みわらそのものよりも光や全体の雰囲気を描くことに関心があった。
クロード・モネ「積みわら(日没)」 1891年 油彩・キャンヴァス ボストン美術館蔵
積みわらは村の至る所に点在していた。それをモネは朝から晩まで繰り返して描いた。この「積みわら」は1891年の5月にパリで発表されたが、それをアメリカ人が見て自分たちも描こうと考えた。
アメリカ人と積みわら~ジョン・レスリー・ブレックの連作
ジョン・レスリー・ブレック「積みわらの習作:秋の日1-12」 1891年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
ブレックによる積みわらシリーズの習作を12点ほど展示。これは彼が3日間かけて取り組んだもので、積みわらに右から日が差してその後夕暮れへと至る様子が描かれている。
ジョン・レスリー・ブレック「積みわらの習作:秋の日7」 1891年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
同じシーンを同じタッチで描くことに注意しているが、モネはどちらかというともっと長い時間をかけて積みわらを描いていた。 ブレックは同じ画題を同じ構図で描くことをモネから学んだのであろう。
「婚礼の行列」~後ろにいるのはモネ?
ジヴェルニーには後に50名ものアメリカ人作家が集まったが、モネは次第に彼らと距離を置くようになった。しかしながら数人の画家との交流は続いた。そのうちの一人がセオドア・アール・バトラーである。彼はモネの義理の娘であるスザンヌと結婚した。
セオドア・ロビンソン「婚礼の行列」 1892年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
バトラーの友人であるロビンソンの描いた「婚礼の行列」(1892年)は、その婚礼の様子を表した作品。手前にいるのはバトラーとスザンヌだが、後ろを歩いているのはモネだという指摘もある。
モネはこの時期、人物ではなく風景ばかりを描いていたが、これを見るとアメリカ人画家がどのようにモネと関わっていたのが良く分かるのではないだろうか。
画風の変遷~アメリカ人画家にとってのジヴェルニーとは
モネの親族ともなったバトラーだが、彼はモネを学びながらも異なった画風を展開していった。
左、セオドア・アール・バトラー「読書をするリリー・バトラー」 1908年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
右、セオドア・アール・バトラー「画家の子どもたち、ジェイムズとリリー」 1896年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
自身の家族を描いたバトラーの「画家の子どもたち、ジェイムズとリリー」(1896年)もそうした一枚だろう。
またジヴェルニーに来た画家の中には印象派のスタイルをとらない者もいた。
左、フレデリック・ウィリアム・マクモニーズ「自画像」 1896年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
それがこの「自画像」(1896年)を描いたフレデリック・ウィリアム・マクモニーズである。画風は非常に古典的で、ベラスケスを彷彿させる面もあるのではないだろうか。
アメリカ人はジヴェルニーを画家の村としてだけではなく、美しくまた住み良い場所であると考えていた。モネを慕って来た者もいたが、そうしたジヴェルニーの環境を好んで引っ越して来た画家もいた。
展示を最初から追うと、モネの模倣から次第に独自のスタイルを確立していくアメリカ人画家の画風の展開を知ることができるだろう。
ジヴェルニー・グループ 1905~1915
モネの世代から少し時代を下って、1905年から1915年の間にジヴェルニーにやって来たアメリカ人画家を「ジヴェルニー・グループ」と呼ぶ。
フレデリック・カール・フリージキー「百合の咲く庭」 1911年以前 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
当初は装飾印象派と呼ばれていたのがフレデリック・カール・フリージキー。彼はモネの近くにはいたが、世代が異なったせいもあるのか、モネとの交流を殆ど持たなかった。
左、フレデリック・カール・フリージキー「庭の婦人」 1912年頃 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
屋外で描くことを重視して、明るい光を絵画に取り込んだ。「庭の婦人」(1912年頃)は代表的な作品である。
睡蓮の連作
展示ラストを飾るのがモネの一連の睡蓮を描いた5点の作品。モネは庭に半ば引きこもって、この睡蓮という画題に挑戦し続けた。
モネの「睡蓮」諸作品。
晩年の作品は抽象性を帯びてくる。目が見えなくなったこともあるが、光の移ろいを追求したモネの一つの到達点としても捉えることが出来るだろう。またモネは庭に日本の太鼓橋をかけた。日本美術への敬意を持っていたようである。
以上です。ジヴェルニーに集った様々なアメリカ人画家の画風の特徴などを、彼らの生活の有り様、またモネの芸術の変遷と関係付けて解説していました。
印象派というと、ともすれば見慣れたと思われる方も多いかもしれませんが、今回はあまり日本では紹介されないアメリカ人の画家の作品を丁寧に紹介する展覧会です。私自身とても新鮮な気持ちで接せられたのはもちろん、彼らの描くジヴェルニーの美しい光景に心から感銘するものがありました。絵を通して彼の地の光と風を感じるかもしれません。
奥、クロード・モネ「睡蓮、柳の反影」 1916-19年 油彩・キャンヴァス 北九州市立美術館蔵
最後の睡蓮のコーナーは圧巻の一言です。蓮と柳が渾然一体となった「睡蓮、柳の反影」(1916-19年)を見ると、晩年のモネが到達した孤高の境地に改めて感じるものがありました。
さて一つタイアップのお知らせです。エキナカなどでお馴染みのSoup Stock Tokyoが今回の展示にあわせ、「モネのスープ」と題した「ポロ葱のスープ」を来年1月11日より発売します。
実はプレビュー時に試食させていただきましたが、葱の甘みが口に広がって、どこかほっとするようなお味でした。私も小腹が空いた時によくSoup Stockへ立ち寄るので、発売後は是非もう一度食べに行こうと思います。
「モネのポロ葱スープ」@Soup Stock Tokyo 2011年1月10日発売~(2週間程度販売を予定。) 入館券を持参するとセット商品を購入した方に限り1ドリンクサービス。
会場風景
展覧会は2011年2月17日まで開催されています。(1/1のみ休館。他は連日開館。)なお東京展終了後、岡山県立美術館へと巡回(2011/2/25-4/10)します。
注)写真の撮影と掲載については主催者の許可を得ています。
「モネとジヴェルニーの画家たち」
2010/12/7~2011/2/17
Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「モネとジヴェルニーの画家たち」のプレスプレビューへ行って来ました。
まさに印象派の聖地とも言えるパリ郊外のジヴェルニーてすが、今回の展覧会では大御所モネをはじめ、彼を慕ってやって来た数多くのアメリカ人印象派画家の系譜を辿る内容となっています。
展覧会の構成は以下の通りでした。
第1章 周辺の風景(ジヴェルニーのモネ)
第2章 村の暮らし
第3章 家族と友人
第4章 ジヴェルニー・グループ(睡蓮の連作)
モネ15点、またアメリカ人印象派画家60点超の計約80点にて、ジヴェルニーで興った芸術運動の潮流を探っていました。
さて今回はプレビューに参加し、展覧会を監修したテラ・アメリカ美術基金学芸員のキャサリン・ブルギニオン氏のレクチャーを拝聴しました。以下、その内容に沿って展示の様子を振り返ってみます。
最初の画家たち~ウィラード・レロイ・メトカーフ
モネがジヴェルニーにやって来て以来、様々なアメリカ人の画家がやって来たが、中でも早い時期のそれとして知られるのがウィラード・レロイ・メトカーフである。
当初は印象派のスタイルをとらなかった彼は、戸外で素早くスケッチを行い、その後アトリエでじっくりと仕上げるという手法を用いていた。
左、ウィラード・レロイ・メトカーフ「ジヴェルニー、1887年」 1887年 油彩・キャンヴァス ケンタッキー大学美術館
*説明するのはキャサリン・ブルギニオン氏
「ジヴェルニー、1887年」(1887年)では陰の表現に注目したい。印象派では陰に紫を使うことが多いが、彼は緑やグレーを多用していた。
アメリカ人と印象派~セオドア・ロビンソン
モネの2年後にジヴェルニーにやってきて、モネのアトリエにも出入りしていたのがセオドア・ロビンソンである。
左、セオドア・ロビンソン「冬景色」 1889年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
「冬景色」(1889年)はアメリカ人が初めて印象派スタイルをとった記念碑的作品。 村から少し離れた鳥瞰的景色を、前景をラフなタッチで、また遠景を紫を用いて表した。
ジヴェルニーのモネ~積みわらのモチーフ
モネは結局40年間ジヴェルニーにいたが、彼も当初は遠景ばかりを描いていた。
クロード・モネ「ジヴェルニーの冬」 1885年 油彩・キャンヴァス ポーラ美術館蔵
モネが「ジヴェルニーの冬」(1885年)を描いた頃は既に巨匠として画風を確立していたが、この作品を見ると雪を描くことには苦労していた後が伺える。
またモネと言えば積みわらが有名だが、彼は積みわらそのものよりも光や全体の雰囲気を描くことに関心があった。
クロード・モネ「積みわら(日没)」 1891年 油彩・キャンヴァス ボストン美術館蔵
積みわらは村の至る所に点在していた。それをモネは朝から晩まで繰り返して描いた。この「積みわら」は1891年の5月にパリで発表されたが、それをアメリカ人が見て自分たちも描こうと考えた。
アメリカ人と積みわら~ジョン・レスリー・ブレックの連作
ジョン・レスリー・ブレック「積みわらの習作:秋の日1-12」 1891年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
ブレックによる積みわらシリーズの習作を12点ほど展示。これは彼が3日間かけて取り組んだもので、積みわらに右から日が差してその後夕暮れへと至る様子が描かれている。
ジョン・レスリー・ブレック「積みわらの習作:秋の日7」 1891年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
同じシーンを同じタッチで描くことに注意しているが、モネはどちらかというともっと長い時間をかけて積みわらを描いていた。 ブレックは同じ画題を同じ構図で描くことをモネから学んだのであろう。
「婚礼の行列」~後ろにいるのはモネ?
ジヴェルニーには後に50名ものアメリカ人作家が集まったが、モネは次第に彼らと距離を置くようになった。しかしながら数人の画家との交流は続いた。そのうちの一人がセオドア・アール・バトラーである。彼はモネの義理の娘であるスザンヌと結婚した。
セオドア・ロビンソン「婚礼の行列」 1892年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
バトラーの友人であるロビンソンの描いた「婚礼の行列」(1892年)は、その婚礼の様子を表した作品。手前にいるのはバトラーとスザンヌだが、後ろを歩いているのはモネだという指摘もある。
モネはこの時期、人物ではなく風景ばかりを描いていたが、これを見るとアメリカ人画家がどのようにモネと関わっていたのが良く分かるのではないだろうか。
画風の変遷~アメリカ人画家にとってのジヴェルニーとは
モネの親族ともなったバトラーだが、彼はモネを学びながらも異なった画風を展開していった。
左、セオドア・アール・バトラー「読書をするリリー・バトラー」 1908年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
右、セオドア・アール・バトラー「画家の子どもたち、ジェイムズとリリー」 1896年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
自身の家族を描いたバトラーの「画家の子どもたち、ジェイムズとリリー」(1896年)もそうした一枚だろう。
またジヴェルニーに来た画家の中には印象派のスタイルをとらない者もいた。
左、フレデリック・ウィリアム・マクモニーズ「自画像」 1896年 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
それがこの「自画像」(1896年)を描いたフレデリック・ウィリアム・マクモニーズである。画風は非常に古典的で、ベラスケスを彷彿させる面もあるのではないだろうか。
アメリカ人はジヴェルニーを画家の村としてだけではなく、美しくまた住み良い場所であると考えていた。モネを慕って来た者もいたが、そうしたジヴェルニーの環境を好んで引っ越して来た画家もいた。
展示を最初から追うと、モネの模倣から次第に独自のスタイルを確立していくアメリカ人画家の画風の展開を知ることができるだろう。
ジヴェルニー・グループ 1905~1915
モネの世代から少し時代を下って、1905年から1915年の間にジヴェルニーにやって来たアメリカ人画家を「ジヴェルニー・グループ」と呼ぶ。
フレデリック・カール・フリージキー「百合の咲く庭」 1911年以前 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
当初は装飾印象派と呼ばれていたのがフレデリック・カール・フリージキー。彼はモネの近くにはいたが、世代が異なったせいもあるのか、モネとの交流を殆ど持たなかった。
左、フレデリック・カール・フリージキー「庭の婦人」 1912年頃 油彩・キャンヴァス テラ・アメリカ美術基金蔵
屋外で描くことを重視して、明るい光を絵画に取り込んだ。「庭の婦人」(1912年頃)は代表的な作品である。
睡蓮の連作
展示ラストを飾るのがモネの一連の睡蓮を描いた5点の作品。モネは庭に半ば引きこもって、この睡蓮という画題に挑戦し続けた。
モネの「睡蓮」諸作品。
晩年の作品は抽象性を帯びてくる。目が見えなくなったこともあるが、光の移ろいを追求したモネの一つの到達点としても捉えることが出来るだろう。またモネは庭に日本の太鼓橋をかけた。日本美術への敬意を持っていたようである。
以上です。ジヴェルニーに集った様々なアメリカ人画家の画風の特徴などを、彼らの生活の有り様、またモネの芸術の変遷と関係付けて解説していました。
印象派というと、ともすれば見慣れたと思われる方も多いかもしれませんが、今回はあまり日本では紹介されないアメリカ人の画家の作品を丁寧に紹介する展覧会です。私自身とても新鮮な気持ちで接せられたのはもちろん、彼らの描くジヴェルニーの美しい光景に心から感銘するものがありました。絵を通して彼の地の光と風を感じるかもしれません。
奥、クロード・モネ「睡蓮、柳の反影」 1916-19年 油彩・キャンヴァス 北九州市立美術館蔵
最後の睡蓮のコーナーは圧巻の一言です。蓮と柳が渾然一体となった「睡蓮、柳の反影」(1916-19年)を見ると、晩年のモネが到達した孤高の境地に改めて感じるものがありました。
さて一つタイアップのお知らせです。エキナカなどでお馴染みのSoup Stock Tokyoが今回の展示にあわせ、「モネのスープ」と題した「ポロ葱のスープ」を来年1月11日より発売します。
実はプレビュー時に試食させていただきましたが、葱の甘みが口に広がって、どこかほっとするようなお味でした。私も小腹が空いた時によくSoup Stockへ立ち寄るので、発売後は是非もう一度食べに行こうと思います。
「モネのポロ葱スープ」@Soup Stock Tokyo 2011年1月10日発売~(2週間程度販売を予定。) 入館券を持参するとセット商品を購入した方に限り1ドリンクサービス。
会場風景
展覧会は2011年2月17日まで開催されています。(1/1のみ休館。他は連日開館。)なお東京展終了後、岡山県立美術館へと巡回(2011/2/25-4/10)します。
注)写真の撮影と掲載については主催者の許可を得ています。
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