そっちは危ないから
「行けることができるかも」「お聞きになれることができます」など、「行ける」「お聞きになれる」ですでに可能表現になっているにもかかわらず「ことができる」と続けてしまう、意外に多いのですよ、こういう人。あるとき、お母さんが「・・・やっていけることができる」と言い、続けて話した娘さんが「・・・感じれることができて」と言ったのには驚きました。母から娘にうつった?
「行けることができる」なんて分かりやすい重複ですが、・・・分かりやすい重複なのにこういう人が多いというのは・・・( ̄д ̄)?・・・25日の記事で挙げた例の一つ「逃げおおせることができました」は分かりにくいですね、これを聞いてパッと重複だと分かりますか?
例えば、「手をつなげる」はどういう意味か、ちょっと考えてみてください。これは「手をつなぐ」と同じ意味ですか? それとも、「手をつなぐことができる」という意味ですか? 「つなぐ」→「つなげる」、五段活用から下一段活用へ、こういうちょっと困った流れがありますから、可能表現なのに可能表現っぽく聞こえないということがあります。
「逃げおおせる」は、首尾よく逃げ切るという意味の「逃げおおす」の可能表現ですから、そこへさらに「ことができる」を付けるのは誤りですね、重複です。あっさり「逃げおおせました」でいいのですよ。これで「首尾よく逃げ切れました」「首尾よく逃げ切ることができました」という意味になります。
ふぅむ、逃げ切れたのか・・・何に追われていたのかなぁ( ̄_ ̄)?
「行けることができるかも」「お聞きになれることができます」など、「行ける」「お聞きになれる」ですでに可能表現になっているにもかかわらず「ことができる」と続けてしまう、意外に多いのですよ、こういう人。あるとき、お母さんが「・・・やっていけることができる」と言い、続けて話した娘さんが「・・・感じれることができて」と言ったのには驚きました。母から娘にうつった?
「行けることができる」なんて分かりやすい重複ですが、・・・分かりやすい重複なのにこういう人が多いというのは・・・( ̄д ̄)?・・・25日の記事で挙げた例の一つ「逃げおおせることができました」は分かりにくいですね、これを聞いてパッと重複だと分かりますか?
例えば、「手をつなげる」はどういう意味か、ちょっと考えてみてください。これは「手をつなぐ」と同じ意味ですか? それとも、「手をつなぐことができる」という意味ですか? 「つなぐ」→「つなげる」、五段活用から下一段活用へ、こういうちょっと困った流れがありますから、可能表現なのに可能表現っぽく聞こえないということがあります。
「逃げおおせる」は、首尾よく逃げ切るという意味の「逃げおおす」の可能表現ですから、そこへさらに「ことができる」を付けるのは誤りですね、重複です。あっさり「逃げおおせました」でいいのですよ。これで「首尾よく逃げ切れました」「首尾よく逃げ切ることができました」という意味になります。
ふぅむ、逃げ切れたのか・・・何に追われていたのかなぁ( ̄_ ̄)?
日本国語大辞典、広辞苑などいくつかの辞書で調べたところによると、「おおせる」は漢字で書くと「果せる」または「遂せる」で、文語形の「おほす」(サ行下二段活用)の口語形(サ行下一段活用)です。完全に何かをしとげる、すっかりし終えるという意味です。従って「逃げおおせる」は「首尾よく逃げ切る」という意味で、可能の意味までは含んでいません。「逃げおおせました」も「首尾よく逃げ切りました」という意味で、「首尾よく逃げ切ることができました」という意味にはなりません。「逃げおおせることができました」は、正しい表現です。
調べた中では明鏡国語辞典だけは、「おおせる」の意味として『動作をすっかりやり遂げることができる。…しきれる。…しとおせる』と、可能の意味を含めています。しかし、複数の辞書が例として挙げている「書きおおせた」などを思えば、やはり可能の意味までは含まないとするのが妥当でしょう。
文語形の「寄す」や「任す」の口語形である「寄せる」や「任せる」が可能の意味を含まないのと同じことです。
ただし複数の辞書が否定の場合の例として、「隠しおおせるもの(こと)ではない」で、「隠しきれるものではない」という(不)可能の意味まで含めた言い方を挙げています。「逃げ切れない」という意味で、「逃げおおせることはできない」の代わりに「逃げおおせない」という言い方も、普通にされるようです。
ちなみに「逃げおおす(おほす)」の可能表現は、「逃げおおせらる(おほせらる)」で、「逃げおおせる」にはなりません。また口語では「貸す」に対応する「貸せる」のように可能動詞が作られる場合がありますが、五段活用以外の活用をする動詞からは作れません。いずれにしても、「逃げおおせる」が「逃げおおす」の可能表現だというのは無理がありそうです。
しかし、もっと古い辞書(角川)を引っ張り出してきて見ると、「おおす」は「やり遂げる、果たす」、「おおせる」は「成し遂げる、終える」となっています。確かに、「やりおおせる」「読みおおせる」などは、あまり聞こえてくることもなく、単に「やり終える」「読み終える」ぐらいの意味だと思いますから、その後に「~ことができる」「~ことができない」と続けてもいいような気がします。そんなに抵抗は感じません。
ただ、「逃げおおせる」については、時代劇や刑事ドラマで「逃げおおせると思うな!」とか、聞こえてくることはたまにあって、まさしく「首尾よく最後までそれをやり通すことができる」の意味で「逃げ切れると思うな!」だと受け止めます。それに、「逃げおおせる」の「首尾よく逃げ切る」は、つまり、「うまく逃げられる」ということで、「逃げ切った」と聞けば「無事に逃げることができたんだなぁ」と、ほっとします。
「『逃げおおせる』が『逃げおおす』の可能表現だというのは無理がありそう」というご指摘はそのとおりですね。ありがとうございます。「『逃げおおせる』は、首尾よく逃げ切るという意味の『逃げおおす』の可能表現ですから、そこへさらに『ことができる』を付けるのは誤りですね、重複です」という書き方は適当ではありません。「『逃げおおせる』は、首尾よく逃げ切る、うまく逃げられるという可能の意味を含んでいますから、そこへさらに『ことができる』と続ける必要はありません」と改めたほうがいいようです。
ただ私自身は、今回「逃げおおせる」、「逃げおおせる」、「逃げおおせる」、と繰り返し考えていたら、可能のニュアンスはほとんど感じなくなってきました。意思を示す「絶対、逃げおおせてやるぞ!」や「逃げおおせようと思うな!」など、可能の意味を含まない言い方も浮かんできます。また「逃げおおせるとは思えない」なら、「逃げおおせるものではない」と同じように「できない」という意味が伝わってきます。けれども「逃げおおせると思うな!」は、確かに使われるかもしれませんが意思について言っているようにも聞こえ、「できると思うな」の意味なら「逃げおおせられると思うな!」の方が私にはしっくりきます。
「おおす」にはなじみがないのは文語表現なので当然ですが、「おおせる」は可能の意味になっているというのは、誰の感覚でもそうとは言えないのではないでしょうか。ご回答のように「可能の意味を含んでいますから、そこへさらに『ことができる』と続ける必要はありません」と積極的に勧めるのには、抵抗を感じます。「可能の意味は含んでいませんから、『ことができる』と続けた方が良いでしょう」というのが、私の見解です。まして辞書に可能を含めた意味だけを載せるのは、不適切だと思います。本来正しい「逃げおおせることができる」や「やりおおせることができる」が不適当な表現であるように解釈されてしまいますし、「絶対、逃げおおせてやる!」や「逃げおおせようなんてとんでもない(逃げ切ろうと考えるなんてとんでもない)」のような意思を表す表現が、意味が通じなくなってしまいます。
頑固でしつこくて、すみません。
実は現在、週に一回ボランティアで、外国人が日本語の勉強をするのを手伝っています。テキストの問題文に「読みきれない」という表現が出てきたので、「全部何かをする、とことんまで何かをする」という意味を含む「〇〇切る」という表現を並べて紹介しました。「言い切る」、「打ち切る(cutの意味もある)」、「売り切る」、「押し切る」、「締め切る」、「踏み切る」、「割り切る」、「思い切る」、「買い切る」、「貸し切る」、「乗り切る」、「寄り切る」、「逃げ切る」、「食べ切る」、「飲み切る」、「使い切る」、「冷え切る」などがあります。調べていた時に、このうち「逃げ切る」だけに「逃げおおせる」という表現が併記されていたので「逃げおおせる」について調べ、貴サイトに巡り合った次第です。
「切る」には対応する可能動詞「切れる」が(自動詞の「切れる」とは別に)あり、「〇〇切る」自体は可能の意味は含んでいません。けれども、特に「〇〇切った」と完了形で表現した場合は、「やりきった」、「投げきった」、「乗り切った」、「押し切った」なども、「逃げ切った」と同じように「できた」という意味が感じられますね。やはり動詞が表す動作が関係しているのでしょうか。
外国人に説明するときは、あくまでも文法上で正しい説明をして、さらに日本人が感じるニュアンスも伝えたいと考えています。相手をしているドイツ人女性とイタリア人男性は、二人とも「逃げ切った」に可能の意味も感じられそうな高い日本語レベルの人たちなので、こちらも気を抜けません。今回は大変勉強になりました。
同様に感じるものがほかにあるかということも考えましたが、今のところ浮かぶのは「隠しおおせる」くらいです。大切なものを守るという意志と知恵が盗人よりちょっとだけ上回った、そして、幸運でもあった、その結果、隠し通すことができる、この先も絶対に見付からないと安心できる、ということでしょうか。こう考えると、「~切る」のが困難であればあるほど「~できる」という意味が加わるような気がして、なんだか、いろいろなところへ想像が膨らんでいきます。