『江戸の坂・東京の坂』その49。今回は小石川の坂道を巡る。最初に歩いたのは伝通院の前から下る坂道で途中に善光寺があるため、その名をとって『善光寺坂』という。
善光寺は伝通院の塔頭で元の名前は縁受院と称していたが、明治になり善光寺に改め、信濃善光寺の別院になった。つまり、この坂の名前は明治以降に付けられたものである。
緩やかな坂をいくと道の真ん中に椋の古木がある。この木には坂の北側にある澤蔵司の魂が宿ると言われている。因みに坂の標識の後ろにあるのが善光寺である。
坂を下り切ると左側から道が合流、次の角を鋭角に曲がり、しばらく行くと道が左に曲がりながら坂道になるが、この坂が『六角坂』である。
この名前の由来は六角越前守の屋敷が曲がった辺りにあったことのようだ。
その先に古い教会があり、その先を左に曲がると始めは坂ではないが急に、急な下り坂になる。この坂道が『堀坂』である。この場所の北側に旗本の堀氏の宮内という分家屋敷があったことから堀坂または宮内坂と呼ばれた。また、当地の名主の鎌田源三の名前を取って源三坂と呼ばれた。因みに坂の下にはほうずき市でも有名な源覚寺(こんにゃくえんま)がある。
坂の上に戻り、左に曲がるとすぐにビルの中に小石川大神宮がある。こういうのも珍しい。
そして春日通りに出て、向かいには中央大学理工学部があるが、この辺りがちょうど『冨坂』の真ん中あたりである。
実は冨坂は長い坂道で春日町の交差点を境に伝通院方面が西冨坂、逆に本郷三丁目方向を東冨坂という。元は『とび坂』といわれ、鳥の鳶が多くいたためついた名前で鳶坂が転じて冨坂となった。
さらに文京シビックセンターの方に降りると左には戦没者霊園、さらに礫川公園がある。公園には春日局の像もある。これは春日町の由来は江戸時代に3代将軍家光の生母である春日局が拝領した土地であり、そのためかつては春日殿町と呼ばれていたことが記されている。
それにしても暑くなると坂の上り下りはなかなか辛い。この企画はいつまで続くのかな、やや心配である。