『江戸の坂、東京の坂』その50。今回は本郷菊坂周辺の坂道を歩く。7月下旬から異常な暑さが続き、平坦な道を歩くのも辛いのに坂道などとてもとてもと思っていたが、せっかく本郷あたりで時間があるので緩めの坂道でもと歩き始める。
本郷三丁目から東大赤門方向に歩くとゆるい上り坂、そして短く緩い下り坂がある。この坂が『見送り坂・見返り坂』である。江戸時代江戸の外れであった本郷は江戸所払いとなる者がかつてあった別れの橋で放たれ、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂、そして追放された者が振り返りながら去ったから見返り坂と呼ばれた。
ちょうどその真ん中辺りから左手に折れていく細長く緩い坂が『菊坂』である。この辺りには菊花を作る者が多かったため、この名前が付けられた。この辺りには樋口一葉のゆかりの物が多く残され、その案内図も配置されている。
菊坂を下りながら両側の坂道を訪ねるが、まず最初に出てくるのが、左手に登っていく『本妙寺坂』である。
この坂はその名前の通り坂を登ったあたりに本妙寺があり、その名前を取ったもの。ちなみに明暦の大火の原因となったと言われる『振り袖』を焼いたため、火元となったお寺である。
坂の標識の向かい側には『真砂遺跡』の標識。
この辺りには1704年~1858年に唐津藩主小笠原氏の中屋敷、幕末まで上田藩主松平氏の中屋敷があり、現在のビルを建設するにあたり調査したところ、当時の生活用具が多数の出土したため、この地の名前を取り『真砂遺跡』としたもの。珍しいものとしては1万8000年前の黒曜石で作られた矢じりなども出ている。
その先を行くと右手に細く登っていく急坂がある。今までは比較的緩やかな坂道だったが、急坂をふうふう言って上がる。この由来は2つあり、一つ目はその通り『大木の梨の木があったというもの』、もう一つは『江戸の後期はこの辺りには菊畑が並んでいたが、この辺りから無くなるため、菊無坂というとするもの』がある。
更に行くと右手には古い木造2階建、標識には『一葉ゆかりの伊勢屋質店』とある。かつて樋口一葉が近くに住み、明治29年に24歳で亡くなるまでこの質屋に通ったことが日記に書かれている。今は廃業しているが、跡見女子大の所有となり、公開される予定らしい。(以下次回)