hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

岩本町・神田岩本町

2018-06-25 05:00:21 | 日記

『神田をぶらり』その18。今回は岩本町を歩いて見た。実は岩本町の住居表示は面倒くさい事情がある。というのは岩本町1〜3丁目は住居表示実施地区に対し、神田岩本町は住居表示未実施となっている。昭和通りを挟んで西側に神田岩本町、東側は岩本町となる。

繊維メーカーのビルが立ち並んでいるが、これは明治初期に『吊るしんぼう』と呼ばれた古着の露天商が始まりと言われ、その後大規模な古着市場に発展、現在も岩本町から馬喰町、横山町あたりには繊維関係の会社が多い。


江戸時代、この辺りには大きな池があり、お玉ケ池(於玉が池)と呼ばれていた。その由来は池の近隣に美貌な娘『お玉』がいて、この娘を2人の男がいいよった。2人は人柄も品形も似ていたため、お玉は悩み、池に身を投げてしまう。この死を悼み、元は桜ヶ池と呼ばれたこの池をお玉ケ池と呼ぶようになったというもので、その後埋め立てにより池はなくなったが、その跡が岩本町2丁目にあり、パワースポットとして知られている。


また、亡くなった於玉の霊を供養するお玉稲荷もその近くに現存する。さらに江戸時代後半には蘭方医による種痘館(東京大学医学部の前身)があったり、佐久間象山や東堂一堂など多数の儒者や漢学者なども住み、江戸の学問の中心地であった。


岩本町交差点から一八通りと呼ばれる道を少し行くと北辰一刀流の免許皆伝、千葉周作道場『玄武館』跡が残されている。


元々小学校跡に記念碑が建てられていたのだが、工事のため見ることができなかった。しかし、ようやく工事も完成に近づき、碑にお目にかかれた。なお、千葉周作はお玉ケ池の先生とも呼ばれていたそうである。

また、岩本町交差点は靖国通りと中山道、水天宮通りが交わっているが、ちょうどこのあたりで東北や房総方面から物資の輸送のために荷車を引く牛馬の水飲み場が設けられていた。

その跡が中央分離帯のような場所に残されていて、記念碑もある。芝生が敷き詰められていて、ちょうど旅人のような御仁が寝っ転がっていた。

橋を渡ればすぐ先が秋葉原、高速道路も走り、昔の姿の面影はあまり残されていないように見えるが、調べてみると歴史的なものは残されていた。