hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

MARUZEN Cafe~日本橋グルメ

2014-11-20 05:00:30 | グルメ

日本橋は老舗が多いが、書店の丸善もその中の一つである。丸善は早矢仕有的が明治元年に横浜の新浜町に丸屋善八書店を創業したのが起源。しかし、早矢仕は医師でもあり、書店も東京や大阪に開業させるなど超人的に働き、事業を拡大した。

その早矢仕が牛肉のコマ切れと野菜のごった煮を米飯にかけて食べると栄養面、配膳の簡易性など優れていると病院食に取り入れた。当時横浜には外国人が多く居住していたこともあり、早矢仕先生の勧めもあったことからこのメニューが横浜市民に急速に広まったというのが『ハヤシライス』の起源の一つの説である。(他にもハッシュドビーフが転じてハヤシライスになったなど色々な説がある。)

前置きは長くなったが、今回は丸善日本橋本店MARUZEN Cafeで明治の先人の名残のメニューを楽しもうとハヤシライスを食することにした。

Cafeは丸善日本橋の3階の本の売り場の中にあり、お洒落な雰囲気。メニューは日替わりのあいがけになったものやオムライスにハヤシのルーがかかったもの、さらにハンバーグを合わせたものなどハヤシライスのメニューは豊富である。

折角なので『 ビーフプレミアム早矢仕ライス』(1250円)を注文する。
すぐに小さなサラダが運ばれてくるが、胡麻ドレがかかっている。

5分くらいしてハヤシライスの登場、ライスとルーが別のタイプで焦げ茶のルーからはいい香り。早速、ライスにかけて一口食べるが、最初少し甘みを感じるが、素材の味でコクが深く、さすがプレミアムの味。ルーは熱いが、次々とスプーンが進み、5分ほどで完食。


隣の品のいい老夫婦はハンバーグ付きオムライスハヤシソース掛けの大盛を注文していたが、見事に完食していた。

食後のコーヒー(別料金)をゆったり飲んで優雅なランチは終了でした。ご馳走さま。


MARUZEN Cafe
中央区日本橋2ー3ー10
0362020013

篠崎駅(都営新宿線)

2014-11-19 05:00:41 | 日記

『metroに乗って』その10。今回は都営新宿線篠崎駅、この駅は東京都の中で最東端にある駅で、次の終点・本八幡駅はもう千葉県市川市。因みに東京の最北端駅は青梅線古里(こり)、西は同じ青梅線の奥多摩、南は東急田園都市線南町田である。

都営新宿線は東大島駅辺りでは地上に出るが、また地下にもぐり、篠崎駅も地下にある。改札口はエレベーターで南口に出る口とエスカレーターで北、南、西の三方に出れるメインの出口に分かれる。地上に上がるとライフの入った立派なビルの中にあり、すぐ前がバス停、都営バス以外に京成バスも走っている。

駅を降りてほぼ京葉道路に平行に江戸川を目指す。途中、本郷用水親水緑道を歩くが、江戸川区には親水緑道が多く、流れる小川には小魚も住んでおり、なかなかの旅情に浸れる。


10分ほど平らな道を歩くと江戸川の土手に出る。土手とはいうものの、川は野球場の向こう側にあり、100mくらいははなれている。また、目の前には江戸川大橋があり、かなりの通行量。土手の道路は学生や子供連れが歩くのんびりムードとは対照的である。



京葉道路を越えると小さな馬場が出現。これはポニーと無料で遊ぶことができる『ポニーランド』。ちょうど昼休みが終わりポニー3頭が係員に引かれ出てきたが、これがなかなか可愛い。子供達は馬がきたと大はしゃぎ、これから背中に乗ったり、馬車に乗って遊ぶのだろう。



その先には水上バスの停留所があるが、今日は船はこないらしく、おじさんが2人釣り糸垂れている。

それから川辺に別れを告げて船堀街道に出る。そこから篠崎小学校の横を通り、駅にもどろうとしたが、急に農家が出現する。前の畑にはキャベツやネギが沢山植えられており、この辺りでも収穫されるのかと感心。ただ、名物の小松菜の畑がないのが、残念。


そこからまた京葉道路を越えて駅に向かう。とにかく、勾配がないのがこの辺りの特徴、散歩にはやはり江戸川区は最高である。もちろん坂道がないと面白味には欠けるという見方もあり、よく考えると勾配があったのは江戸川の土手にあったのみである。

都営新宿線篠崎からゆっくり歩いたが、江戸川区篠崎町辺りはまだまだ、宅地開発とマンション建設が進む子供達の多い町である。

ルビより漢字が多い熟語

2014-11-18 05:00:08 | 日記

『改めて知る漢字』シリーズ その4。漢字の数よりルビの数が少ない熟語など無いように感じるが、実は鳥の名前や魚の名前には結構ある。この事実に小生が気がついたのは今から10年ほど前に新大阪駅で地下鉄御堂筋線に乗り換えた際に、行き先方向板に『なかもず』と書いたのを見て、そういえば『モズ』は漢字で書くと『百舌鳥』だよなあと思った時である。
もちろんこういう例はあまり一般的ではなく、通常、漢字一字で書くが、こういう書き方もある程度のものも多いが。

まずは鳥の名前、百舌鳥(モズ)、啄木鳥(ケラ)、桃花鳥(トキ)。
ただ、一般的にはトキは朱鷺と書くし、啄木鳥はキツツキとも読む。

次に魚の名前、大口魚(タラ)、蝦虎魚(ハゼ)、海鶴魚(エイ)、啄長魚(ダツ)、狗母魚(エソ)、青花魚(サバ)とこれは結構沢山ある。これもタラは鱈、ハゼは鯊、サバは鯖の方が一般的である。


それ以外にも一般的なものとして香具師(ヤシ)、豆汁(ゴ)、七五三(シメ)などという使い方もある。香具師とは祭りなどの露店でものを売ったり、芸を見せたりする的屋のこと、豆汁は豆腐を固める前の豆乳のこと、七五三を『しめ』と読むのはしめ縄(注連縄)に由来し、昔のしめ縄は同じ太さの横縄に3本、5本、7本の縄をぶら下げたことから来ている。

一字の漢字に一字以上のルビが付くのが一般的だが、漢字の方が多い熟語があるなんて、やはり漢字は面白い。

九段付近の坂(2)

2014-11-17 05:00:30 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その12。今回は九段の坂の2回目。


靖国神社にて英霊のお参りを済ませ、九段坂上に向かう。靖国神社の敷地内には大村益次郎の銅像を仰ぎ見て靖国通りに戻ると九段坂上。九段坂を見下ろす歩道橋を渡り、坂を下りるが、かつてなかなりの急坂であったらしい。




坂の右手には昭和館という昭和をアーカイブできる記念館も見ることができる。
坂の下まで降りて飯田橋方向に歩き、つぎの信号を左折すると『中坂』。この坂はかつては飯田喜兵衛が住んでいたため飯田坂と呼ばれたが、のちに冬青木坂と九段坂の間にあるため中坂と呼ばれるようになった。


坂の途中には築土神社があるが、ビルの中にある不思議な建物。また、坂の上には『硯友社』の後の碑がある。


坂の上まで登り、フィリピン大使館の手前を右折すると『冬青木坂(もちのきさか)』。この坂の横に古いモチノキがあったからではなく、常磐木があったがそれをモチノキと間違えて読んだため、今の名前になったと新編江戸志にある。



また、坂を登り、右に曲がると暁星学園のグラウンドに沿って『二合半坂』という不思議な名前の坂がある。


江戸時代の史料には『日光山が半分に見えるためこの名前になった』とあるが、なぜ日光山が半分みえると二合半になるのか。これに対し、標識には『隣の富士山を10分割して見ると日光山は半分の5分くらいでそれが半分だから二合半』という説、あまりに急坂のため、一合の酒を飲んでも二合半飲んだように酔ってしまうという説などがあるが、不思議な名前である。また、急坂とあるが、其れ程の急坂ではない。


九段の坂は音羽の坂と比較して真っ直ぐで、勾配が緩やかな坂が多い気がする。また、靖国神社を見た上で九段下駅にむかった。

加刷切手(日本の記念切手)

2014-11-16 05:00:29 | 日記

切手シリーズ その37。今回は加刷をされた記念切手を取り上げる。加刷とは一度印刷した切手の上にさらに図案や数字・文字などを印刷を重ねることで加捺とも言う。

加刷と一口で言うが、実はその理由は様々である。日本の切手で最初に加刷されたのは在外局の支那字入、朝鮮字入加刷切手で明治時代に発行されたもの。朝鮮字入は1901年3月、支那字入は1921年12月に発行を取りやめている。

この発行の理由は日本と在外局で等価で切手を発行したところ、日本通貨より価値の低い現地通貨で切手を買い、日本で売る商売が蔓延ったため、これを規制する目的で菊切手などに加刷したものである。この種の切手には偽物が多く、注意を要する。( 他にも海外占領地で現地切手に加刷したものや軍事と加刷された軍事切手もある。青島軍事は偽物が多いことで有名。)

では最初に加刷された記念切手はというと1900年5月に発行された大正天皇婚儀記念切手で先ほどの『支那』、『朝鮮』が加刷されたものである。

つぎは有名な切手で1919年10月に発行された飛行郵便試験記念の切手。普通切手(旧大正毛紙切手)の1 1/2銭に赤の飛行機、3銭に黒の飛行機を石版加刷したもの。実はこの発行には飛行機は間に合わなかったのだが、1 1/2銭が5万枚、3銭が3万枚しか発行されたかったため、今も大変高額で取引されている。

次は1942年2月のシンガポール陥落記念でこれは当時の普通切手に『シンガポール陥落 +1』と2銭の乃木大将の切手には黒で加刷、同じく『シンガポール陥落+2』と4銭の東郷元帥の切手には赤で加刷され、それぞれの数字の部分が寄付金で売価は3銭と6銭であった。
以上の二つはいずれも切手の新たな印刷が間に合わず、既存の普通切手に加刷したものである。

他にも加刷されたものとして1948年4月発行の北斎100年祭記念切手が挙げられる。これは1947年11月発行の切手趣味週間の小型シートに赤字で加刷されたもの。この小型シートは当時としては桁違いの287万枚発行したが、売れ残り、その処理として北斎100年祭記念として12万枚発行されたが、前者はカタログ価格で600円だが、後者は3000円する。

同じく1948年3月の三島切手展記念切手も1948年3月の大阪逓信展記念切手に緑で加刷されたもの。やはりこれも大阪はカタログ価格で1700円だが、三島は9000円もする。
当時は、全国の切手展で記念切手が発行されたが、乱発という批判が強かったが、特にこのケースは開催地にかなり失礼な気がする。

あと記念切手ではないが、戦後初めての総選挙となった1949年1月の第24回衆議院議員選挙で候補者1人につき1000枚の選挙切手が交付されたことがある。当時の封書の郵便料金である2円農婦の図案の切手に赤で選挙事務と加刷されたものである。官製はがきに交換することもできたが、実際に使用することもできた。ただ、この制度はこの一回だけでその後は行われていない。この切手自体はあまり高価ではない(販売価格80円程度)が、実逓(実際に使用されたエンタイア)はかなり高額で取引されている。
実は日本で加刷された記念切手はこれだけであるが、いずれもあわてて発行したものが多いようである。

九段付近の坂(1)

2014-11-15 05:00:30 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その11。今回は九段の坂を巡るが、前回の音羽以上に見所が多く、2回に分けてレポートする。市ヶ谷駅で降りて靖国通りに沿って九段方向に。



最初の坂は九段に向かい右手、三菱UFJ銀行の脇を上がる緩い坂。『帯坂』というが、これは番町皿屋敷の旗本青山播磨の腰元お菊が髪を振り乱し、帯を引きずって逃げたという伝説による。坂を登ると右手に日本棋院がある。

靖国通りに戻り、九段を目指すと2つ目の信号が一口坂とある。この読み方だが、信号の下のローマ字は『ひとくちざか』だが、正しくは『いもあらいざか』と読む。



これは江戸時代に流行った『疱瘡』を『いもがさ』『へも』などと呼び、これを洗う=治すという意味で近くに霊験あらたかな社があったと考えられる。同名ねか神田駿河台の一口坂は坂の上に一口稲荷(いもあらいいなり)があるが、こちらはその神社は分かっていない。なお、この坂は交通量が多く、この日も上から坂の下まで繋がっていた。


一口坂を降りて三輪田学園を右に曲がると法政大学の背の高い校舎と靖国神社の間の道に出る。虚子の歌碑があり、さらに少しまっすぐ行くと『富士見坂』、これは駿河台の富士見坂同様に江戸時代は富士がよく見えたものと思われるが、今は全く面影もない。この辺りは富士見という地名になっているが、これも同様の起源と思われる。



更にまっすぐ歩き、右に曲がると靖国神社の裏門に到着、この辺りは妙に警備の警察官が多い。現在、中の遊就館では『大東亜戦争70周年記念展覧会』を開催中。それにしても中は広い。(以下、次号)


mocchi~渋谷グルメ

2014-11-14 05:00:25 | グルメ

井の頭線神泉駅をご存じだろうか?渋谷駅から一駅目で渋谷区神泉町にある。渋谷を出るとすぐにトンネルに入り、さらにトンネルを出て、すぐに踏切、その先が神泉駅である。昔はホームが短く、わずか5両編成の電車も1両目のドアは開かなかった記憶がある。

その駅を吉祥寺に向かって右に降りると上り坂と平坦な道の二つにわかれるが、平坦な道の方に行き、数軒先の店が今日伺ったmocchiである。イタリアンのような名前だが、おでんが名物のれっきとした銘酒居酒屋である。

店は4段くらい降りたところが入口。中に入ると丸いカウンターで今日は冷蔵庫の前の一等席に座る。


まずはビールで乾杯。お通しは柿の胡麻味噌和えとキノコのすり流し。柿はあまり好まないが、柔らかく胡麻味噌がしっかり料理にしている。キノコのすり流しも味わい深く、寒い日にはホッとさせてくれる。


刺身はブリを注文、腹に近い脂ののったあたりは炙りで出てくる。この時期はマグロトロを上回る旨さである。合わせたのは写楽(福島県)の純米酒。純米酒のしっかり感が脂ののったブリにはよく合う。


次に『鯵の南蛮漬け』、一転サッバリして頭から食べられる。早くも二杯目、風の森(奈良県)に移る。

ここで本命のおでんが登場。盛り合わせには卵、ダイコン、しらたき、さつま揚げ、つみれが入り、おぼろ昆布が載せてある。添えられたのは辛子でなく、辛子味噌。関西風の柔らかい味の出汁がなかなか、中に吸い口で入れた柚子が香る。特におでんはやはり大根が好みである。

次いで酒は十九(長野県)に移るが、しっかりしていてそれでいてよく香りがたつ。味わいながらおでんをお代わり、がんも・鳥つくね・厚揚げを食べるが、あっさりしながら美味い。


酒は作(三重県)に移るが、つまみは牡蠣の揚げ出し海苔ソース。牡蠣が海苔のソースによく合い、さらに作がこれを受け止める。いや、秋の味である。そろそろ、寒くなるこの季節にゆったりするにはなかなか良い店である。その上、小生は一本で帰れるし。



mocchi(もっち)
渋谷区神泉町2ー9シャルム神泉b1
0334610767

3つの漢字で作る漢字

2014-11-13 05:00:55 | 日記

『改めて知る漢字』シリーズ その3。漢字は表意文字だが、それを数で表すことがある。例えば木が1つで木、2つで林、3つで森のようにである。

また、同じ漢字を重ねるとより強調することもできる。例えば、赤は(顔などが)赤くなる様を表すが、赫は(顔などが)燃えるように赤くなったりする様を表し、さらにこれに口偏がつくと『威嚇』のようにおどかす様になる。同じような字を集めてみると結構ある。

口が3つで品、女が3つで姦(かしま)しい。日が3つで(水晶)の晶、毛が3つで毳。火が2つで炎だが、3つでも焱(えん)。この辺りからあまり見ない字だが、石が3つで『豪放磊落』の磊(らい)。耳が3つで聶(じょう)、プロ野球ソフトバンクの攝津投手の始めの字のつくりの方である。

さらに車が3つで轟(とどろき)、同じく馬が3つで驫。これは青森県を走る五能線に『驫木駅』があるから見たことがあるひともいるだろう。貝が3つで贔(ひ)と読むが『贔屓』(ひいき)はしっているだろう。直を3つで矗(ちく)、南極探検隊の白瀬矗の名前はのぶと読む。


なかなか変換しても出てこないため、詳細は紹介できないが、3つ重ねた漢字では刀・十・子・鹿・止・牛・犬・田・白・虫・言・隹・龍・舌・原・泉・金など沢山ある。

さらに4つも結構あるらしいが、その中で龍を田字型に並べた『てつ』と興を同じように並べた『せい』がいずれも64画で国立国会図書館にある漢和辞典に載っている総画数では最大の字ということになっている。

また、さらに雲を3つ、龍を3つ重ねた漢字が日本人の苗字にあるとして『難読姓名辞典』にはあり、『だいと』『おとど』と読むとの記載がある。

それにしてもこんな姓に生まれたら試験の答案に名前を書くだけでもたいへんであろう。漢字は奥が深い。

木場駅

2014-11-12 05:00:37 | 日記

『metroに乗って』その9。今回は東京メトロ東西線木場駅である。東西線は大手町、日本橋、茅場町とオフィス街を通り、門前仲町を経て木場駅に到着。

1967年開業時の終点東陽町駅の一つ手前で江東区木場にある。駅前は三ツ目通りと永代通りの交差点に近い。


まず、駅の裏には繁盛稲荷神社がある。これはデパートの大丸の始祖である下村彦右衛門が1757年に創建したもので明治末に大丸江戸店閉店の折に社殿は根津嘉一郎にひきとられた。その後、1960年に根津氏より再度社殿を譲り受け、再建したものである。往時は大変信仰され、周辺の橋が繁盛橋といわれたらしい。

この辺りは地名の由来通り周辺には木材関連の倉庫や貯木場があり、それを運河が結んでいたが、新木場に貯木場が移転、今は主に公園などになっている。駅のから東に向かうと橋があるが、その下には川はなく駐輪場になっており、その先が木場親水公園。川波衆のブロンズ像がある。


公園に沿って歩くとすぐに首都高速の木場ランプの歩道橋にぶつかる。歩道橋を越えると木場橋、しかし、その下も小さな川がある程度。

まっすぐ行くと三ツ目通りを挟んで木場公園になるが、その手前にはA寝台車を改造したレストランがあり、うたい文句は『オリエント急行で修行したシェフが日本の最高級の寝台車を改造したレストランで腕を振るう』とある。


木場公園は24.2haもある埋め立て地らしいフラットな公園。イベント池があり、10月の祭りでは角乗りも見れるとか。今は鴨や鳩の休息場である。イチョウの黄色が鮮やかな先には葛西橋通り、その先に仙台堀川が流れており、またもや親水公園となっている。



下町だからゴチャゴチャした風景を想像したが、開けた公園の多い秋の似合う美しい町である。



音羽付近の坂(2)

2014-11-11 05:00:04 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』シリーズ その10。音羽の坂の2回目。音羽の名前は江戸時代に元は護国寺の寺領だったものを町にしたが、これを大奥の女中音羽が譲り受けたため、その名前を取ったもので、音羽通りに沿った細長い町である。
今回は江戸川橋に向かい左側を歩く。小生は三丁目坂の反対側の坂の途中に10年ほど住んでいたが、残念ながらこの坂には名前がない。


名前のある坂は前回紹介した『鳥尾坂』のほぼ向かい側で音羽通りから一本中に入り、少し行ったところにある『鼠坂』。細く半分は階段の急坂で上まで登ると足が疲れる。江戸時代に名付けられたらしく、森鴎外の小説にも『小日向から音羽に降りる鼠坂という坂がある。鼠でなくては上り降り出来ないという意味で付けられた名だそうだ。』と書かれていて、『人力車に乗って降りる事が出来ないのはもちろん、空車にして挽かせて降りる事も出来ない。車を降りて歩いて降りる事も雨上がりなんぞには難しい。』と続けている。今回も知らないお婆さんが上から降りてきてすれ違いざまに大変ですね、と声を掛けられる始末である。なお、この坂の別名は『水見坂』で坂の上から音羽の谷を流れていた(今は暗渠となっている)弦巻川が見えたからとも言われている。


鼠坂の頂上を右に曲がると鳩山会館の裏手を通る細い道に出る。その先にはこれも車の通れない細い坂が姿を表すが、これが『八幡坂』である。この坂は今宮神社の横を通る坂で安政年間の江戸切絵図にも載っている。明治時代までは今宮神社の中に田中八幡社があったためにこの名前がついた。



八幡坂を降りて左手に道なりに歩くと左には細い急坂、まっすぐ坂になっており、右に90度曲がる。この坂が『鷺坂』である。この辺りは江戸時代に関宿藩主久世某の屋敷があったため『久世山』と称せられた。大正になり、周囲に文士(堀口大學、三好達治、佐藤春夫ら)がすむようになったが、彼らは『山城国の久世の鷺坂』との連想から鷺坂と呼びその名前が定着したのがこの坂の由来である。




小日向台に登る坂は3本とも細く車の通行も難しそうな坂であった。僅かな間に9本も名のある坂がある、さすがに文京区は坂の宝庫、坂を下りると江戸川橋駅はもうすぐである。