hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

パンジーとビオラ

2014-11-10 05:00:19 | 日記

玄関横に3つのテラコッタを置き、季節の花を植えているが、夏の日日草も咲かなくなり、今が植え替えの時期。農協に行って花を購入することにしたが、毎年悩むのが、どの色を買うかと、パンジーにするか、ビオラにするかである。

そこではたと気づいたが、パンジーとビオラは何が違うのか。今まではぼんやりと『花が大きいのがパンジーで小さいのはビオラ』と思っていたが、気になったので調べてみた。

結論から言うとパンジーとビオラは学術的には同じ種類でスミレ属スミレ科の植物。園芸的には『ビオラは花の直径が5cmより小さいもの、パンジーは5cm以上のもの』を言うらしい。元はパンジーしかなかったが、20世紀になり、パンジーの中で小さな品種をビオラと呼んで区別し始めた。

品種改良が進み、今ではパンジーの中には花の直径が10cmを超えるものもあり、また、ビオラには1cmを下回るものもある。さらに『パノラ』と言ってパンジーとビオラの中間のサイズを指す品種すらあるようである。

ではその名前の由来だが、パンジーは物思いに耽る人の顔に見えることからフランス語のpansee(思索の意)から取られたようである。因みにビオラの由来はギリシャ語のionでゼウスが少女イオのためにスミレを咲かせたという伝説から取られたもの。

さらに最近『よく咲くスミレ』というのもあるが、これはサカタのタネがパンジーの華やかさとビオラの強さを持つスミレとして開発した種類である。

簡単に言ってしまうとあまり区別はないというのが真実のようだが、これから庭先で長く楽しましてくれる大切な花々である。

コイル切手

2014-11-09 05:00:12 | 日記

切手シリーズ その36。切手を収集した経験のある人ならば大概耳にしたことがある『コイル切手』を取り上げる。
コイル切手とは目打ち(切手の周りのミシン目)が縦か横の二方がない切手のことで、自動販売機に対応したものとして開発された。
世界で初めてコイル切手を発売したのはアメリカで20世紀初めに切手の自動貼付機の開発がされた際にダイレクトメール業者の要望を聞いて開発されたもので、1906年に初めて登場した。

日本でも1933年に東京中央局に切手の自動販売機が設置され、そのために新大正毛紙切手の1 1/2銭と3銭切手が発売されたのが最初。日本の普通切手は縦型が多く、そのため、目打ちは両横がない。

次いで1937年に昭和白紙の3銭、1938年に乃木希典図案の2銭のほか3種類が戦前に発行されたが、大きな郵便局(集配局)に機械が置かれた程度であまり普及しなかった。


戦後は1959年の第二次動植物国宝切手の5円のオシドリと10円の法隆寺壁画の2種が最初で、1961年の五重塔航空切手30円、ソメイヨシノの10円、建長寺の30円と発行された。


小生も子供の頃、同じ普通切手でも『コイル切手』は高いと記憶しているが、それは今も変わらない。例えば五重塔航空30円は通常の切手はカタログ価格800円に対し、コイル切手は8000円もする。同じくソメイヨシノの10円も通常切手は70円に対しコイル切手は1000円する。これは発行枚数と販売郵便局が少なかったせいでもあり、その後のコイル切手販売の際に人気があったのも頷ける。

その後も1968年の15円菊と100円タンチョウ、郵便番号宣伝15円の3種類。1972年の20円松、1979年10円のシカ、1976年の50円の弥勒菩薩、1989年の41円のヒオウギガイと62円のオオイトカケガイ、1994年の60円メジロ、80円ヤマセミ、1998年10円コアオハナムグリと発行された。


さらに1997年4月に同じ台紙の切手に異なる額面を印字する画期的な自動販売機が開発され、50円、80円、90円、130円の4種類が発行できる機械だった。
1997年12月に『定形外郵便50グラムまで』の郵便料金が130円から120円に引き下げられたため、130円の発行枚数が少なく、今も高い。(異なる台紙で270円切手も発行された。)この当時、ますますコイル切手が発行されると思っていたが、あっと言う間に、全く発行されなくなり、郵便局の片隅にあった切手の自動販売機も姿を消した。

これは切手を24時間営業のコンビニで買うことができ、さらに、郵便局も時間外窓口を整備させたため、自動販売機のニーズが無くなったと判断したものである。そのため、2007年7月をもって自動販売機は全廃してしまった。

これは収集家としては何とも寂しい話で何とかまた復活させて貰いたいものだ。

音羽付近の坂(1)

2014-11-08 05:00:06 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』シリーズ その9。今回から2回にわたり、文京区音羽あたりの坂を取り上げてみる。音羽通りは護国寺の参道として栄え、今も護国寺の山門から江戸川橋までほぼ直線で結んでいる。そして、江戸川橋に向かい右側には目白台や関口台と言われる台地が、左側には大塚や小日向台と言われる台地が続き、丁度谷底に道路がある。そして、音羽通りを背骨に例えると肋骨のように坂道が数多く存在する。

今回は江戸川橋に向かい右側を護国寺駅から歩いてみる。地下鉄の出口を見て、今は高層化した講談社の前を通ると大塚警察署の前に来る。(いまは建て替え中)


これを右に折れると『三丁目坂』となる。今は音羽は1~2丁目だが、かつては1~9丁目まであり、この辺りは3丁目だったためこの名前がある。高速道路の下くらいまでは緩い坂だが、その先はきつく長い坂である。以前は坂の上には東大分院があった。


一度、坂の下まで降りて高速道路の下を行くが、遊歩道となっている。ふと見るとネコの小屋があり、2匹のネコが仲良く暮らしている。



その先は『鉄砲坂』で細くS字の勾配の急な坂。今は東京音楽大学の寮になっているが、江戸時代には鉄砲の練習の射撃場があったため、この名がついた。


さらに行くと『鳥尾坂』、これは明治時代に隣にある鉄砲坂があまり急坂のため、この近くに住んでいた鳥尾小弥太(貴族院議員)が私費を投じて作らせた坂であるため、その名を残している。

青柳幼稚園を越えて児童公園の脇に『七丁目坂』がある。この坂は途中から階段になり、歩行者した通行できない。


そしてでてくる広い坂が『目白新坂』、これはその南側の目白坂のバイパス的に明治時代に作られた新しい坂で広くバス通りとなっている。坂を目白台方向に登ると頂上付近で目白坂と合流する。そして左側には椿山荘、右側には獨協学園や聖カテドラル聖堂がある。


今度は椿山荘の前を左折して坂を下るが、こちらは狭くなり、途中から一方通行に。関口台町小学校を過ぎるあたりで右に緩くカーブし、坂も急になる。



坂を下りるともう目の前に神田川、川を渡ればすぐに江戸川橋駅がある。距離は大したことはないが、6本の急坂を登り降りすると秋の1日でも汗をかくほどである。反対側の坂は次回。

特異日

2014-11-07 05:00:07 | 日記

特異日は文化の日だけではないこと調べてみて初めて知った。一般に特異日とは前後の日に比べて歴然と異なる確率で特定の気象状態が現れる日で、英語ではsingularityと言われる。

農業国である日本では古くから気象の言い伝えがある。例えば『二百十日』というが、実は立春(3月4日あたり)から210日目は9月1日頃だが、この時期は8月下旬と9月中旬の台風襲来の狭間で逆に台風襲来は極めて少なく、これは現代では特異日とはとても言えない。

では、11月3日以外の特異日とはいつなのか?東京の晴れの特異日は1月16日、3月14日、6月1日。逆に雨の特異日は3月30日、6月30日、7月17日、9月12日。台風襲来の特異日は9月17日と26日である。

このデータを今年の実際の天気に合わせせてみると1月16日は寒いが晴れ、3月14日は今年は曇り、6月1日は晴れ、しかも最高気温は33℃。雨の方は3月30日は一日中雨、6月30日は曇り、7月17日は曇り後晴れ、9月12日は晴れとなった。つまり晴れは11月3日まで含めて3勝1敗、雨は1勝3敗だから合わせると50パーセント程度だが。実はその前年を見ても晴れはかなりの確率で当たるが、あまり雨は当たらない感じである。

因みに台風襲来の9月17日は1948年(カスリーン台風)、1961年(第二室戸台風)、26日は1954年(洞爺丸台風)、1958年(狩野川台風)、1959年(伊勢湾台風)、1991年(19号)と確かに有名な大きな災害を起こした台風が襲来した時期である。これは言い伝えや迷信でなく、統計上のことだから興味深い。

特異日=文化の日でなく、それ以外にもこれだけあることを知ったが、かつての体育の日10月10日は特異日ではないので念のため。

宝町駅(都営浅草線)

2014-11-06 05:00:07 | 日記

『metroに乗って』その8。今回は都営浅草線宝町駅。地下鉄には今はもうない地名の駅が開業の早い路線に残っている。例えば銀座線の稲荷町、末広町、田原町、青山一丁目、丸ノ内線の茗荷谷などがあるが、宝町という地名も旧京橋区宝町に由来するが、1978年に京橋に統合される形で消滅した。


駅は相対式ホームで地下から地上に上がる階段は90段近くあり、なかなか壮観である。地上に出ると昭和通と鍛治橋通りの交差点に位置し、銀座線京橋駅や日比谷線八丁堀駅までも割に近い。


周辺は全信連ビルや清水建設、味の素などの本社がある。しかし、一本中に入ると何故か画廊が多く立ち並んでいる。



人形町で勤めるまでは殆ど降りたことのない駅であったが、意外に便利で東京駅も近い。駅前は昭和通りと鍛治橋通の交差点に近く、日中はかなりの交通量、さらに高速道路などにも囲まれた大都会の真ん中の駅である。


日本橋浜町

2014-11-05 05:00:26 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その14。今回は日本橋浜町を歩く。浜町は西側に人形町や蛎殻町、北に久松町や東日本橋、東側には隅田川に接する日本橋地区では最も南東の一角を形成する。


町名の由来は昔は海浜のおもかげわを残していたからと言われ、江戸時代は武家地と町地がある入りまじりの町でかなり後までも武家地とはさて残っていた。

浜町の中心である都営新宿線浜町駅はほぼ浜町公園の地下に位置し、出口を出ると最近某女性代議士が選挙区の女性支援者を東京に呼んで某演歌歌手の歌謡ショーを見せたという明治座が目の前にそびえる。因みに明治座はもとは久松町にあった喜昇座が明治12年に久松座になるも、廃座や火事に遭い、失われ、これを元に市川左団次が明治26年に新たな劇場としてスタート、その礎を作ったものである。


また、浜町公園の中には競技場やテニスコートの他に、1861年に熊本藩主細川斉護公により建てられた清正公が祀られている清正公寺もひっそりと残されている。



さらに周囲には手ぬぐいを染める店などあり、公園の中の道を行くと、現在建て替え中の水天宮の仮宮も浜町にある。そこから信号を渡るともう甘酒横丁に出る。

1丁目方向にいくとすぐに隅田川が見えてその先には水上バスの渡船場を発券する船着き場がある。


1丁目はどちらかというとかなりの下町の趣きが残り、マンションと戸建住宅、さらに小規模なオフィスが立ち並んでおり、日本橋地区では浜町が人口が最も多いのが納得がいく。


このあたりは日本橋地区ではまだ人の多く住み、町の良さが残る。さらに公園や劇場、神社、古い商店なども点在する街歩きには楽しい街である。


文化の日

2014-11-04 05:00:19 | 日記

『文化の日』は11月3日であることを知らない日本人は殆どいない。また、この日が気象の統計上晴天の特異日とされてきたことも有名である。というのは戦前は晴れの回数が多く、殆ど雨のない日であったからである。しかし、1950年代から1960年代にかけては雨の日が続き、気象の専門家からも異論が出たほどである。しかし、また不思議なことにまた持ち直し始めている。

天気はともかく、なぜこの日が祭日なのか、さらになぜ文化の日なのかは中々詳しく知る人はいない。

一般的には1946年11月3日に日本国憲法が公布され、それから6ヶ月経過した1947年5月3日に施行されたため、公布の日を『文化の日』として、また、施行された5月3日。『憲法記念日』としたものと理解されている。

しかし、もう一つの説は明治天皇の誕生日を新暦に換算して『天長節』、その後は『明治節』として祝日であったからという説がある。戦後、天皇の支配が無くなった直後の制定であったため、祝日法上はこの2つは関係ないものとしているが、実はやはり意識して日本国憲法を11月3日に公布したものであったというのが真実らしい。

因みに昭和天皇の誕生日は4月29日で今も『昭和の日』として祝日だが、大正天皇の誕生日である8月31日は昭和初期に廃止されてからは忘れ去られている。休みだからいいのではなく、この位のことはにほんじんたるもの、知っておきたい常識かも知れない。

湯桶読み・重箱読み

2014-11-03 05:00:26 | 日記

『改めて知る漢字』シリーズ その2。自分の姓が『重箱』読みだからか、結構こうした読み方には気になる。

重箱読みとは『音読み+訓読み』の読み方で小生の苗字のように高(コウ)+坂(さか)は異例な読み方である。そのため、高速道路のサービスエリアや東上線の駅同様に『たかさか』さんですかと言われることは数知れずである。

これに対する読みが『湯桶』読み、『訓読み+音読み』である。いずれも漢語と和語の合成による言葉でそれ程多くない。

例えば『重箱読み』は残高、番組、本屋、桟橋といった違和感の無い読み方、工場(こうば・こうじょう)、蝶番(ちょうばん・ちょうつがい)といった普通の読み方もあるものなど色々ある。
『湯桶読み』は雨具、株券、手帳、見本などあるが、こちらにも首長(くびちょう→市長と識別するため)、市立(いちりつ→私立と区別するため)、化学(ばけがく→科学と区別するため)とわざと湯桶読みにするものもある。

では苗字はどうであろうか。じつは重箱読みの苗字は角田(かくだ)、正田(しょうだ)など『田が下につく』ものが多く、ほかにも鹿島(かしま)、高村(こうむら)など。湯桶読みの苗字は中条(なかじょう)、有藤(ありとう)、川藤(かわとう)とあまりない。


やはり、重箱読みも湯桶読みも異例な読み方で、読む方も読まれる方も違和感を感じる読み方なのかしれない。

鳥ふじ~茅場町ランチグルメ

2014-11-02 05:00:13 | グルメ

日本橋への仕事の帰り道、茅場町に着いたのが11時半だったので親子丼でも食べるかと、かつて友人のT氏に教えてもらった『鳥ふじ』に行って見る。

場所は昭和通から高速道路の橋の先を右に曲がったあたり。11時半に店が開店して3人目ということもあり、カウンターでゆったりしていたが、すぐに3人、4人と来店、11時45分にはもう満席。

メニューは限定10食の名古屋コーチンで作った特上親子丼が1400円、親子丼・モツ入り親子丼・かつ丼が950円の4種類あるが、殆どの客は親子丼を注文する。

まず、小鉢(つくね2コ)、漬物(シバ漬け)、ガラスーブが供され、必ずスープは熱いので気おつけて下さいと注意を受ける。

カウンターで見ていると大将は次々と卵をボールに割込み、かき混ぜ、親子鍋に肉と汁を入れて4つを同時に火にかけ、同時に仕上がる仕組み。
先客がないため、すぐに出てくる。卵の半熟具合や鶏肉の火の入り方、汁の甘みもちょうど良く、あとを引く旨さ。広口の木の丼に出されるが、大変食べやすい。さすがに列ができるだけのことはある。

その後も目の前の大将は黙々と親子丼を作っているが、お客がくるために大きな声をあげて、挨拶をする。従業員もきびきびしていて気持ちが良い。

わずか10分で出たが、もう階段の途中まで列が出来た。すぐそばの宮川ももう列ができており、茅場町の名店はなかなか美味いが、中に入るのが難しい。

鳥ふじ
中央区日本橋茅場町3ー4ー6本橋ビル2階
03ー3249ー6118


住吉駅(都営新宿線)

2014-11-01 05:00:32 | 日記

『metroに乗って』その7。今回は住吉駅、半蔵門線と都営新宿線の2本が通る。駅が出来たのは1978年12月都営新宿線の駅として開業、2003年3月に半蔵門線が延伸した際に駅が作られ、乗り換え駅となった。駅は四つ目通りと新大橋通りの交差点に位置する。

この住吉の名前は駅のある江東区住吉に由来するもの。『住吉』と聞くと大阪にある住吉大社を連想するが、実はこの地名は住吉大社とは何の関係もない。この地名は1934年6月に猿江裏町・猿江東町・本村町が合併して新たな町になった際に『吉』は縁起が良い言葉だからと住吉町と名付けられたもの。


また、住吉駅は東京一深いところにある駅として有名である。よく都営大江戸線六本木駅が地表から42.3mのところにある地下で最も深いところにある駅と言われるが、この深さは地表から測ったものである。実は、六本木は海抜が31mあるから、深さは海抜△11メートルくらいである。しかし、住吉駅は都営新宿線と交差するために深く掘る必要があり、地表からは32.6m、周辺の海抜は0.3mのため、海抜△32.3mとなり、日本一のモグラ駅ということになる。(metro walker2014年秋号を参考にしました。)

実際に住吉駅押上方面ホームからはエスカレーターを3台乗り継ぎ、さらに階段を60段登って地表に出る。

駅を降りるとすぐそばに猿江恩賜公園が広がるが、恩賜と付くのは元は皇室専用の貯木場(御木蔵)があり、1932年には新大橋通りの南側が公園になった。その後も北側は林野庁の貯木場であったが、1983年に貯木場新木場移転に伴い公園となった。



隣には横十間川が流れ、橋を渡るとリクシルやヒューレットパッカードの本社が並ぶ。公園南側には野球場や公会堂(ティアラこうとう)、北側には広場やテニスコートがあるゆったりとしたフラットな公園である。眺めはなかなかで、じゃぶじゃぶ池の向こうにはポフラ並木があり、その向こうには東京スカイツリーを望むことができる。


また、駅の近くには住吉銀座商店街が広がり、タワーマンションもそびえる人口も増加する活気のある下町である。


とにかく、橋の近く以外は全く坂のないフラットな町だった。