hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

更科布屋~浜松町ランチグルメ

2015-08-21 05:00:51 | グルメ

『涼麺シリーズ 第3弾』今回は浜松町の更科布屋にお邪魔する。かれこれ200年の歴史を持つ老舗で季節毎の変わり蕎麦が有名。他にも丼物、冷やし物、酒の肴などメニューは豊富で悩んでしまうくらいだ。

仕事の都合から昼飯が2時前となったが、店にはかなりの人がいてカウンターも約半分が塞がっている。メニューを見て悩んだが、今日は初志貫徹で変わり蕎麦が2種とさらしなの合盛りになった三色蕎麦(950円)を注文。

ところが中々小生の蕎麦だけが来ない。後から来たご婦人の『野菜天ざる』やサラリーマンの『冷やしナメコ』、労務者風のよく喋るおじさんの『おろし蕎麦』と立て続けに抜かれていく。12、3分経過してようやく三色蕎麦が到着。

今日の変わり蕎麦は真ん中の淡い緑色の『青柚子切り』、少し赤い『唐辛子切り』、そして『さらしな』である。まずは何もつけずにさらしなを一口、蕎麦の香りがいい。次に青柚子切り、柚子がほのかに香る。唐辛子はあまり香らないが、少し辛味がある。

蕎麦つゆはやや甘めでたっぷりある。つけて食べてもやはり香りや辛味が効いて中々面白い。5分ほどで平らげ、野菜天ざるの婦人より食べ終わる。量的にはやや少ないかもしれないが、季節を感じるのもたまにはいい。

後は蕎麦湯を蕎麦猪口にいれ、ゆっくり飲んでご馳走さま。ツマミと酒の種類を見ると夜の部も期待できそう。

そういえばカウンターで1人ビールをちびちびやっているおじさんはともかく暇そうで周りをキョロキョロ。すると、となりの婦人が蕎麦湯と麦茶を間違えたら、それを見て吹き出していた、暇な人もいるもんだ。まあ、それを観察している小生も同類か。


芝大門 更科布屋
港区芝大門1ー15ー8
0334363647

銀座熊本館

2015-08-20 05:00:18 | 日記

アンテナショップ巡り その18。今回は銀座熊本館にお邪魔した。銀座熊本館は開店以来もう20周年とアンテナショップでは古株に入る。場所は銀座電通通りのソニービルの並び日動画廊の隣にある。

実は昨年までは熊本のアンテナショップは吉祥寺の商店街の中にもあり、2階には熊本ラーメンが500円で食べられる食堂もあったが、残念ながら閉店してしまった。

銀座熊本館は中に入ろうとするとくまモンのぬいぐるみが迎えてくれる。入ってすぐのところには球磨焼酎、『くま』がかけてあるようだ。

中は最近オープンの長野や金沢などに比べてやや狭いが焼酎を始め、太平燕、辛子蓮根、竹輪など名産が所狭しとと並んでいて熊本産の直送野菜まである。



小生は熊本の醤油をゲット、イカや白身にはこのやや甘口の濃い醤油が美味い。


2階はくまモングッズコーナー、更にまだ開店していなかったが、くまもとサロンASOBI Barがあり、夜は焼酎などをつまみに辛子蓮根や味噌漬け豆腐などを食べることもできるようだ。
とにかく、熊本といえばくまモン、名産品も焼酎も、グッズもくまモン付き、中々しっかりした営業部長である。



熊本銀座館
中央区銀座5ー3ー16
0335721147

寿庵~小田原ランチグルメ

2015-08-19 05:00:45 | グルメ

小田原駅を降りてお城側の出口から商店街に入ると干物や梅干、塩辛などを観光客向けに商う店が並ぶが、その中にあってクラシックな店構えの蕎麦屋が『寿庵』である。

この店は大正9年駅小田原駅の開業とともに創業した老舗で今年で95周年にもなる。

小田原に仕事で来始めてかれこれ半年以上になり、初めの頃は鯵フライや海鮮丼を昼飯に食べるのが楽しみだったが、最近はこの店のランチに決めている。

ランチは900円くらいで日替わりで天丼、かきあげ丼、かつ丼などの丼と蕎麦のセット、漬物も付いてくる。また、蕎麦はかけかもりが選べるが、その汁がとにかく美味でついつい夏でも熱い方を頼む。

火曜日はカツ丼、小ぶりのカツが4切れ、これを卵でとじて青ネギを振るスタイル。カツが揚げたてでかりっとしており、卵とよくマッチしている。蕎麦も小ぶりな丼でネギだけだが、とにかく汁が美味い。(これで税込920円)


丁寧に鯖節で取ったものらしく、ついつい全部飲んでしまう。いつも早目に入るが、続々とお客様が入ってきて中々の人気。建物だけでなく、調度も古いが清潔で落ち着く。暑い夏の日でもかけそばが食べたくなる丁寧な仕事ぶりに感服。メニューを見ると『ホロ酔いセット』やつまみも各種あり、夕方、仕事終わりにも寄ってみたい店である。


寿庵
小田原市栄町2ー1ー26
0465222862

本郷・菊坂周辺の坂道(2)

2015-08-18 05:00:51 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その51。菊坂周辺の坂の後編。梨の木坂を上り降りして汗をかきながら炭団坂を探すが発見できず、ただ、ウロウロしているうちに『鐙坂』の標識の前に出る。名前の由来は『鐙の制作者がそばに住んでいたから』『鐙に似た地形であるから』と説があるが、真ん中が低くなり、鐙のような地形が正しいような気がする。横の石垣や標識の前の家など味もあり、中々いい坂道である。

元の菊坂まで戻る途中にぶどうの房が下がる美容室、今も営業して江戸のいるのか。さらに階段の下には宮澤賢治の旧居跡、この辺りに住んでいたらしい。



菊坂に戻り、しばらく行くと右手に上がる急坂、『胸突坂』その名前の通りである。坂の左右にはマンション、しかし、その先には『旅館鳳明館』、本郷らしい風景。


また、坂を下り、菊坂下まで行く。これを右折するとすぐに急坂があるが、これが『新坂』。

標識によると文京区には新坂が6つあるらしく、殆どが明治以降の坂であるが、この坂は江戸時代からある。金田一京助の世話で石川啄木が住んだ蓋平荘など高等下宿が多く、二葉亭四迷、徳田秋声、尾崎紅葉など文人も多く住んだ場所とのこと。


本郷は戦災で焼け残った場所が多く、なんとなく懐かしい街である。もう少しいい気候になったら再訪したいと思った。最初の坂は緩やかであったが、最後は急坂ばかり、汗塗れの坂道探訪である。

日本橋箱崎町

2015-08-17 05:00:28 | 日記

日本橋町巡りシリーズ その18。いよいよ、今回の日本橋箱崎町を除き、日本橋と人形町のみとなった。

日本橋箱崎町は今も隅田川と日本橋川に囲まれているが、元は江戸時代天正・寛永年間に埋め立てられたもので当時は箱崎川、浜町川も含め四方を川に囲まれた島地であった。1665年には船見番所も設けられ、水運の要所となり、また、その後水運を活用し蔵屋敷が立ち並んだ。明治以降は日銀が置かれるなど経済の中心となったが、1896年には本石町に日銀が移転し、再び倉庫の立ち並んだ町に戻った。さらに戦後は高速道路が隅田川沿いに建築され、周辺は一変、東京シティエアターミナルも建設され、交通の要衝として今に至る。

高速道路を越えて箱崎町に入る入り口、高架下には箱崎川第二公園があり、テニスコートも整備されているが、このあたりは箱崎川が暗渠となり、埋め立てられたものである。

すぐに校舎のような建物があるが、これは都立日本橋高校の跡地に作られた日本橋ビット、東京芸術劇場が運営する舞台の稽古場として活用されている。


その先には日本IBMの建物、巨大でいつも人が出入りしている。


その先には高尾稲荷神社の小さな社があるが、ここには紺屋高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗に斬り殺され、遺体が引き揚げられたこの地に神霊高尾大明神を祀ったもの。

さらにIBMの敷地に沿って歩くと『日本銀行跡地』のレリーフ、1882年に旧永代橋のたもとにあった開拓使物産売捌所後に入居したもので、当時は職員が55名と小所帯であった。


その先が豊海橋、これは日本橋川に架かる橋でこの辺りで隅田川と合流、その下流に永代橋がある。


そこからは隅田川を遡るが、すぐ先には隅田川大橋、さらにその先には清洲橋が見える。新型の水上バスが大勢の客を乗せ通り過ぎ、さらにどういう人なのか、投網を持って川を下る人もいる。

その先の高速道路を潜り抜け、左に曲がると東京エアーシティターミナル。


元は1972年に東京国際空港へのバスターミナルとして作られたが、1978年に新東京国際空港(成田空港)への窓口となり、海外航空会社の搭乗手続や出国審査の機能も持っていた。しかし、2001年のアメリカ同時多発テロ以降出発空港以外での北米線の搭乗手続ができなくなったため、2002年7月に出国審査業務を廃止、また、リムジンバスのターミナルに戻った。そのため、昔ほどの賑わいはないが、それでもキャリーバッグを抱えた旅行客を目にすることができる。

箱崎町は日本橋の外れに位置するが、繁栄と衰退を繰り返し、また、その名残を残す町である。

地名と駅名(山手線内)

2015-08-16 05:00:27 | 日記

鉄道シリーズその114。山手線内にある駅について考える。鉄道マニアの間では周知の事実だが、品川駅は港区芝浦、目黒駅は品川区上大崎、新宿駅の一部は渋谷区代々木にある。とはいえ、それぞれの近くには(北)品川、目黒、新宿という地名が残っている。

しかし、東京メトロ銀座線で言えば稲荷町駅、末広町駅などの地名はかなり以前に消失しているものも多い。同様に駅名はあるが、地名にはないものを調べてみた。(北◯◯、◯◯東といった地名はまだ消失していないとした。)

まず、田町駅。田町駅は港区芝5丁目にあるが、周囲には『田町』という地名はない。実はこの駅ができた1909年当時は『芝田町』という地名であったが、1964年に町名変更から芝5丁目に、さらに1967年には残りの芝田町も三田3丁目になり、田町の名前は消失した。(芝田町は芝+田町の合成であり、例えば日本橋人形町とおなじである。)

次は原宿。今の所在地は渋谷区神宮前1丁目にある。その名前の起源は1906年10月に駅が開業した際の地名で『豊多摩郡千駄ヶ谷村原宿』からきているが、1965年には原宿1~3丁目、原宿駅があった隠田3丁目などが神宮前に統一され、原宿と言う地名は全く無くなった。

御徒町と言う地名も1964年までは地名としてあったが、駅は上野5丁目に包含された。また、御徒町・仲御徒町は台東区台東や東上野、上野になってしまい、今は行政地名としては残っていない。

もちろん、東京駅は東京という地名ではなく、千代田区丸の内1丁目であるが、まあ、これはやむを得ない。

これと同様に地名としては存在したことがないのが『鶯谷駅』である。地名と言うと『根岸』で、鶯谷の名前は代々寛永寺の住職は京都から皇族を呼んでいたが、その1人の公弁が『江戸の鶯はなまっている』と言って尾形乾山に京都の鶯を運ばせ、放したため、鶯の名所となり、鶯谷と呼ばれたことから来ている。

これは『御茶ノ水駅』も同様で江戸時代初期の治水工事で今のような地形になったが、近くの高林寺から泉が出て、将軍にお茶用の水として献上されたために付いたもので地名にはない。
つまり、こうしていつも使っている駅も今は地名には無くなった駅や元から通称や名所の名前で地名ではないものもあるのは中々興味深い。

8月14日ヤクルトvs阪神観戦記

2015-08-15 05:00:15 | 日記

阪神タイガースは中日に3連勝してその前の2連勝も含め5連勝中、14日からは神宮球場で首位固めの三連戦である。本当のこと、中日戦は能見、メッセまでは計算していたが、秋山投手の嬉しい誤算で今日は藤浪で6連勝を目論む作戦らしい。

試合は藤浪投手のコントロールが定まらず、2回は満塁押し出し、それも相手投手に四球を出して満塁にし、1番三輪にはストライクが入らず押し出し。3回は雄平へのラストボールがワイルドピッチで2点目と完全にバッテリーの一人相撲。ちなみに3回表には雨で途中中断もあった。

しかし、結果は4回に阪神が鶴岡、藤浪のタイムリーで勝ち越し、立ち直った藤浪が7奪三振で試合を作った。しかし、藤浪は4安打ながら5四球で1~3回は毎回ノーアウトで出塁を許す厳しい展開であった。その流れを変えたのは今日は敢えて3番ライトの福留だと小生は感じた。

まず、プレイボール後に1アウトで大和がヒットを打つも福留はダブルプレー。じつは中日の2戦目で指を怪我して3戦目はベンチスタートとあまり状態は良くないなあと感じた。(因みに昨日は代役の狩野が活躍した)

しかし、記録としてはあまり残っていないが
、ヤクルトが2回に雄平、デニングがヒットを続け無死1、2塁。今浪がファウルフライの後、中村がライトへのヒット性の飛球、これを福留が見事にダイビングキャッチ、これが抜けたりしたらどうなったか。ともかく、藤浪もこの回は1点に留めた。

3回の攻撃も2アウト1、2塁で福留だったが、三振。この姿を見て、やはり打撃は厳しいなと小生は感じた。しかし、阪神が2点リードで迎えた5回大和の2ベースで無死2塁、福留の打席だったが、初球をバント、その後ゴメスのタイムリーのお膳立てをする。実はこの5点目からは藤浪投手の安定感がまるでかわる。

さらに9回2アウト1、3塁でダメ押しのタイムリーをライトに放つ。つまり、調子が悪くても、しっかりチームの勝利に貢献している姿に感心をした。

もちろん、藤浪やオスンファンの投球や江越のHR、大和の猛打賞も凄かったが、個人的には福留の自らのコンディションなどを知った上でのベテランらしい活躍に拍手を贈りたい。

ともかく、7対3の勝利に今年の阪神の強さを感じることができる試合だった。これもあまり気にされない部分だが、ヤクルトの誇る中継ぎのロマン、オンドルセクから1点ずつでも取って試合を決めたのは大きかった。
阪神で唯一気になったのは9回抑えを任され、2連打を浴びて降板した岩本である。

心 ~吉祥寺グルメ

2015-08-14 05:00:57 | グルメ

北海道発祥のスープカレーもかなり東京では根付いてきた。特に下北沢は『マジックスパイス』『路地裏カリィ侍』『ポニピリカ』などかなり美味い店が増加した。しかし、吉祥寺にはカレーの名店は幾つかあるが、スープカレーの店はBBQ北海道を除き、殆どなかった。その中にあって下北沢でも老舗格の『心』が吉祥寺に出店した話を聞いて行ってみることにした。

場所は駅からは至近、隣が焼き鳥いせや本店の隣のビルの地下、大変わかりやすい場所である。金曜日の夜7時過ぎにお邪魔するが、入れ違いで帰った女性客1名のみ。結構広い店に小生だけとはびっくり。スタッフは厨房に2人、フロアに2人もいるのに。まだまだ、アナウンス不足なのかも。

カレーはいくつも種類があるため悩んだ挙句、大根と牛スジのスープカレー(1150円)を注文。他に誰も客がいないからか5分程度で運ばれてくる。因みにご飯は五穀米なども選択できるようだが普通米、辛さは普通の辛口カレー同様の9を選択する。


カレーは中々具が多く、ゴロンと入ったジャガイモが迫力。ニンジン、ピーマン、半分の固茹で卵は定番。スープを啜ってみるが、香りは中々、ただ、辛さは全然物足りない。これでは通常の辛さとも言えないくらい。

ご飯はノリが2枚ついて美味そう。ご飯とスープの相性はよく、よく煮込まれた牛スジもコクがあって美味い。小生の好みかもしれないが、やや、大根は固すぎ、スープから孤立している。また、ジャガイモは幾つかに割って置いておくと美味くなるが、硬くてスプーンだけでは中々上手く割れず、シャツにスープが飛ぶ始末。やっぱり、スープカレーは紙エプロンは必須である。

ボリュームもあり、味付けも旨いが、やや個性が感じられず普通のスープカレーの域は出ていないのが、やや残念かな。もう少し辛くして王道のチキンカレーで再チャレンジしたい。
因みに小生が食べ終わる頃に2組入店したのが救いかな。

心 吉祥寺店
武蔵野市御殿山1ー2ー1 B1
0422299183

本郷・菊坂周辺の坂道(1)

2015-08-13 05:00:17 | 日記

『江戸の坂、東京の坂』その50。今回は本郷菊坂周辺の坂道を歩く。7月下旬から異常な暑さが続き、平坦な道を歩くのも辛いのに坂道などとてもとてもと思っていたが、せっかく本郷あたりで時間があるので緩めの坂道でもと歩き始める。


本郷三丁目から東大赤門方向に歩くとゆるい上り坂、そして短く緩い下り坂がある。この坂が『見送り坂・見返り坂』である。江戸時代江戸の外れであった本郷は江戸所払いとなる者がかつてあった別れの橋で放たれ、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂、そして追放された者が振り返りながら去ったから見返り坂と呼ばれた。


ちょうどその真ん中辺りから左手に折れていく細長く緩い坂が『菊坂』である。この辺りには菊花を作る者が多かったため、この名前が付けられた。この辺りには樋口一葉のゆかりの物が多く残され、その案内図も配置されている。


菊坂を下りながら両側の坂道を訪ねるが、まず最初に出てくるのが、左手に登っていく『本妙寺坂』である。


この坂はその名前の通り坂を登ったあたりに本妙寺があり、その名前を取ったもの。ちなみに明暦の大火の原因となったと言われる『振り袖』を焼いたため、火元となったお寺である。
坂の標識の向かい側には『真砂遺跡』の標識。

この辺りには1704年~1858年に唐津藩主小笠原氏の中屋敷、幕末まで上田藩主松平氏の中屋敷があり、現在のビルを建設するにあたり調査したところ、当時の生活用具が多数の出土したため、この地の名前を取り『真砂遺跡』としたもの。珍しいものとしては1万8000年前の黒曜石で作られた矢じりなども出ている。



その先を行くと右手に細く登っていく急坂がある。今までは比較的緩やかな坂道だったが、急坂をふうふう言って上がる。この由来は2つあり、一つ目はその通り『大木の梨の木があったというもの』、もう一つは『江戸の後期はこの辺りには菊畑が並んでいたが、この辺りから無くなるため、菊無坂というとするもの』がある。


更に行くと右手には古い木造2階建、標識には『一葉ゆかりの伊勢屋質店』とある。かつて樋口一葉が近くに住み、明治29年に24歳で亡くなるまでこの質屋に通ったことが日記に書かれている。今は廃業しているが、跡見女子大の所有となり、公開される予定らしい。(以下次回)

妙典駅(その2)

2015-08-12 05:00:13 | 日記

『metroに乗って』その24。妙典駅の2回目。寺町通りを歩いて旧行徳街道に出たところから始める。旧行徳街道は江戸から成田に向かう際に行徳まで船で来て、この街道を歩いた道で、行徳(現在の市川市本行徳)は中継点の役割を果たした。そのため、当時はこの周辺は賑わい、立派な屋敷が立ち並んでいたらしいが、今もその名残がある。

また、前回の終わりに紹介した権現道は家康と秀忠が東金での鷹狩りの際に度々通った古道を指し、今も自転車専用道程度の道幅で後が残る。


寺町通りから来て旧行徳街道を突き切ると道が細くなり、その先は急に開ける。旧江戸川が広がるが、こちら岸には住宅しかないが、対岸には修理ドックやクルーザーの係留施設などが広がる。


旧江戸川の水はゆったり流れる。小生は3時半過ぎの夏空の中、川下に向かって歩くが、日を遮るものがなくとにかく暑い。途中、弱っているのか、アブラゼミも日陰にじっとしていた。



1キロ位歩くと水門の先には常夜灯公園が広がる。常夜灯は江戸日本橋の成田講の人が1812年に航路の安全を祈願して建てたものらしく、日本橋と彫られている。



この辺りまで船で来て、その後歩いて成田参りをした江戸時代の人々に想いをはせて川を見下ろすのも中々味がある。さすがに4時近くなると川風が少し心地よい。


また、旧行徳街道に戻り、妙典駅を目指す。街道沿いには旧浅子神輿店の店舗兼住宅が国の有形文化財として残されている。銅製の豊受や屋根の細工が細かく、当時かなり金を掛けた建物であったことが想像できる。

そしてその先には笹屋うどん店の旧店舗が同様に保存されている。


その先を右に曲がり、権現道を歩く。15分くらいで妙典駅までもどる計算だが、権現道の右側には寺が並び、古い町並みが続くため、いちいち見ていると時間がすぎていく。夏の厳しい日差しの中の散策ではあったが、江戸情緒を予想外に感じることができる街歩きであった。