映画「マイ・ブロークン・マリコ」を観た。
映画『マイ・ブロークン・マリコ』公式サイト
大ヒット上映中 出演:永野芽郁 監督:タナダユキ 原作:平庫ワカ「マイ・ブロークン・マリコ」(KADOKAWA刊)親友の遺骨を持って旅をするSNSで話題沸騰の人気コミック、...
映画『マイ・ブロークン・マリコ』公式サイト
続くときは続くとよく言われるが、骨壷が出てくる作品を半月で3本も観た。「川っぺりムコリッタ」「アイ・アム・まきもと」それに本作品である。親しい人や親族が亡くなることがこれほど続けてテーマとなるのは、時代と無関係ではないだろう。戦争法案の強行採決に象徴される政治の右傾化、新型コロナのパンデミック、ウクライナ戦争など、まさかと思われることが次々に起きるこの頃である。誰もが死を考える。
見たことがない永野芽郁が見られると本人が言っていた通り、いつもの可愛くてほんわかした永野芽郁ではなく、やさぐれて言葉遣いが乱暴なヒロインシィちゃんを演じている。これがなかなかいい。頭が空っぽのヤンキーではなく、知性と優しさを感じさせる。マリコを演じた奈緒ともども、見事な演技だった。
冒頭からハードなシーンが続く。着信表示の「クソ上司」だけで、シィちゃんの職場環境がある程度推察できるような仕掛けになっている。計算された演出なのだろう。そこから予告編のシーンまでは一本道だ。本作品の真骨頂はそこから先のストーリーにある。
中原中也は「春日狂想」という詩の冒頭で次のように書いた。
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
この詩を書く前に、中也は息子文也を小児結核で亡くしている。息子の死を受け入れられずに死体をずっと抱いていたり、葬式のあともしばらくは幻覚や幻聴があったそうだ。心のなかで生き続けている息子と、息子が死んだという現実の乖離に心が引き裂かれていたに違いない。
本作品の冒頭を観て、中原中也を思い起こした。シィちゃんも同じように心を引き裂かれていたのだろう。マリコは死んだ。死んだけれども、シィちゃんの中では生きている。心の中のマリコと会話しながら、シィちゃんのあてなき旅がはじまる。死んだマリコの骨を抱えて、シィちゃんに何ができるのだろう。
何度も登場する回想シーンで、マリコの心が成長に連れてどんどん壊れていくのがわかる。壊したのは両親だ。DVの父親とマリコを守ろうとしない母親。マリコは自己肯定感をどんどん喪失し、自己否定だけが増大する。大人になっても進行は止まらない。最後は壊れ切って命を断ってしまう。
DVに警察が介入するようになったのはつい最近である。それまでは「警察は民事不介入」という決まりを錦の御旗にして、知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。実はいまでも、同じような姿勢の警察官がたくさんいると思う。DV殺人事件の報道で、事前に警察に相談があったという事例が多い。たいてい警察は児相に丸投げだ。警察が組織としてきちんと対応していれば、殺されずにすんだのではないかという事例が散見される。
本作品の事例でも、警察がちゃんと法令を適用して職務を執行すれば、もしかしたらマリコは救われたかもしれない。クズの父親は一定の割合で必ず存在する。警察以外に実力でクズを排除できる組織はない。
タナダユキ監督は多分俳句が好きだ。本作品では余分なセリフが削ぎ落とされて、研ぎ澄まされた言葉だけが残る。説明的なシーンも殆どない。だからどのシーンもとても濃密である。俳句を読むようにシーンを噛みしめると、観ているこちらの心がシィちゃんとマリコで一杯になる。
それにしてもマンションにたどり着いたシィちゃんのセリフには少し笑ってしまった。ドアを開けたところで、シィちゃんが「ヨッコイショウイチ」というのではないかと、ちょっと期待した。