三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「裸のムラ」

2022年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「裸のムラ」を観た。
映画『裸のムラ』

映画『裸のムラ』

『はりぼて』の五百旗頭幸男監督がしかける笑うに笑えないポリティカル・ドキュメンタリー。22年10月8日(土)より、[東京]ポレポレ東中野、[石川]シネモンドほか全国順次公開

映画『裸のムラ』

 五百旗頭幸男監督は、映画「はりぼて」では富山市が政治家も有権者もまるごと腐っているのを割とストレートに表現したが、本作品では石川県が政治家を筆頭に県民まるごと腐っているのをやんわりと示唆している。それぞれのシーンはまさに日本の縮図であり、とりもなおさず日本全体が腐っていることのメタファーでもある。
 
「はりぼて」にあったような不正政治家に対する鋭い突っ込みは、本作品では影を潜め、代わって庶民を紹介する。イスラム教を子供に強制する父親、子供に日記の入力を無理強いする父親などを紹介し、旧態依然とした家父長制の考え方が蔓延していることを暗示するのである。
 
 イスラム教に改宗した日本人の男が学校で、日本でイスラム教徒として生活することについて話をしたようなシーンがあり、つづいて学生たちに質問を呼びかけるが、誰も質問しない。イスラム原理主義の過激派でも恐れているのだろうか。 
 彼はアフガニスタンで行われているのはロシアとアメリカの代理戦争だという主張をするが、タリバンについては何も触れない。タリバンを否定することはイスラム教の一部を否定することになるからだろうか。
 
 なべて宗教は何らかの強制や強要を伴う。上から教義を押し付ける一方だ。哲学がないから、精神的な進歩はない。しかし宗教がない日本でも、目上や目下といった封建的な家父長主義が支配的で、やっぱり哲学がないから、科学だけがどんどん進歩してきた一方で、精神的な進歩はない。進歩を阻む上下関係の価値観が連綿と世襲されているのである。
 
 そういった絶望的な古い価値観の典型的な姿を炙り出したのが本作品である。自動車のバンで暮らすバンライファーという言葉は本作品で初めて知ったが、新しいという言葉を惹起の文句に使う自民党議員から、ライフスタイルが新しく見えるバンライファーまで、底を流れる精神性は古い家父長主義だ。
 
 共同体はみんながよく暮らすための便宜的な集団にすぎない。しかし共同体が自己目的化してしまうと、お国のために死ねとか、会社のために死ぬ気で働けとか、軍国主義やブラック企業になる。ガンバレニッポンの同調圧力がその代表的な精神性だ。
 本作品は東京五輪組織委員会の会長を馘になった森喜朗をアイコンのように前面に出す。腐った精神性の代表選手だ。歳を取るごとに醜悪になっていった。それは老醜というよりも、腐った内面が外面にまで滲み出してきた気持ち悪さである。
 
 宗教も無宗教も、共同体の呪縛から脱しない限り、既得権益を守っていくだけの政治が続くだけだ。寛容と親切と無償の行為に溢れた理想の社会とは正反対の腐った社会である。ガンバレニッポンという精神が、実は社会を腐らせていることが、本作品を観るとよくわかる。タイトルの「裸のムラ」のしめすへんの点の部分が日の丸になっているのが、本作品の意図を物語っている。
 
 唯一肯定的に描かれているのが、48歳無収入で旅をする、確か秋葉さんという夫婦の話だ。世間的には一番否定される存在で、本人たちもそれを理解しているところがいい。世間的な基準で自分を飾ったりごまかしたりしないようになりたいという、魂の旅である。出家して修行する菩薩のようだ。五百旗頭監督は、もっとも一般評価が低いであろうこの夫婦のような精神性に未来を託している感がある。見事なアイロニーだ。

映画「De son vivant」(邦題「愛する人に伝える言葉」)

2022年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「De son vivant」(邦題「愛する人に伝える言葉」)を観た。
「愛する人に伝える言葉」公式HP

「愛する人に伝える言葉」公式HP

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 医者の山崎章郎が著した「病院で死ぬということ」というエッセイがある。ホスピスで看取った患者たちの話を中心に、死ぬとはどういうことなのか、翻って、生きるとはどういうことなのかを真面目に書いている。とてもいい本なのだが、読んだあと、病院で死ぬのは嫌だと思った。
 病院というと、薬をたくさん処方して、支払い能力がある患者はなるべく長いこと入院させて、そうでない患者は早く追い出すことで、なんとか経営を成り立たせているようなイメージがあるが、そんな酷い病院はあまりないと思う。少なくとも山崎章郎の本を読んだ限りでは、医者はなるべく患者のためになろうと努力している。
 しかしそういう医者の努力が、必ずしも患者のためになるとは限らない。山崎章郎は本人も医者だから、医療そのものを否定できないのだ。

 むしろ医者や病院の思惑を押しつけられることは患者にとって苦痛になる。残りの時間を有意義に過ごしてほしいと医者が思うのは自由だが、何を以て有意義とするかは個人の人生観だ。こういう過ごし方が有意義だとして医者が患者に強制するのは、人権侵害である。だから苦痛に感じるのだ。

 本作品に登場する医者は、善意と知恵が豊かで、バンジャマンのために真摯な姿勢で医療に取り組んでいるが、それでもバンジャマンにとってはある種の苦痛になっている。しかし言ってみれば誰かが誰かの苦痛になっているのは世の常で、カトリーヌ・ドヌーヴが演じた母親のクリスタルもバンジャマンの苦痛の種である。
 ところが、精神が身体の状態に大きく左右されるのも真実である。自分の意志を貫こうとしたバンジャマンも、身体が言うことをきかなくなると、苦痛を取り除いてくれる医者の言うことを素直に聞くようになる。当然だ。あとは死ぬだけである。延命治療をしなかった医者は立派だと思う。

 人生は簡単に言えば、生きてそして死ぬこと、それだけだ。死ねば世界が終わる。自分が死んだあとの世界のことは考える必要がない。生きているうちは、好きなことや、しなければならないと思うことをすればいい。生きているうちに(de son vivant)伝える最後の言葉は、医者が教えてくれた5つ全部でなく「ありがとう」と「さようなら」の2つで十分だ。

新約聖書には次のように書かれている。

明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(マタイによる福音書第六章)

映画「千夜、一夜」

2022年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「千夜、一夜」を観た。
映画『千夜、一夜』公式サイト

映画『千夜、一夜』公式サイト

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 困難なテーマに挑戦した意欲作である。人間関係は濃厚なように見えても実は稀薄であり、逆に、浅いように見えて実は深かったりする。時間と距離に大きく影響されることは言うまでもない。

 映画「Vanishing」(邦題「バニシング 未解決事件」)のレビューで、失踪者について書いた。警察庁のデータによると、2019年までの数年は、ほぼ同じ程度の数で推移している。

 日本の行方不明者の数 年間80,000人
 9歳以下の数 年間1,200人
 10代の数 年間16,000人
 誘拐事件 年間300件(300人)
 内20歳未満 年間200件(200人)

 警察庁のデータだから、通報された事案のまとめである。通報されない行方不明者もいると思う。逆に行方不明ではないのに捜索願を出される人もいるだろう。当方の知人はずっと実家と連絡を取らなかったので、捜索願を出されて、大家さんを伴った警察官の訪問を受けた。警察官は苦笑いしながら、あまりご実家を心配させないようにしてくださいと言って帰ったそうだ。

 20歳以上の大人の行方不明者は毎年約6万人以上いる。厚生労働省のデータでは日本の年間の出生数は約85万人、死亡数は約140万人である。自殺者数は警察庁のデータで約3万人だが、明らかに自殺とわかる数だけなので、発作的な自殺や行方不明者の自殺などはカウントされていない。WHOによると日本の自殺者は約6万人である。

 自殺者が必ずしも不幸だとは思わないが、少なくとも希望を喪失したことだけはわかる。どこにも行く場所がなく、明日に希望がなければ、人は簡単に自殺する。失踪は自殺と少し違っていて、こことは違う別の場所に希望があるかもしれないと思えば、人はここから出ていく。出家する人の精神性に似ていることもあるだろうし、自暴自棄になっている可能性もある。本人以外の誰にも分からないが、希望を完全に喪失した訳ではないのだ。

 人間が喜びや希望を見出すのは、残念ながら殆どが人間関係においてである。不安や恐怖も同じく殆どが人間関係におけるものだ。同じものを食べて美味しいと思ったり同じ景色を美しいと感じたりすれば、人は共生している幸福感を得る。不安や恐怖を共有すれば、背負う荷は半分以下になる。その時間がながければ長いほど、別れたときの喪失感も大きい。事前の話し合いや予告がなければ尚更だろう。

 田中裕子がヒロイン若松登美子の喪失感を見事に演じている。希望は殆ど消えかかっているが、一縷の可能性に縋って生きている。待って待って待ち続け、千夜が万夜になっても、なお一夜にすぎないかのように思える。つまり、いなくなったのが昨日のことのように思えるのだ。だから待っていられる。

 尾野真千子の田村奈美は登美子と違って、夫と過ごす時間よりも自分の計画が優先する。その計画に役割を果たすはずの夫がいなくなったことで焦っているのだ。登美子には理解できない精神性である。

 ダンカンが演じたトリックスター春男が登美子をかき回すのが面白い。ある意味で登美子は春男に救われている部分がある。黙って魚をくれるし、自分のことを好きだと言ってくれる。それは無意識に登美子のレーゾンデートルとなっている。過去を生きている登美子を現在に引き戻す役割も果たしている。春男がいなかったら、単なる喪失だけの悲惨な物語になっていただろう。