映画「裸のムラ」を観た。
五百旗頭幸男監督は、映画「はりぼて」では富山市が政治家も有権者もまるごと腐っているのを割とストレートに表現したが、本作品では石川県が政治家を筆頭に県民まるごと腐っているのをやんわりと示唆している。それぞれのシーンはまさに日本の縮図であり、とりもなおさず日本全体が腐っていることのメタファーでもある。
「はりぼて」にあったような不正政治家に対する鋭い突っ込みは、本作品では影を潜め、代わって庶民を紹介する。イスラム教を子供に強制する父親、子供に日記の入力を無理強いする父親などを紹介し、旧態依然とした家父長制の考え方が蔓延していることを暗示するのである。
イスラム教に改宗した日本人の男が学校で、日本でイスラム教徒として生活することについて話をしたようなシーンがあり、つづいて学生たちに質問を呼びかけるが、誰も質問しない。イスラム原理主義の過激派でも恐れているのだろうか。
彼はアフガニスタンで行われているのはロシアとアメリカの代理戦争だという主張をするが、タリバンについては何も触れない。タリバンを否定することはイスラム教の一部を否定することになるからだろうか。
なべて宗教は何らかの強制や強要を伴う。上から教義を押し付ける一方だ。哲学がないから、精神的な進歩はない。しかし宗教がない日本でも、目上や目下といった封建的な家父長主義が支配的で、やっぱり哲学がないから、科学だけがどんどん進歩してきた一方で、精神的な進歩はない。進歩を阻む上下関係の価値観が連綿と世襲されているのである。
そういった絶望的な古い価値観の典型的な姿を炙り出したのが本作品である。自動車のバンで暮らすバンライファーという言葉は本作品で初めて知ったが、新しいという言葉を惹起の文句に使う自民党議員から、ライフスタイルが新しく見えるバンライファーまで、底を流れる精神性は古い家父長主義だ。
共同体はみんながよく暮らすための便宜的な集団にすぎない。しかし共同体が自己目的化してしまうと、お国のために死ねとか、会社のために死ぬ気で働けとか、軍国主義やブラック企業になる。ガンバレニッポンの同調圧力がその代表的な精神性だ。
本作品は東京五輪組織委員会の会長を馘になった森喜朗をアイコンのように前面に出す。腐った精神性の代表選手だ。歳を取るごとに醜悪になっていった。それは老醜というよりも、腐った内面が外面にまで滲み出してきた気持ち悪さである。
宗教も無宗教も、共同体の呪縛から脱しない限り、既得権益を守っていくだけの政治が続くだけだ。寛容と親切と無償の行為に溢れた理想の社会とは正反対の腐った社会である。ガンバレニッポンという精神が、実は社会を腐らせていることが、本作品を観るとよくわかる。タイトルの「裸のムラ」のしめすへんの点の部分が日の丸になっているのが、本作品の意図を物語っている。
唯一肯定的に描かれているのが、48歳無収入で旅をする、確か秋葉さんという夫婦の話だ。世間的には一番否定される存在で、本人たちもそれを理解しているところがいい。世間的な基準で自分を飾ったりごまかしたりしないようになりたいという、魂の旅である。出家して修行する菩薩のようだ。五百旗頭監督は、もっとも一般評価が低いであろうこの夫婦のような精神性に未来を託している感がある。見事なアイロニーだ。