三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「チルドレン・アクト」

2022年10月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「チルドレン・アクト」を観た。
チルドレン・アクト : 作品情報 - 映画.com

チルドレン・アクト : 作品情報 - 映画.com

チルドレン・アクトの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「つぐない」「Jの悲劇」「追想」など、これまでにも著作が多数映画化されているイギリスの作家...

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 エホバの証人と聞いて思い浮かぶのは、輸血拒否をするカルト教団だが、今にして思えば、詳しく知らないくせに断片的な情報で勝手にそう思い込んでいたのかもしれない。
 宗教は組織として本部とか本山とかが出来た時点で腐敗が始まる。本部は信徒の財産や労働対価を献金やお布施や玉串料として納めさせて運営費にする。運営費は多いに越したことはない。たくさん納めさせるために納めた額を競わせたりする。

 入信した本人がカルトを信じて身を持ち崩すのは自由だ。しかし子供に信仰を強制するのは人権蹂躙である。これはすべての宗教について言えることで、アベシンゾーが射殺されたことでクローズアップされた統一教会だけの話ではない。赤ん坊に洗礼させるキリスト教は赤ん坊の人権を蹂躙している。洗礼は大人になってからでいい筈だ。イスラム教はよく知らないが、少なくともアフガニスタンでタリバンが行なっていることは、宗教と戒律の無理強いである。

 宗教は死を意識しはじめる年齢になったら考えればいい。本作品を観る限り、イギリスの法曹界の考えも同じようだ。エマ・トンプソンが演じる主人公の女性裁判官(My Lady)が説明するイギリスの児童法(Children act=本作品の原題)は、少年の福祉を最優先するとなっているそうだ。答えは最初から出ていたのである。

 しかし本作品の主眼はマイレディの判決にあるのではない。不治の病に向き合ったときに、人はどのように振る舞うのか、周囲の人間たちはどうやって彼を助けることができるのかということである。そしてもうひとつ、信仰がミサや集会、献金といった現実的な形になったとき、宗教の本部や他の信者との関係性に左右されてしまい、結局のところ純粋な信仰ではなくなってしまうということである。

 イエス・キリストの教えの第一声は「悔い改めよ、天国は近づいた」である。悔い改めることのない赤ん坊には、入信の必要がないのだ。聖書には次のようにも書かれている。
「祈るときには、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈るとき、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」
「また断食をする時には、断食をしていることが人に知れないように自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」

 信仰は信じる対象と自分との一対一の極めてプライベートな事柄である。他人から祈りを強制されたり、戒律に縛られたり、献金やお布施や玉串料を要求されたりするものではない。つまり現在の世界の宗教の殆どは、信仰よりも利益が優先されている。組織は必ず腐敗するという原則は、いつの世でも正しいのである。

映画「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」

2022年10月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」を観た。
キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱 | キノシネマ kino cinéma 配給作品

キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱 | キノシネマ kino cinéma 配給作品

キノシネマ kino cinéma 配給作品

 マリー・キュリーといえば、ラジウムの発見、ピエール・キュリー、ノーベル賞を2度受賞という程度の知識だった。そしてラジウムというと、腕時計の蛍光塗料に使われていたという程度の知識である。我ながら知識の浅薄さは汗顔の至りだ。
 実際のマリー・キュリーが本作品のような女性だったのかどうかは分からないが、彼女の人生の後半では、本作品が描くように、放射能が戦争の兵器として使われることを危惧していたのかもしれない。

 女性が主人公のドラマの例に漏れず、本作品でも女性の不遇な立場が描かれる。男性中心の社会に異を唱えようとする女性は少なく、男性を利用して得をしようとする女性が殆どだ。マリー・キュリーのように世のパラダイムに縛られずに自立して生きていこうとする女性は、他ならぬ女性たちから非難される。当時世界で最も自由だった筈のパリでも、人々の精神性はまだまだスクエアだ。
 それでもノーベル賞の威光は大きく、マリーを助ける。それはピエール・キュリーの置き土産であり、マリーはピエールが死んでからはじめて、その偉大さを知ることになった。生きているうちに感謝すればよかったのだが、つまらない嫉妬から逆に悪態をついてしまったことが悔やまれる。

 科学者は常にニュートラルな精神性でなければならない。もちろんマリー・キュリーも基本的にはその姿勢である。他人に嫌われても真っ向から罵詈讒謗を浴びても動じない。権威に媚びないし、娘の意見を侮ることもない。
 並外れた頭脳の持ち主で科学全般に才能を発揮したマリー・キュリーの姿には、自分に自信を持って背筋を伸ばして生きているような印象を受けた。歴史上の人物でしかなかったマリー・キュリーを血が通った人間として、上手に描いている。本当に立派な女性だ。