映画「チルドレン・アクト」を観た。
エホバの証人と聞いて思い浮かぶのは、輸血拒否をするカルト教団だが、今にして思えば、詳しく知らないくせに断片的な情報で勝手にそう思い込んでいたのかもしれない。
宗教は組織として本部とか本山とかが出来た時点で腐敗が始まる。本部は信徒の財産や労働対価を献金やお布施や玉串料として納めさせて運営費にする。運営費は多いに越したことはない。たくさん納めさせるために納めた額を競わせたりする。
入信した本人がカルトを信じて身を持ち崩すのは自由だ。しかし子供に信仰を強制するのは人権蹂躙である。これはすべての宗教について言えることで、アベシンゾーが射殺されたことでクローズアップされた統一教会だけの話ではない。赤ん坊に洗礼させるキリスト教は赤ん坊の人権を蹂躙している。洗礼は大人になってからでいい筈だ。イスラム教はよく知らないが、少なくともアフガニスタンでタリバンが行なっていることは、宗教と戒律の無理強いである。
宗教は死を意識しはじめる年齢になったら考えればいい。本作品を観る限り、イギリスの法曹界の考えも同じようだ。エマ・トンプソンが演じる主人公の女性裁判官(My Lady)が説明するイギリスの児童法(Children act=本作品の原題)は、少年の福祉を最優先するとなっているそうだ。答えは最初から出ていたのである。
しかし本作品の主眼はマイレディの判決にあるのではない。不治の病に向き合ったときに、人はどのように振る舞うのか、周囲の人間たちはどうやって彼を助けることができるのかということである。そしてもうひとつ、信仰がミサや集会、献金といった現実的な形になったとき、宗教の本部や他の信者との関係性に左右されてしまい、結局のところ純粋な信仰ではなくなってしまうということである。
イエス・キリストの教えの第一声は「悔い改めよ、天国は近づいた」である。悔い改めることのない赤ん坊には、入信の必要がないのだ。聖書には次のようにも書かれている。
「祈るときには、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈るとき、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」
「また断食をする時には、断食をしていることが人に知れないように自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」
信仰は信じる対象と自分との一対一の極めてプライベートな事柄である。他人から祈りを強制されたり、戒律に縛られたり、献金やお布施や玉串料を要求されたりするものではない。つまり現在の世界の宗教の殆どは、信仰よりも利益が優先されている。組織は必ず腐敗するという原則は、いつの世でも正しいのである。