映画「アフター・ヤン」を観た。
近未来の日常の話である。白人男性と黒人女性の夫婦が広い家に住み、東洋人の子供を養子にする。家電製品は声による命令(コマンド)で動かせるし、自動車は自動運転で、こちらも声で動かすことができる。
テクノと呼ばれるヒューマノイドが子供の世話をしたり大人の話し相手になる。それがヤンである。猫や犬でも欲望や感情を表現すると、飼っている人は家族みたいに感じるから、人型で言語を理解するヤンは、家族そのものである。
しかし壊れてみると、人が死んだときほどの衝撃はない。ただ喪失感はいつまでも消えない。体内のメモリに、一日に一枚だけ映せるというたくさんの短い動画が残っている。ヤンの視線の動画だ。自分たちの知っているヤン。そして知らないヤン。
寡黙だった父親が密かに残していた日記を父親の死後に読んでいるみたいだ。生きているときの葛藤があり、優しさがある。人間のために造られたヤンだが、ヤンの残した動画には、独自の感受性や取捨選択がある。それはもはや人格ではないのか。
人間としての人格を持つ条件は、本作品の舞台である近未来にあっては、曖昧なものに変化している。ヤンの言動を見ていると、必ずしも人間から生まれた生物だけが人格を持つ訳ではないような気になる。ジェイクが訪ねた研究所では、ヤンのようなテクノの人格の研究をしているようだった。AIのような学習型の知能を背負ったアンドロイドは、行動をするために情報の取捨選択をする必要がある。必要と不要、優先順位などを選別するようになれば、それはもしかするとひとつの人格形成なのかもしれない。
東洋人の娘ミカは、ヤンをクァクァと呼ぶ。漢字だと可可あたりか。ヤンから密かに中国語を習ったようで、ラスト近くで中国語の独白をする。最後のセリフは我想你了可可。クァクァに会いたいよという意味だ。ヤンにはやっぱり人格があったのではないか、そう暗示して物語は終わる。とても不思議で、謎めいた世界観の作品だった。