三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「アフター・ヤン」

2022年10月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アフター・ヤン」を観た。
映画『アフター・ヤン』公式サイト|10.21[Fri]公開

映画『アフター・ヤン』公式サイト|10.21[Fri]公開

動かなくなったAIロボット・ヤンのメモリには、家族の誰もが気付かなかった愛おしい記憶と、ある“秘密”が残されていた―。

映画『アフター・ヤン』公式サイト|10.21[Fri]公開

 近未来の日常の話である。白人男性と黒人女性の夫婦が広い家に住み、東洋人の子供を養子にする。家電製品は声による命令(コマンド)で動かせるし、自動車は自動運転で、こちらも声で動かすことができる。

 テクノと呼ばれるヒューマノイドが子供の世話をしたり大人の話し相手になる。それがヤンである。猫や犬でも欲望や感情を表現すると、飼っている人は家族みたいに感じるから、人型で言語を理解するヤンは、家族そのものである。
 しかし壊れてみると、人が死んだときほどの衝撃はない。ただ喪失感はいつまでも消えない。体内のメモリに、一日に一枚だけ映せるというたくさんの短い動画が残っている。ヤンの視線の動画だ。自分たちの知っているヤン。そして知らないヤン。
 寡黙だった父親が密かに残していた日記を父親の死後に読んでいるみたいだ。生きているときの葛藤があり、優しさがある。人間のために造られたヤンだが、ヤンの残した動画には、独自の感受性や取捨選択がある。それはもはや人格ではないのか。

 人間としての人格を持つ条件は、本作品の舞台である近未来にあっては、曖昧なものに変化している。ヤンの言動を見ていると、必ずしも人間から生まれた生物だけが人格を持つ訳ではないような気になる。ジェイクが訪ねた研究所では、ヤンのようなテクノの人格の研究をしているようだった。AIのような学習型の知能を背負ったアンドロイドは、行動をするために情報の取捨選択をする必要がある。必要と不要、優先順位などを選別するようになれば、それはもしかするとひとつの人格形成なのかもしれない。

 東洋人の娘ミカは、ヤンをクァクァと呼ぶ。漢字だと可可あたりか。ヤンから密かに中国語を習ったようで、ラスト近くで中国語の独白をする。最後のセリフは我想你了可可。クァクァに会いたいよという意味だ。ヤンにはやっぱり人格があったのではないか、そう暗示して物語は終わる。とても不思議で、謎めいた世界観の作品だった。

映画「線は、僕を描く」

2022年10月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「線は、僕を描く」を観た。
映画『線は、僕を描く』公式サイト

映画『線は、僕を描く』公式サイト

大ヒット上映中!横浜流星主演!全国の書店員大絶賛の青春芸術小説『線は、僕を描く』待望の実写映画化!青春映画の金字塔、再び。

 ベタな話だが、俳優陣の演技がよくて、それなりの感動がある。
 特に清原果耶は、映画「デイアンドナイト」で女子高生の大野奈々を演じたときから出演作を観続けているが、不思議に存在感がある女優だ。演技だけでなく歌もとても上手い。持論だが、いい女優は歌も上手いと思っている。歌手のような上手さを発揮する人も含めて、女優の歌にはその人なりの味がある。
 富田靖子は名脇役の女優になった。上映中の「向田理髪店」では優しいお母さんを演じ、本作品では誰もが一目置く水墨画界の巨匠を演じている。どこまで演技の幅があるのか、感心してしまう。

 本作品で水墨画指導を担当した小林東雲さんの名前ははじめて聞いた。水墨画の世界にも権威とか序列とかがあるのかもしれないが、本作品ではそれほど重要視されない。三浦友和が演じた湖山先生は、自分なりの「線」を一番大事にする。それ以外に大事なものは何もないというほどの勢いである。
 水墨画については不案内だが、短時間で描けるという魅力は大きい。墨を使う点では書と並んで東洋の二大芸術と呼べるかもしれない。描かれた瞬間が最も輝いていて、その後は紙とともに劣化していく。芸術はそんなものだ。音楽も生の演奏が一番である。文学は違うように思われるかもしれないが、読者が読んでいるときだけ生きている。

 本作品の制作陣はそこのところをよく理解していると思う。過去の水墨画はあまり登場せず、描かれたばかり、または描いている最中の水墨画が多く登場する。芸術は生きている。または読者や鑑賞者の心の中で甦る。そして心を動かされる。どんなに高い絵画でも、観て心を動かされることがなければその人にとって一円の価値もない。価格にしか興味のない人も多いが、無念無想の心で芸術に対峙すると、自分にとってそれが重要な作品かどうかが分かる。心が洗われたり、胸騒ぎを感じたりすれば、それは自分にとって価値のある作品である。つまり芸術の価値は人それぞれでいいのだ。

 惜しむらくは、終盤の表彰式だ。横浜流星の霜介も清原果耶の千瑛も、自分の水墨画を観た人が感動してくれることを望んでいるのであって、高く売れることを望んでいるのではない。まして権威に認められることを望んでいるのでもない。だから表彰式のシーンは不要だったと思う。水墨画も商売だから仕方がないのかもしれないが、純粋な映画がいっぺんに不純になってしまった気がした。