三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「耳をすませば」

2022年10月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「耳をすませば」を観た。
映画『耳をすませば』公式サイト|大ヒット上映中!

映画『耳をすませば』公式サイト|大ヒット上映中!

名作『耳をすませば』。10年後の二人の物語が、はじまる。

映画『耳をすませば』公式サイト|大ヒット上映中!

 雫が公衆電話で聖司くんに電話したときの清野菜名の表情がいい。心の霧が晴れたような、清々しい顔だ。このシーンは清野菜名の女優人生の中でも一番いい表情のひとつになると思う。

 思い出は心の自浄作用でいつも美しい。特に青春のピークである15歳から19歳の頃の思い出は、振り返るたびに美化され、ほろ苦い記憶さえも懐かしくなる。

 阿久悠は青春をよく歌にした。

「青春時代」の歌詞
 青春時代の真ん中は胸にトゲ刺すことばかり

「過ぎてしまえば」の歌詞
 過ぎてしまえばみな美しい

 社会人の雫の悩みも、いつか笑い話になるだろう。それも人生の真実だ。夢を諦めるとか諦めないとかいう言葉は、若い雫には荷が重すぎる。なるべく好きなことをする。その程度でいい。しなければならないことなど人生にはない。

 生きていくには自分の好きなことではなく、自分に出来ることをするしかない。仕事は好きでないことが多いが、作業興奮という言葉もある。始めてみたら楽しかったということも、よくある話だ。食べることや寝ることも含めて、人間の楽しみは行動にあるから、仕事がうまくいったときの達成感も人生の楽しみのひとつかもしれない。
 しかし仕事は結局のところ、生きていくための術にすぎない。好きなことを仕事にできればいいのだが、そういう人は100人に1人もいないだろう。仕事だけが楽しみの人は、仕事をやめたら自分を失ってしまうかもしれない。好きなことをするのは自分を保つことでもある。

 雫と聖司くんのプラトニックな関係は、ピュアすぎて溜め息が出る。子供の頃を思い出して、なにやらこそばゆい気持ちにもなる。格差社会のギスギス感が蔓延している世の中だ。たまにはこういう純愛物語を鑑賞して、登場人物の美しい心に接するのも悪くない。水に落ちる雫の映像が雫の心情を象徴していて、次はいつ出てくるのかとちょっとワクワクした。

「翼をください」は、山本潤子のしっとりとした歌声が好きだが、清野菜名の真っ直ぐな歌い方も、杏の歌も悪くない。名曲は年月を経ても、色褪せることはないのだ。

映画「声/姿なき犯罪者」

2022年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「声/姿なき犯罪者」を観た。
10月7日(金)公開『声/姿なき犯罪者』公式サイト koe-voice.jp

10月7日(金)公開『声/姿なき犯罪者』公式サイト koe-voice.jp

10月7日(金)公開『声/姿なき犯罪者』公式サイト。その声は、全てを奪う。妻と仲間の悲しみが元刑事の執念を呼び覚ます。ピョン・ヨハン主演、韓国初の振り込め詐欺の実態を...

10月7日(金)公開『声/姿なき犯罪者』公式サイト

 大韓民国はいまでも儒教の国である。本来は忠、孝、仁といった価値観が重んじられる筈だが、それよりも、そこから派生した上下関係が幅を利かせる。組織内の上下関係(忠)は絶対だし、親孝行(孝)は義務だ。上の者の失敗は下の責任にされ、下の者の成功は上の者の手柄になる。日本の暴力団とブラック企業を合わせたような価値観が、社会の底流にあるパラダイムである。女性の地位が軽んじられているのは日本とあまり変わらない。タリバンより少しマシな程度だ。
 そういう背景を踏まえて本作品を観ると、誠実や信義(仁)の価値観は、庶民の間ではまだ生きていることが分かる。警察組織でも下部の警察官たちには仁がある。それが救いだ。
 
 日本も儒教の影響はあるはずだが、庶民の間に「仁」がなくなってきている印象がある。警察官は保身優先で、市民の安全を守ることよりも警察の威信を守ることに余念がない。一般人が自分の利益を最優先するのはいいとしても、他人の権利を侵害したり人格を蹂躙したりすることに抵抗がなくなっているのも、社会から「仁」がなくなってきていることの証だ。今だけ、カネだけ、自分だけというアベシンゾーの歪んだ価値観が日本全体を歪めてしまった。
 世の中から「仁」が減少したおかげで、世の中の役に立つために努力する人が減ってしまった。それは何を意味するかというと、学力の低下、競争力の低下、協調性の低下、ひいては経済力の低下に直結する。というよりも、小泉純一郎以降の自民党政権によって、既に日本経済は大幅に減速し、後退してしまった。衣食足りて礼節を知る。経済の後退で日本社会から「仁」どころか、礼節まで失われつつあるような気がする。
 
 本作品では、振り込め詐欺に加担する人間たちが大金に目がくらんで「仁」を喪失してしまった様子が描かれるが、主人公の側の人間にはまだ「仁」が残っていることも同時に描かれる。そのため登場人物の熱量が豊かで、一途に目的に向かって邁進する姿は観ていて爽快だ。
 日本でも大韓民国でも、他人の人権を蹂躙する行為は今後もなくならないだろうが、ある程度以上の熱意で取り締まったり、引っかからないように周知を徹底しなければならない。野放しにすると増える一方になってしまう。それは格差を野放しにするのと同じで、どうも日本の政府には本気で取り締まる意志がないように感じる。本作品を観る限り、まだ大韓民国のほうがマシみたいだ。

映画「夜明けまでバス停で」

2022年10月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「夜明けまでバス停で」を観た。
 
「一度くらいちゃんと逆らってみたいんです」
 この言葉にヒロイン北林三知子のこれまでの人生と現在の心情が集約されている。生まれてこのかた、大体は長い物に巻かれて生きてきた。ときどき小さな抵抗を試みたりもしたが、すぐに諦めた。そんな中途半端な生き方が、いまの有様に繋がっているとすれば、せめて少しは変わりたい。
 
「明日こそ目が覚めませんように」
 ホームレスの老人はそう祈りながら今夜の床に就く。彼の人生が悲惨だったと決めつけることはできないが、歳を取って好きなことをする気力も金もない状況は、幸福とは言い難い。三知子は彼の言葉に自分の行く末を重ねてしまう。
 
「間尺に合わない」
 柄本明の元過激派のホームレスは溜め息をつく。ベトナム戦争の特需で儲けた日本は、他国の国民の血の上に繁栄を築いた。元過激派は、日本人の反省のなさが許せない。出所後は手記を出版したり、全国で講演したりして稼ぐ手立てもあっただろうに、彼はホームレスの生き方を選んでいる。その真意は三知子には分からない。
 
 住み込みの仕事は、住居と収入の両方を企業に頼っているだけに、退職したり解雇されたりしたときのダメージが大きい。いざという時にアパートの小さな部屋でも借りれるように、100万円くらいの預金はあった方がいい。入社して自宅を引き払って社宅に引っ越したあと、間もなくその会社がブラック企業だとわかっても、預金がないとすぐには退職できない。
 ちなみに三知子たちに支給されたはずのそれぞれ30万円の退職金は、解雇予告手当である。時給1,250円で8時間働くと10,000円の日給になる。解雇予告手当は30日分を支払うから、概算は合っている。本当はそこから所得税を控除しなければならないのだが、ストーリーとして概算のまま支払った形だ。あとは本人たちが確定申告をすればいい。ブラック企業がやりそうな話ではある。ただし今どき手渡しはあり得ない。それもストーリーの都合だと思う。

 ブラックな組織で人格を蹂躙された状態で生活していると、精神が病んでくる。逆らうか、逃げるかだが、逆らうのには強気とエネルギーが要る。気の弱い人は逃げるのがいいが、カネがないと逃げるに逃げられない。

 本作品は自民党政権に対するアンチテーゼを前面に出している。菅義偉が「自助共助公助」という言葉を使って国は困った人を助けるつもりがないことを堂々と表明した所信表明演説や、アベシンゾーのモリカケサクラ事件と「こんな人たち」発言を取り上げている。
 東京都も国も、困った人達を助けるよりもオリンピックに金を使うことに余念がない。家もない、テレビもない三知子にとって、オリンピックは無関係だし、税金の無駄遣いとしか思えない。
 柄本明は正面から政権を批判するこの役をよく引き受けたと思う。テレビドラマ「半沢直樹」で与党の幹事長役を演じたことを考えると、流石の演技の幅である。
 映画「岬の兄妹」で兄の役を怪演した松浦祐也が本作品で演じたのは、貧しいネトウヨである。世の中から蹂躙されてきたはずなのに、世の中に逆らうのではなく、不満の矛先を反体制的な人たちに向け、怒りを弱い人にぶつける。実はこれはネトウヨの人々の精神性そのものなのだ。同調圧力に乗っかるだけで生きている。救いようがない。
 
 同調圧力が強い日本の社会では、三知子のように長いものに巻かれて生きている人が多いと思う。逆らってもしょうがないし、変えられない条件だと仮定して、その上でできることをすればいいという考え方は、一見前向きに見えるかもしれないが、実は諦めた生き方である。
 状況は変えられる、社会はよくすることができると考えなければ、この先も多くの人が三知子のように路頭に迷うだろう。「一度くらいちゃんと逆らってみたい」と、多くの人に思ってほしい

及川浩治ピアノ・リサイタル 名曲の花束~ロマン派~

2022年10月11日 | 映画・舞台・コンサート
 サントリーホールで及川浩治さんのピアノリサイタル。今回で3回目。
 今日はとても熱の入った演奏で、特にリストの「ラ・カンパネラ」はほんの僅かだがテンポを速くしていて、それでなくても超絶技巧が要求されるこの曲を、及川さんらしいなめらかで力強い音で弾き切った。見事。
 ワグナーの「タンホイザー」は熱が入りすぎてやや暴走気味。しかし通常はオーケストラが演奏するこの曲をピアノ一台で表現するチャレンジは天晴れだった。
 アンコール曲はショパンの別れのワルツとノクターン第二十番。ちょっとホッとした。

映画「裸のムラ」

2022年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「裸のムラ」を観た。
映画『裸のムラ』

映画『裸のムラ』

『はりぼて』の五百旗頭幸男監督がしかける笑うに笑えないポリティカル・ドキュメンタリー。22年10月8日(土)より、[東京]ポレポレ東中野、[石川]シネモンドほか全国順次公開

映画『裸のムラ』

 五百旗頭幸男監督は、映画「はりぼて」では富山市が政治家も有権者もまるごと腐っているのを割とストレートに表現したが、本作品では石川県が政治家を筆頭に県民まるごと腐っているのをやんわりと示唆している。それぞれのシーンはまさに日本の縮図であり、とりもなおさず日本全体が腐っていることのメタファーでもある。
 
「はりぼて」にあったような不正政治家に対する鋭い突っ込みは、本作品では影を潜め、代わって庶民を紹介する。イスラム教を子供に強制する父親、子供に日記の入力を無理強いする父親などを紹介し、旧態依然とした家父長制の考え方が蔓延していることを暗示するのである。
 
 イスラム教に改宗した日本人の男が学校で、日本でイスラム教徒として生活することについて話をしたようなシーンがあり、つづいて学生たちに質問を呼びかけるが、誰も質問しない。イスラム原理主義の過激派でも恐れているのだろうか。 
 彼はアフガニスタンで行われているのはロシアとアメリカの代理戦争だという主張をするが、タリバンについては何も触れない。タリバンを否定することはイスラム教の一部を否定することになるからだろうか。
 
 なべて宗教は何らかの強制や強要を伴う。上から教義を押し付ける一方だ。哲学がないから、精神的な進歩はない。しかし宗教がない日本でも、目上や目下といった封建的な家父長主義が支配的で、やっぱり哲学がないから、科学だけがどんどん進歩してきた一方で、精神的な進歩はない。進歩を阻む上下関係の価値観が連綿と世襲されているのである。
 
 そういった絶望的な古い価値観の典型的な姿を炙り出したのが本作品である。自動車のバンで暮らすバンライファーという言葉は本作品で初めて知ったが、新しいという言葉を惹起の文句に使う自民党議員から、ライフスタイルが新しく見えるバンライファーまで、底を流れる精神性は古い家父長主義だ。
 
 共同体はみんながよく暮らすための便宜的な集団にすぎない。しかし共同体が自己目的化してしまうと、お国のために死ねとか、会社のために死ぬ気で働けとか、軍国主義やブラック企業になる。ガンバレニッポンの同調圧力がその代表的な精神性だ。
 本作品は東京五輪組織委員会の会長を馘になった森喜朗をアイコンのように前面に出す。腐った精神性の代表選手だ。歳を取るごとに醜悪になっていった。それは老醜というよりも、腐った内面が外面にまで滲み出してきた気持ち悪さである。
 
 宗教も無宗教も、共同体の呪縛から脱しない限り、既得権益を守っていくだけの政治が続くだけだ。寛容と親切と無償の行為に溢れた理想の社会とは正反対の腐った社会である。ガンバレニッポンという精神が、実は社会を腐らせていることが、本作品を観るとよくわかる。タイトルの「裸のムラ」のしめすへんの点の部分が日の丸になっているのが、本作品の意図を物語っている。
 
 唯一肯定的に描かれているのが、48歳無収入で旅をする、確か秋葉さんという夫婦の話だ。世間的には一番否定される存在で、本人たちもそれを理解しているところがいい。世間的な基準で自分を飾ったりごまかしたりしないようになりたいという、魂の旅である。出家して修行する菩薩のようだ。五百旗頭監督は、もっとも一般評価が低いであろうこの夫婦のような精神性に未来を託している感がある。見事なアイロニーだ。

映画「De son vivant」(邦題「愛する人に伝える言葉」)

2022年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「De son vivant」(邦題「愛する人に伝える言葉」)を観た。
「愛する人に伝える言葉」公式HP

「愛する人に伝える言葉」公式HP

「愛する人に伝える言葉」公式HP

 医者の山崎章郎が著した「病院で死ぬということ」というエッセイがある。ホスピスで看取った患者たちの話を中心に、死ぬとはどういうことなのか、翻って、生きるとはどういうことなのかを真面目に書いている。とてもいい本なのだが、読んだあと、病院で死ぬのは嫌だと思った。
 病院というと、薬をたくさん処方して、支払い能力がある患者はなるべく長いこと入院させて、そうでない患者は早く追い出すことで、なんとか経営を成り立たせているようなイメージがあるが、そんな酷い病院はあまりないと思う。少なくとも山崎章郎の本を読んだ限りでは、医者はなるべく患者のためになろうと努力している。
 しかしそういう医者の努力が、必ずしも患者のためになるとは限らない。山崎章郎は本人も医者だから、医療そのものを否定できないのだ。

 むしろ医者や病院の思惑を押しつけられることは患者にとって苦痛になる。残りの時間を有意義に過ごしてほしいと医者が思うのは自由だが、何を以て有意義とするかは個人の人生観だ。こういう過ごし方が有意義だとして医者が患者に強制するのは、人権侵害である。だから苦痛に感じるのだ。

 本作品に登場する医者は、善意と知恵が豊かで、バンジャマンのために真摯な姿勢で医療に取り組んでいるが、それでもバンジャマンにとってはある種の苦痛になっている。しかし言ってみれば誰かが誰かの苦痛になっているのは世の常で、カトリーヌ・ドヌーヴが演じた母親のクリスタルもバンジャマンの苦痛の種である。
 ところが、精神が身体の状態に大きく左右されるのも真実である。自分の意志を貫こうとしたバンジャマンも、身体が言うことをきかなくなると、苦痛を取り除いてくれる医者の言うことを素直に聞くようになる。当然だ。あとは死ぬだけである。延命治療をしなかった医者は立派だと思う。

 人生は簡単に言えば、生きてそして死ぬこと、それだけだ。死ねば世界が終わる。自分が死んだあとの世界のことは考える必要がない。生きているうちは、好きなことや、しなければならないと思うことをすればいい。生きているうちに(de son vivant)伝える最後の言葉は、医者が教えてくれた5つ全部でなく「ありがとう」と「さようなら」の2つで十分だ。

新約聖書には次のように書かれている。

明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(マタイによる福音書第六章)

映画「千夜、一夜」

2022年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「千夜、一夜」を観た。
映画『千夜、一夜』公式サイト

映画『千夜、一夜』公式サイト

映画『千夜、一夜』公式サイト

 困難なテーマに挑戦した意欲作である。人間関係は濃厚なように見えても実は稀薄であり、逆に、浅いように見えて実は深かったりする。時間と距離に大きく影響されることは言うまでもない。

 映画「Vanishing」(邦題「バニシング 未解決事件」)のレビューで、失踪者について書いた。警察庁のデータによると、2019年までの数年は、ほぼ同じ程度の数で推移している。

 日本の行方不明者の数 年間80,000人
 9歳以下の数 年間1,200人
 10代の数 年間16,000人
 誘拐事件 年間300件(300人)
 内20歳未満 年間200件(200人)

 警察庁のデータだから、通報された事案のまとめである。通報されない行方不明者もいると思う。逆に行方不明ではないのに捜索願を出される人もいるだろう。当方の知人はずっと実家と連絡を取らなかったので、捜索願を出されて、大家さんを伴った警察官の訪問を受けた。警察官は苦笑いしながら、あまりご実家を心配させないようにしてくださいと言って帰ったそうだ。

 20歳以上の大人の行方不明者は毎年約6万人以上いる。厚生労働省のデータでは日本の年間の出生数は約85万人、死亡数は約140万人である。自殺者数は警察庁のデータで約3万人だが、明らかに自殺とわかる数だけなので、発作的な自殺や行方不明者の自殺などはカウントされていない。WHOによると日本の自殺者は約6万人である。

 自殺者が必ずしも不幸だとは思わないが、少なくとも希望を喪失したことだけはわかる。どこにも行く場所がなく、明日に希望がなければ、人は簡単に自殺する。失踪は自殺と少し違っていて、こことは違う別の場所に希望があるかもしれないと思えば、人はここから出ていく。出家する人の精神性に似ていることもあるだろうし、自暴自棄になっている可能性もある。本人以外の誰にも分からないが、希望を完全に喪失した訳ではないのだ。

 人間が喜びや希望を見出すのは、残念ながら殆どが人間関係においてである。不安や恐怖も同じく殆どが人間関係におけるものだ。同じものを食べて美味しいと思ったり同じ景色を美しいと感じたりすれば、人は共生している幸福感を得る。不安や恐怖を共有すれば、背負う荷は半分以下になる。その時間がながければ長いほど、別れたときの喪失感も大きい。事前の話し合いや予告がなければ尚更だろう。

 田中裕子がヒロイン若松登美子の喪失感を見事に演じている。希望は殆ど消えかかっているが、一縷の可能性に縋って生きている。待って待って待ち続け、千夜が万夜になっても、なお一夜にすぎないかのように思える。つまり、いなくなったのが昨日のことのように思えるのだ。だから待っていられる。

 尾野真千子の田村奈美は登美子と違って、夫と過ごす時間よりも自分の計画が優先する。その計画に役割を果たすはずの夫がいなくなったことで焦っているのだ。登美子には理解できない精神性である。

 ダンカンが演じたトリックスター春男が登美子をかき回すのが面白い。ある意味で登美子は春男に救われている部分がある。黙って魚をくれるし、自分のことを好きだと言ってくれる。それは無意識に登美子のレーゾンデートルとなっている。過去を生きている登美子を現在に引き戻す役割も果たしている。春男がいなかったら、単なる喪失だけの悲惨な物語になっていただろう。

映画「四畳半タイムマシンブルース」

2022年10月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「四畳半タイムマシンブルース」を観た。
映画『四畳半タイムマシンブルース』公式サイト 2022年公開

映画『四畳半タイムマシンブルース』公式サイト 2022年公開

映画『四畳半タイムマシンブルース』公式サイト 2022年公開

映画『四畳半タイムマシンブルース』公式サイト 2022年公開

 タイムマシンもののスラップスティックといえば、筒井康隆の「笑うな」を真っ先に思い出す。1980年に初版が出版され、いまでは電子書籍にもなっている。内容は馬鹿馬鹿しいのだが、人間存在へのある種の皮肉になっているところに筒井康隆らしい味があった。

 本作品は、冒頭の「私」によるオタッキーでペダンチックなモノローグに若干辟易しそうになったが、大学生たちが繰り広げる馬鹿騒ぎには筒井康隆に通じる皮肉を感じて、俄然面白くなった。特にタイムマシンが登場してからの一連の考察と検証は飛躍したり行き詰まったりで、なかなか愉快だった。
「馬骨野郎」という言葉には「私」の自虐的な諦観のようなものがある。全部が無意味だと切り捨ててしまいそうになるのを踏みとどまって、過去も現在も概ね肯定しているところがいい。名もなき人々の名もなき青春も、否定されるべきではないのだ。

 筒井康隆ほどの世の中を穿つようなブラックな洞察はないが、時系列がきちんと整理された謎解きにはそれなりに感心した。特に河童の像の種明かしはケッサクだ。二枚目ぶっている男を三枚目に突き落とすのが、本作品のスラップスティックなのだろう。ウケる。

映画「バビ・ヤール」

2022年10月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「バビ・ヤール」を観た。
バビ・ヤール : 作品情報 - 映画.com

バビ・ヤール : 作品情報 - 映画.com

バビ・ヤールの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「ドンバス」のセルゲイ・ロズニツァ監督が、第2次世界大戦における独ソ戦の最中にウクライナの首都キ...

映画.com

 象徴的なシーンがふたつあった。ひとつはスターリンの巨大ポスターが剥がされるシーン。もうひとつは、代わりに貼ったヒトラーのポスターが剥がされるシーンである。
 同じ監督の映画「ドンバス」を鑑賞したときも思ったが、ロズニツァ監督が風刺したいのは民衆という衆愚そのものではないかという気がする。ウクライナの民衆は最初、スターリンの圧政から解放してくれる善玉としてヒトラーを礼賛した。ヒトラーが虐殺者であることが分かると、今度はソ連軍を解放軍として歓迎する。スターリンは善玉から悪玉になり、また善玉に戻ったりと、なんとも忙しい。

 人類を王側の人間と奴隷側の人間に分けてみると、歴史的には奴隷側の人数が圧倒的に多い。悪い言い方をすれば、大抵の人は奴隷根性という精神性の持ち主である。支配され、命令されることに慣れているのだ。少なくとも二十世紀まではそうだった。国家や組織に忠誠を誓って、場合によっては命まで投げ出す。職場においては「帰属意識」などという言葉が使われていた。いまはもう死語だろうと思う。

 スラブ系の歌に頻出する単語は「祖国」である。そして本作品にも「祖国」という単語が出てくる。映画「ドンバス」のレビューにも書いたが、祖国という言葉に気持ちを持っていかれてしまうのは「祖国バカ」である。ゼレンスキーもプーチンも「祖国バカ」だ。そして世界各国の指導者の多くも、同じように「祖国バカ」である。
 手段が目的化してしまうことを自己目的化というが、人類の最大の自己目的化は国家という共同体の目的の変化である。協力して生活の向上を図ったのが国家の最初だが、いつの間にか国家の存続が目的になってしまった。そして、本来ならば他国と協同して困難を乗り切ることもできただろうに、自分たちの国家を優先するあまり、他国を占領して富国を図るようになった。戦争の歴史である。
 国民が挙って権力者に反発すれば、権力者もおいそれとは戦争ができないはずだ。しかし権力者には軍隊や警察という暴力装置がある。権力に逆らえば反乱とみなされて殺される。それが二十世紀までの人類の歩みである。奴隷の歴史だ。

 二十一世紀になって、人類は変化した。国家権力の奴隷という精神性から脱却しつつあるのだ。その決定的な変化に寄与した最大の原因は、インターネット、スマートフォンの普及である。大都会から田舎まで、スマホが普及して、誰もが簡単に情報を共有できるようになった。今後さらに通信衛星が充実すれば、基地局などない砂漠やジャングルでもインターネットができる。多言語を話せる人も増えているし、日本語の中のカタカナ語の割合もどんどん増えている。
 旧態依然の「祖国バカ」の権力者をよそに、民衆はグローバル化しているのである。これまでは権力者が国家の方針を決めてきたが、今後は民衆が決めていくようになる。情報と同様に通貨も徐々に統合されて、経済の均質化が進むだろう。
 それでも奴隷根性の精神性を保持する人は一定の割合で存在し続ける。「祖国」や「お国のため」という大義名分に弱い人々である。日本では「ネトウヨ」と呼ばれるが、そういう「祖国バカ」の人々が権力者を支えている。しかしそれも長くは続かないだろう。情報がマスコミからネットへ移行し、フェイクとファクトを区別するようになる。フェイクのマスコミも、衆愚の典型である「祖国バカ」も、いずれは淘汰されなければならない。ロズニツァ監督が言いたかったことはそういうことだという気がする。

 国内旅行をするのに、都道府県同士がいがみ合っていたら、楽しい旅行はできない。何の障害もなく県境を越えて、土地土地の文化に触れ、名産を食し、温泉に浸かれば、充実した旅行になる。現在、日本の国内旅行ではそれが可能である。
 国家も同じだ。本来の目的である生活の向上というところに立ち返り、他国とも協力して自由で豊かに暮らせるようにする。国家間の旅行も日本の国内旅行と同じくらい気楽に楽しめる。そんな日が来るのかというと、大変に怪しい。
 しかし何が起きるか分からない今日この頃である。もしかしたら近日中に核戦争で人類が絶滅するかもしれないが、そうならなければ逆に、今世紀から来世紀くらいに国家間の垣根が低くなって、地球全体に自由が行き渡る日が来るかもしれない。不寛容と不親切の世界から、寛容と親切の世界に変貌するかもしれない。少なくともそういうヴィジョンを抱いていなければ、人類に未来はないだろう。

映画「渇きと偽り」

2022年10月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「渇きと偽り」を観た。
映画『渇きと偽り』公式サイト9/23(金)ロードショー

映画『渇きと偽り』公式サイト9/23(金)ロードショー

世界的ベストセラー待望の映画化。雨の降らない町を舞台に、過去と現在、2つの事件が交錯する――オーストラリア初、至高のクライムサスペンス。

映画『渇きと偽り』公式サイト9/23(金)ロードショー

 エキセントリックな登場人物が多い中で、主演俳優の落ち着いた演技には常識人としての安心感がある。妻子を殺して自殺した昔の親友。土地の人間はそのまま受け取っているが、主人公アーロン・フォークは連邦警察官だけあって、事件を表面通りに受け取ることがない。何かある。

 20年前に事件が起きて、逃げるようにして立ち去った故郷は、主人公にとって曰くのある土地だ。戻ってきたものの、田舎のことだ、事件は風化しておらず、おまけに風評もそのままで、アーロンは忌み嫌われる。20年前の事件と今回の事件。登場人物の誰もが疑わしい。20年前のほうは、アーロンさえ疑わしく見える。
 最近の刑事ものらしく、防犯カメラの映像が捜査の主な対象だ。町の人間関係と映像を重ね合わせながら、アーロンは徐々に真相に迫っていく。

 アーロンの捜査が飛び飛びであまり段階をふまないから、日本の刑事ドラマみたいに謎解きが分かりやすくないのが難点だが、真相にはそれなりの迫力がある。アーロンが腕っぷしを発揮したりせず、地道な捜査だけで謎を追っていくのがいい。能天気なハリウッドのB級刑事映画とは一味違う奥行きがあり、ミステリーとしては上質だと思う。