映画「バビ・ヤール」を観た。
バビ・ヤール : 作品情報 - 映画.com
バビ・ヤールの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「ドンバス」のセルゲイ・ロズニツァ監督が、第2次世界大戦における独ソ戦の最中にウクライナの首都キ...
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象徴的なシーンがふたつあった。ひとつはスターリンの巨大ポスターが剥がされるシーン。もうひとつは、代わりに貼ったヒトラーのポスターが剥がされるシーンである。
同じ監督の映画「ドンバス」を鑑賞したときも思ったが、ロズニツァ監督が風刺したいのは民衆という衆愚そのものではないかという気がする。ウクライナの民衆は最初、スターリンの圧政から解放してくれる善玉としてヒトラーを礼賛した。ヒトラーが虐殺者であることが分かると、今度はソ連軍を解放軍として歓迎する。スターリンは善玉から悪玉になり、また善玉に戻ったりと、なんとも忙しい。
人類を王側の人間と奴隷側の人間に分けてみると、歴史的には奴隷側の人数が圧倒的に多い。悪い言い方をすれば、大抵の人は奴隷根性という精神性の持ち主である。支配され、命令されることに慣れているのだ。少なくとも二十世紀まではそうだった。国家や組織に忠誠を誓って、場合によっては命まで投げ出す。職場においては「帰属意識」などという言葉が使われていた。いまはもう死語だろうと思う。
スラブ系の歌に頻出する単語は「祖国」である。そして本作品にも「祖国」という単語が出てくる。映画「ドンバス」のレビューにも書いたが、祖国という言葉に気持ちを持っていかれてしまうのは「祖国バカ」である。ゼレンスキーもプーチンも「祖国バカ」だ。そして世界各国の指導者の多くも、同じように「祖国バカ」である。
手段が目的化してしまうことを自己目的化というが、人類の最大の自己目的化は国家という共同体の目的の変化である。協力して生活の向上を図ったのが国家の最初だが、いつの間にか国家の存続が目的になってしまった。そして、本来ならば他国と協同して困難を乗り切ることもできただろうに、自分たちの国家を優先するあまり、他国を占領して富国を図るようになった。戦争の歴史である。
国民が挙って権力者に反発すれば、権力者もおいそれとは戦争ができないはずだ。しかし権力者には軍隊や警察という暴力装置がある。権力に逆らえば反乱とみなされて殺される。それが二十世紀までの人類の歩みである。奴隷の歴史だ。
二十一世紀になって、人類は変化した。国家権力の奴隷という精神性から脱却しつつあるのだ。その決定的な変化に寄与した最大の原因は、インターネット、スマートフォンの普及である。大都会から田舎まで、スマホが普及して、誰もが簡単に情報を共有できるようになった。今後さらに通信衛星が充実すれば、基地局などない砂漠やジャングルでもインターネットができる。多言語を話せる人も増えているし、日本語の中のカタカナ語の割合もどんどん増えている。
旧態依然の「祖国バカ」の権力者をよそに、民衆はグローバル化しているのである。これまでは権力者が国家の方針を決めてきたが、今後は民衆が決めていくようになる。情報と同様に通貨も徐々に統合されて、経済の均質化が進むだろう。
それでも奴隷根性の精神性を保持する人は一定の割合で存在し続ける。「祖国」や「お国のため」という大義名分に弱い人々である。日本では「ネトウヨ」と呼ばれるが、そういう「祖国バカ」の人々が権力者を支えている。しかしそれも長くは続かないだろう。情報がマスコミからネットへ移行し、フェイクとファクトを区別するようになる。フェイクのマスコミも、衆愚の典型である「祖国バカ」も、いずれは淘汰されなければならない。ロズニツァ監督が言いたかったことはそういうことだという気がする。
国内旅行をするのに、都道府県同士がいがみ合っていたら、楽しい旅行はできない。何の障害もなく県境を越えて、土地土地の文化に触れ、名産を食し、温泉に浸かれば、充実した旅行になる。現在、日本の国内旅行ではそれが可能である。
国家も同じだ。本来の目的である生活の向上というところに立ち返り、他国とも協力して自由で豊かに暮らせるようにする。国家間の旅行も日本の国内旅行と同じくらい気楽に楽しめる。そんな日が来るのかというと、大変に怪しい。
しかし何が起きるか分からない今日この頃である。もしかしたら近日中に核戦争で人類が絶滅するかもしれないが、そうならなければ逆に、今世紀から来世紀くらいに国家間の垣根が低くなって、地球全体に自由が行き渡る日が来るかもしれない。不寛容と不親切の世界から、寛容と親切の世界に変貌するかもしれない。少なくともそういうヴィジョンを抱いていなければ、人類に未来はないだろう。