映画「The Witch」を観た。
たしか最初の公開時はネットだけだったと記憶している。基本的に映画は映画館で観る主義なので、多少は気になっていたが観ないままだった。2023/5/26に続編が公開されるのに応じて劇場公開されたので、早速観に行ってきた次第。
ゴア描写が多めだが、目を背けたくなるほどではなく、素早いアクションが見応えがある。しょうゆ顔のク・ジャユンが不敵な笑みを浮かべるところもいい。どんでん返しと言うほどではないが、ラスト近くになって、そうだったのかと思わせる展開には、上手くしてやられた。
医学は人間のためだと思っていたが、宇宙開発やインターネットと同じように、結局最先端の科学は、軍事目的なんだなと改めて思い知らされた気がする。
「女らしい服装」「親に向かって」といった言葉が台詞の中に出てくるのは、韓国がいまだに上下関係を重んじるタテ社会であることを示しているが、立場や年齢だけでなく、成績や年収によっても上下関係をつけるようだ。本作品では強さによって上下関係をつけているように感じられた。
こういったことと、韓国が世界最速で少子化が進んでいることとは、無関係ではない。本作品の世界観には、タテ社会の住みにくさを嘆きつつも、タテ社会の精神性から抜け出せないでいるジレンマがある。韓国社会の悲劇の本質が透けて見えるようだ。
続編も観る予定。
映画「フリークスアウト」を観た。
登場する超能力者たちは、能力の特殊性ゆえに実用の役に立たず、大道芸人としてしか生きる道がない。20世紀前半のイタリアは大らかで、科学で説明できないこともすんなり受け入れる。重箱の隅を突くようなことはしないのだ。考えてみれば、庶民というものは深く知るよりも楽しんだり便利に使ったりすることに重きを置く。携帯電話の仕組みを知らなくてもネットも通信もできるし、ボンネットを開けたことがなくても自動車で移動できる。技術の開発は苦労だが、技術を享受するのは楽しい。
ベルリンサーカスの団長フランツを演じたフランツ・ロゴフスキは2018年製作のドイツ映画「希望の灯り」では、穏やかで優しい主人公を好演していたが、本作品では狂気を孕んだ愛国者を演じた。愛国の熱狂がどのような悲劇に至るか、身をもって示した形だ。見事な演技だった。
戦時中でも庶民には楽しみを与えなければならない。正義の戦という大義名分だけでは疲弊してしまう。パンとサーカスが必要なのだ。逆に言えば、戦時下の人々は四六時中緊張していたわけではなく、戦争という日常を平静に生きていた訳だ。
パルチザンのひとりが言うように、人を殺すことも、最初は抵抗があるが、すぐに慣れる。人間の環境適応能力を侮ってはいけない。非道な振る舞いも、日常になれば何の呵責もなくなる。戦争の大義名分に寄りかかっていれば悩まずに済む。戦争になったからといって、生活が劇的に変わる訳ではない。気づいたら戦争になっていたというのが庶民の実感だろう。そこが空恐ろしい。
本作品は必ずしも歴史に忠実ではない。現代とオーバーラップさせたり、フランツの幻覚を通じて未来を見せたりする。しかし、敵を一定の基準でカテゴライズして、人格をスポイルするという戦争の本質を見失うことはない。ラストのバトルはとても見ごたえがあった。
エンドロールに映される絵がいい。解説は何もないが、モハメド・アリは分かった。あとはマラドーナとペレ? ネルソン・マンデラ? マリー・キュリー? ベトナム戦争? チェルノブイリ? ベルリンの壁? などなど。第二次大戦後も、人類の歴史はごった煮的に続いてますねえという、製作者のため息に似た雑感のようなものを感じた。人類の歴史を俯瞰すると、その賢さに感心すると同時に、その愚かさに呆れてしまうのだ。
映画「アルマゲドン・タイム ある日々の肖像」を観た。
1980年と言えば、まだコンピュータが一般的ではなく、インターネットなど誰も知らず、一部の専門家がハードとソフトを開発していた時代だ。情報といえば新聞かテレビラジオか人づてに聞くくらいで、調べ物をするのは本屋か図書館と相場が決まっていた。
年配者の話は子供にとって貴重で、それなりの重味をもって受け止められていた。どんな年寄りもそれなりに苦労してきたことは、話を聞けば子供でも分かる。少なくとも年寄りを十把一絡げにして「老害」などと侮蔑するようなことはなかった。
本作品でアンソニー・ホプキンスが演じたアーロンは、孫のポールからちゃんと話を聞いてもらえる。年寄りの話を聞きながらスマホで調べて間違いを指摘するような孫でなくて幸運だ。末梢的な事柄よりも、本質を理解してもらいたい。そのために話をするのだ。
ポールを演じたバンクス・レペタは撮影時(2022年)はまだ13歳か14歳だったようだが、演技力は大したものである。親の言うことを聞けという強圧的な両親に反発を覚えつつ、また父親の暴力に恐怖しつつ、自意識の目覚めに伴って、楽しいことを探す12歳の思春期をリアルに演じ切った。アンソニー・ホプキンスと堂々と渡り合ったのも立派である。
ポールの両親は頭が悪くて、世間的な価値観で物事を判断するしか能がない。夫婦揃って金持ちになりたいだけの我利我利亡者だが、おじいちゃんには世界観がある。どうすれば得をするかよりも、勇気を出すことと、卑怯者にならないこと、高潔な態度をとることだと言う。その3つは実は同じことなのだが、ポールにはまだ分からない。
友だちと一緒だと孤独や不安に苛まれずに済む。だから子供たちはつるみたがる。しかし友だちとの時間の大半は、無意味な時間だ。孤独と不安を紛らす以上の意味を持たないからである。
ひとりきりで孤独に苦悩する時間こそ、人を成長させ、人生に深みを与えてくれるものだが、若いうちはなかなかそのことに気づかない。中には一生気づかないまま、他人に自分の時間を浪費されて一生を終える者もいる。
ポールには人生を左右する選択が迫っている。勇気のある決断ができるだろうか。それはひとえに、どれだけ孤独に悩んだかにかかっている。年寄りの話は鬱陶しいかもしれないが、重大な決断をしなければならないときに役に立つことがある。そのために話をしているのだと、アーロンは予言した。おそらくその通りになるだろう。
映画「Tar」を観た。
音楽と饒舌に満ちた作品である。主人公リディア・ターは音楽至上主義でプライドが高いけれども、すべてを相対化して捉えたりもするし、世間的な価値観に流されたりもする。対人関係はおしなべて強気だが、親しい者には弱い部分もあるという複雑な人格の持ち主だ。
その才能故に、自分にも他人にも妥協を許さない。原曲に忠実であろうとすると同時に、表現においては独創性を追求する。オーケストラにもそれを要求する。指揮者はときとして畏れられるリーダーにもなるし、侮られたらピエロにもなる。リディアは精一杯の威厳をもってリハーサルに臨む。決してピエロにはならない覚悟だ。どっしりとした人格ではあるが、人間だから弱さはある。しかし自分の弱さを認めるつもりはない。なんともややこしい人物である。この難役をケイト・ブランシェットは呼吸でもするかのように簡単に演じ切った。凄い演技力だ。
当方もときどきクラシックコンサートに出かける。音楽至上主義ではないが、ヨハン・セバスチャン・バッハを、その人物像を根拠に否定する人がいたら、違和感を覚えると思う。バッハの人格とバッハの音楽は別物だ。小説と小説家が違うのと同じである。芸術家はあくまで作品で評価されなければならない。リディアがバッハを主義主張の面から否定する学生に苛立ったのは当然だ。
リディアは多才な人の例に漏れず、多くの人と接して、たくさんの話をする。殆どが音楽の話だが、音楽を崇める度が過ぎて、他人の人格を否定する場面もある。これも多才な人の特徴である。ある意味でモンスターだ。他人が自分のことをどう言っているのかについては、敢えて関心を持たないようにしている。自分の弱さが露呈してしまわないためだ。
しかしネットおよびSNSの時代である。有名人になれば批判もやっかみもあるし、周囲の悪意もある。指揮者といえども人気商売だ。大抵の人は指揮者の優劣などわかりもせず、ただ評判の良し悪しや有名無名で判断する。評判のいい有名な指揮者やオーケストラのコンサートには高い金を惜しまないが、無名な指揮者やオーケストラには見向きもしない。リディアの人気も、ある意味で作り上げられたものだ。クラシックが商業主義に乗っかっているところに、リディアの不幸がある。音楽界は未だに開かれた世界とは言い難いのだ。
リディア・カーは、尊敬する先人としてアントニア・ブリコの名前を挙げる。2018年製作の映画「The Conductor」(邦題「レディ・マエストロ」=2019年日本公開)で取り上げられた女性指揮者のパイオニアである。リディアにとって現代はアントニアの時代よりも恵まれていて、女性指揮者に対する偏見は少ない。
しかし指揮だけではなく音楽の指導的役割を担うとなると、反発を覚える差別主義者はいまだに多い。若い男子学生は今なお「Fucking bitch」などという言葉を使うのだ。リディアはそんな連中を上手く躱そうとするのではなく、正面から体当たりしていく。しかし蹴散らすにも限界がある。彼女の戦いは必然的に悲壮なものとなる。それでもその生き方は見事だった。
映画「MEMORY メモリー」を観た。
意外に面白かった。映画紹介サイトでは、痴呆症を発症した殺し屋が、かねてから断ってきた子供殺しを依頼してきた組織と対決するという話で、それだけなら殺し屋がピンチをくぐり抜けて大団円に至る展開しか浮かばない。しかし鑑賞してみると、殺し屋の動きを追う一方で、権力中枢の妨害に遭いながらも真実に迫っていくFBIのエージェントのストーリーが並行していて、その両輪が収斂していくという組み立てに奥行きと立体感があった。
一方で組織には組織の論理がある。殺し屋に安楽な隠居生活は許されない。簡単に引退できると思ったら大間違いだ。殺し屋アレックスはそのことを思い知らされると同時に、自分の身に始末屋が迫っていることを知る。
それから先は一本道で、同じ場所を時間差でアレックスとFBIが通り過ぎる展開は、王道だがスリリングだ。FBIエージェントたちの権力者に対する確執のエピソードもいい。モニカ・ベルッチのダヴァナ・シールマンもラスボスとしての貫禄十分だ。
権力に阿る警察とFBIの構造的な腐敗は手つかずのままだが、それは仕方のない話だ。権力組織は必ず腐っていくもので、自浄作用は期待できない。命令をする立場の人間が人事権も握っているからだ。かといって命令系統と人事系統を分離するのは相当に困難だ。巨視的で未来を展望ができる上司が公平で効率的な人事を行なうというのは極めて稀であり、大抵は保身と既得権益だけの小役人が好き嫌いで贔屓の人事をしているのが現実である。日本でも内閣人事局が発足して官僚の人事を官邸が主導するようになってから、官僚の倫理観の凋落が始まった。
弱い人の怒りを代弁するエージェントと、力のある者にすり寄る上司。この構造はアレックスが怒りを覚える組織の構造と同じだ。つまり善でも悪でも、組織は権力者が牛耳って、弱い人間が割を食う点は同じなのだ。
本作品は蹂躙される側の論理を権力側と対決させるという点で、他の殺し屋映画とは一線を画している。孤軍奮闘の殺し屋を演じたリーアム・ニーソンは存在感が抜群で、作品全体の重さを増している。とてもよかった。
映画「Un beau matin」(邦題「それでも私は生きていく」)を観た。
シャンソン歌手の金子由香利のリサイタルに一度だけ行ったことがある。本作品に出てくる介護施設でみんなで合唱するのが、彼女の持ち歌である「サンジャンの私の恋人」だ。
アコルディオンの流れに誘われいつの間にか
サンジャンの人波に私は抱かれていた
甘い囁きなら 信じてしまうもの
あの腕に抱かれれば
誰だってそれっきりよ
あの眼差しに見つめられたときから
もう私はあの人のものよ
本作品は、ミウミウが主演した映画「夜よさようなら」に似ていて、一曲のシャンソンみたいな物語である。昔ながらの恋の紆余曲折に加えて、高齢化時代らしく介護や尊厳死の問題も登場する。
レア・セドゥが演じたサンドラは、母として、時にはひとりの女として、人生に向き合い、時代に向き合う。その態度は率直であり真摯だ。他人に対してというより、自分自身に対して真摯なのである。
見栄や保身のために自分を飾るのは、見苦しい上に、つらい。本人にとってもつらいが、周囲にとってもつらい。見栄や保身はそもそもその人の人生観ではなく、社会のパラダイムだから、その人らしさがなくて、人間的な魅力を失う。
逆に飾らない人間は強い。変な虚勢がないから、気が楽だ。その人らしさが現われるから、人間的な魅力もある。サンドラはレア・セドゥがこれまで演じた中で、群を抜いて素晴らしい女性だ。クレマンがそんなサンドラに魅せられたのは当然の流れだろう。
原題の「Un beau matin」は「ある晴れた朝」である。ドイツ語では「Ein sonniger Morgen」で、痴呆症になってしまった哲学者の父親が自伝のタイトルにしようとしていた。父親のドイツ語の蔵書が紹介されるから、ドイツ哲学が専門だったのかもしれない。父親の人となりが知れるエピソードであり、その人となりを愛した娘の愛情も同時に感じられた。とても温かい、いい映画だ。
映画「Brahmastra Part One: Shiva」(邦題「ブラフマーストラ」)を観た。
タイトルは「ブラフマーストラ パート1:シヴァ」である。どうしてもバラモン教やヒンドゥー教の神話に依拠した壮大なファンタジーを期待してしまう。しかし本作品はあまりにもこじんまりとした作品であった。
主人公シヴァはその名前にしてはスケールの小さいステレオタイプの青年で、人間としての魅力に乏しい。相手役のイーシャはそこらへんの娘さんだ。シヴァとイーシャの関係性の変化や成長も表面的で、何も響いてこない。行動の動機が意味不明で登場人物に感情移入できないから、ワクワクもドキドキもない。世界観は十年一日のパターナリズムだ。こうなるともうどうしようもない。
戦闘シーンはくどくて、神話みたいな圧倒的かつ瞬殺的な力を感じさせてくれることはなかった。ブラフマーストラを解放したら世界が地獄と化すという触れ込みだったが、映画ではちょっとした超能力者同士がちまちま戦っているだけで、これなら人間の造った兵器のほうがよほど強力だ。たいして強くもない登場人物たちがヒマラヤでせこい戦いを繰り広げているところに核爆弾を一発落としたら、本作品の存在意義ごと消し飛んでしまうだろう。
インド映画だから脳天気な踊りが延々と続くのは仕方がないが、踊り自体が不出来で歌もよくない。大抵のインド映画のダンス場面は楽しいはずだが、本作品はちっとも楽しくなかった。それにストーリーと無関係すぎる。
もしかしたら新しい世界観を紹介してくれる作品かもしれないと期待したが、古臭い思想でショボい戦いを見せられただけだった。説明過多にもうんざりする。「パート2」も期待できないと思う。
映画「Le tourbillon de la vie」(邦題「ジュリア(S)」)を観た。
原題は「La tourbillon de la vie」(直訳「人生の渦巻き」)である。「tourbillon」は時計のメカニズムのひとつで、腕時計が縦横前後に動いても正確な時を刻み続けることができる。ジュリアの人生が色んな方向にずれても、時間は正確に過ぎていく訳だ。よく考えられたタイトルである。邦題は英題から拝借したようだが「ジュリア(S)」という英題もよく出来ている。
映画サイトには4つの人生と書かれているが、タラレバを様々な局面に当てはめていくと、ジュリアの人生は限りなく分岐していく。本作品は様々な局面でのタラレバを提起し、その結果のシーンを数多く映してみせる。途中まではなんとかついていけたが、後半からやや混乱した。
人生の分岐は将棋の指し手に似ている気がする。今をときめく藤井聡太六冠王であれば、本作品は明確に理解できるに違いない。こう指せばこう来る、こう来たらこう指すというのを考えていくと、将棋指しの読みは一局の手数よりも多くなる。本作品がひとりの人生を追っていくよりもずっと多くの人生を追うことになったのと同じだ。
そこで大事になってくるのが大局観ということになる。「へぼ将棋、王より飛車を可愛がり」という諺の通り、大局観を失ってその場の損得に拘泥すれば、大局観の優れた相手に負かされてしまう。
しかし人生は負かされるということがない。死んだら終わりという人もいるが、死は必ずしも不幸ではないし、すべての人に死は訪れる。勝ちも負けもない。本作品のどのジュリアも否定されるべきではない。
終わりよければすべてよし。最期に平安な死が迎えられるなら、人生がどれほど波乱万丈でもいいのだ。死に際しては、富や名声は何の役にも立たない。それよりも、自分がどれだけ他人の役に立ったかが重要なのだ。どのジュリアも人に尽くした素晴らしい人生だった。
映画「ハマのドン」を観た。
俺は自民党員だと藤木幸夫は言う。戦前の日本はどんどんおかしくなっていった。俺は子供心にそう感じたことを憶えている。そして今、あの頃と同じようにおかしくなっている。そんな風に感じられてならない。91歳。感性は少しも衰えていない。
主権在民と彼は言う。それがおかしくなっているということは、主権が別のところに移りつつあるということだ。つまり自民党の幹部がおかしくなっているということだ。それは日本の政治がおかしくなっているということに等しい。
何か変だと感じるのは大変重要なことだ。ゲーテは「直感は過たない。誤るのは判断の方だ」と書いている。ショーペンハウエルは「第一印象が最も正しい」と書いている。ドイツの知の巨人たちの言葉には真実がある。藤木幸夫の直感と印象は的を射ているのだろう。
自分の直感と第一印象をどれだけ信じられるかで、その人間の人間力が違ってくる。ころころと判断を変える人は信用されない。所謂ブレる人だ。藤木幸夫のブレのなさは問答無用で自分を信じることに由来する。厄介な人だが、信頼できる人でもある。
昔の人らしく、凝り固まったパターナリズムはあるが、藤木幸夫には感謝の気持ちがある。そこがアベシンゾーなどとは違うところだ。感謝を忘れた為政者は、最後は総スカンを食らって退場するだけだ。アベシンゾーの最期は、まさに因果応報である。ただ、勝手に退場するだけならいいが、戦前のように国をとんでもない方向に連れて行ってもらったら困る。藤木幸夫が危惧している通りだ。
自民党員でも腐っていない人間もいるのだということがわかってよかった。テレビ朝日にも意地がある人がいることも、わかってよかった。
映画「La Brigade」(邦題「ウィ、シェフ!」)を観た。
本作品は難民問題の映画である。難民といっても、ひとりひとり事情が異なるし、能力や適性も様々だ。フランス政府はそのあたりを踏まえて、単に国の負担になるだけの人間なのか、国のために役に立ってくれる人間なのかを峻別しようとしているようだ。本作品では、20歳までに進学するか、就職が出来る人間には在留資格を与え、そうでない人間は強制送還すると紹介されている。
冷たい政策のように聞こえるが、共同体は行政サービスを個人に与える代わりに、個人に納税義務を負わせている。それはある種の契約だ。難民と言えども納税できない人間を共同体に置いておくことはできない。逆に言えば、納税する人間にはちゃんとした行政サービスを与える。ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」の思想が、彼を生み出したフランスでは未だに根強く生きていると思われる。
共同体の為政者は選挙で選ばれる。フランスには難民を拒絶しようとする勢力があるが、人権の観点から、フランス政府は基本的には難民を受け入れる方向性だ。難民の中には犯罪に走る者がいる一方、高い能力を持っていて経済的社会的文化的に目覚ましい活躍をする者もいる。個人個人を見極めなければならないのだ。日本では難民個人個人を見ようとしないで、かなり拒絶的な規則で難民を十把一絡げに判定してしまう。人権無視の政策で、世界的に非難されているが、日本のマスコミは少しも報じない。
本作品の主人公である料理人カティ・マリーは、料理にあたっては、人種も性別も国籍も無関係で、すべての人間が平等だと力強く宣言する。それは彼女の負けん気の強い性格を形作った生い立ちに由来していて、物語の中で明らかになる。人は自分の努力以外で差別されてはならないという考え方は、自由と平等の理念が国民に行き渡っているフランスらしい。国籍も人種もバラバラで、それぞれに並々ならぬ覚悟でフランスに来ている若い難民たちが相手だ。気が強くなければ負けてしまうだろう。ヒロインの人物造形はよく出来ている。
フランスでも日本と同じく、バカ製造機みたいなテレビ番組がある。料理番組に乗っかって人気を博したシェフのことが、カティ・マリーは嫌いだ。料理は文化であって、ミーハーにちやほやされるのとは違うと思っている。それがカティ・マリーの料理人としての矜持でもある。料理を志す人には、なんとしてもその心意気を受け継いでほしいが、現実は厳しい。そこでこのバカ番組を利用しようと企む。それが本作品のクライマックスだ。
映画のポスターから邦題を「ウィ、シェフ!」としたのだろうが、原題の「La Brigade」からすると、難民の若者たちの「俺たちはチームだ」という言葉が本作品の主題だろう。難民として助け合って生きていくのだ。そうして世界の恵まれない環境を少しずつ改善していく。若者たちが一歩ずつ歩きはじめるような、そんな作品だった。