三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「銀河鉄道の父」

2023年05月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「銀河鉄道の父」を観た。
映画『銀河鉄道の父』公式サイト | 2023年5月5日(金・祝)全国公開

映画『銀河鉄道の父』公式サイト | 2023年5月5日(金・祝)全国公開

直木賞受賞作品「銀河鉄道の父」待望の映画化!主演:役所広司、共演:菅田将暉、森七菜 監督:成島出

映画『銀河鉄道の父』公式サイト | 2023年5月5日(金・祝)全国公開

「お父さんのことを書いたのス」宮澤賢治のそんな本心が聞こえてくるようだ。役所広司の演じる政次郎が力強く諳んじる「雨ニモマケズ」には、モデルとされている人物もいるが、本作を見る限り、偉大な父のことを詠んだのではないかと思われる。

 宮澤政次郎という人物のことは宮澤賢治の父であること以外知らなかったが、本作品では愚痴も悪口も言わず、貧しい人のために役に立とうとする出来た人で、否定的な発言の多い賢治とは対照的だ。有名ではないが、偉大な人物であったことは間違いない。
 吉本隆明の著作の中で、宮沢賢治が書いたかなり理屈っぽい文章が紹介されていて、物静かな思索家タイプの人だという印象だったが、本作品を観てかなり驚いた。こんな息子だったとすれば、政次郎くらい懐の深い人物でなければ、宮沢賢治は自由な創作が出来なかったかもしれない。宮沢賢治を世に出しただけでも、政次郎は偉大な人だ。演じた役所広司はさすがの安定感である。
 菅田将暉は、生きるのに迷い、拠り所を求めて彷徨う賢治を上手に演じた。こちらも見事だ。森七菜のトシもよかった。「あめゆじゅとてちてけんじゃ・・・」で有名な「永訣の朝」は知っていたが、妹の人となりは知らなかった。本作品のトシが実在の人物と似ているかどうかは別にして、妹の存在が賢治に力を与えたことは確かだ。ちなみに田中裕子が主演した映画「おらおらでひとりいぐも」のタイトルは、同じ詩の一節「Ora Orade Shitori Egumo」と同じだ。

 本作品は家族愛の作品ではあるが、彷徨い続ける賢治のお蔭で一筋縄ではいかないダイナミックな家族関係になっている。家族のみんなに共通しているのは、互いを大切にしていることである。詩でも童話でも、賢治の作品にそこはかとない人間愛が感じられるのは、家族からこんなに愛されていたからなのだと、深く納得したのであった。

映画「せかいのおきく」

2023年05月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「せかいのおきく」を観た。
映画『せかいのおきく』公式サイト

映画『せかいのおきく』公式サイト

映画『せかいのおきく』公式サイト

映画『せかいのおきく』公式サイト

 素晴らしい。阪本順治監督は2020年の「一度も撃ってません」では、お人好しの登場人物たちの群像劇を上手に演出していて、本作品でも愛すべき市井の人々の喜怒哀楽を余すことなく表現している。人々が漏らす本音から、この世を住みにくくしている為政者の理不尽が浮かび上がる。しかし彼らの底知れぬ楽観主義には、不条理を笑い飛ばしてしまうエネルギーがある。そこが素晴らしい。

 本作品のハイライトは、予告編でも紹介されている親子共演の場面だ。佐藤浩市演じる松村源兵衛が、出入りの汚穢屋(おわいや)である中次(ちゅうじ)に「惚れた女ができたら言ってやんな、俺は世界で一番お前が好きだってな」と語る。その後の展開を考えると、とても重要なシーンであることがわかり、そんなときでも冗談が言える源兵衛の器量の大きさもわかる。短いシーンだが、本作品の世界観が凝縮されていると思う。

 黒木華は見事だった。喉を切られて声が出なくなっても、長屋の人たちに助けられながら、それまでと同じように生きていくおきくの芯の強さが存分に伝わってきた。矢亮(やすけ)を演じた池松壮亮は、相変わらず上手い。口に入ったものが糞となって肥料となって野菜となって、また人の口に入る。汚穢屋ならではのものの見方は、この世界の本質を突いている。

「仕掛人藤枝梅安2」に続いて佐藤浩市と共演した石橋蓮司は今回は大工の孫七の役。大工と言っても家を作るのではなく指物師で、得意なのは棺だ。人が死んで土に帰るのはいいことだと彼は語る。こちらも棺職人ならではの人生観の持ち主で、その言葉はやはり真実を突いている。
 橋の上から船の上にいる中次と交わす会話は、今生の別れ(こんじょうのわかれ)のシーンだ。笑顔で言った「達者でな」という言葉には、孫七の万感の思いが込められている。歳を取って自分はそう長くないと分かっている。中次がおきくさんとうまくいくといいなという願いもあっただろうが、生々流転、諸行無常の世の中だ。何が起きるかわからない。だからひと言「達者でな」とだけ言ったのだ。天晴れなシーンだった。

映画「セールス・ガールの考現学」

2023年05月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「セールス・ガールの考現学」を観た。
『セールス・ガールの考現学』 4.28(金)ロードショー

『セールス・ガールの考現学』 4.28(金)ロードショー

モンゴルのアダルトグッズ・ショップでアルバイトを始めた大学生が、自分らしい生き方をさがすグローイング・アップ・ストーリー『セールス・ガールの考現学』4.28(金)ロ...

『セールス・ガールの考現学』公式サイト

 両親に言われた通り、社会の通念通りになんとなく生きてきた女の子が、大人のオモチャの店番をしながらオーナーのマダムと触れ合うことで少しだけ成長する話で、セックスショップという舞台を除けば、ありふれた物語である。
 映画としては少し退屈だ。ストーリーはまったりしていて、同じシーンを延々と映すような意味不明の長回しがある。8ビートだか16ビートだかの耳障りな音楽も苦痛だ。

 マダムが語る人生論は底が浅くて何も響かない。ドストエフスキーがサディストだとマダムは言うが、ドストエフスキーの小説を読めば、彼がマゾヒストであることはすぐに分かる。
 フェラチオをしたことがない女は男を失うというのも極論だ。では超テクニシャンの男は女を失わないのか。答えは、繋ぎ留める場合もあるし、失う場合もある。セックスは人生に重要な位置を占めるが、しなくても死にはしない。人間はパンのみにて生きるに非ずというが、セックスで生きている訳でもない。

 見どころがまったくないこともない。それはセックスショップで働き始めてから、野暮ったかった主人公サロールの見た目が垢抜けていくところだ。見た目が変われば中身も変わる。鏡を見ながら、自分は何がしたいのか。世の中の人々は何をしたいのか。それまでに漠然と思っていたことが漸く形や言葉になっていく。世界観の創出のはじまりだ。
 それにしても長く感じた。成長するのに時間がかかるのであれば年月の経過を早くすればよかった気がする。

映画「私、オルガ・ヘプナロヴァー」

2023年05月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「私、オルガ・ヘプナロヴァー」を観た。

 ワクワクもハラハラもドキドキもなく、重苦しいシーンがモノクロで映される。楽しいシーンが皆無で、意味不明なシーンや辛いシーンの連続なのに、何故か見入ってしまう不思議な作品だ。それはかつて誰もが味わってきた青春の苦痛がさらけ出されているからかもしれない。

 自意識の目覚めを経過して、自分が世界の中心でないことに気づくと、自己肯定感が薄れ、自己憐憫と自己否定の日々が続く。青春は苦しい。食欲や性欲の充足の時間が束の間の幸福の時間である。人生は幸福な時間と不幸な時間と、何でもない時間の不連続な組合せである。不幸な時間も、慣れてしまえば何でもない時間になる。逆も同じだ。酒池肉林の日々も慣れてしまえば何でもない時間になるし、圧政下の日々もやがて何でもない日々になるかもしれない。幸福のハードルは時と場合と人によって、高くも低くもなる。

 人間は存在するだけで一定の価値を認めなければならないが、人生には必ずしも価値があるかどうか分からない。価値観の相対化である。自分自身についても相対化できるかどうかで、青春の苦痛から脱却できるかどうかが決まってくる。
 自分の人生を相対化できないと、世の中が自分を貶めているのではないかと一方的な被害妄想を描くことになる。そうして他人の存在を否定することになる。暴力や殺人に至る精神性だ。オルガの言動は、そんな自分の精神性までも社会のせいにしているところがある。やたらにタバコを吸うのも、そういう時代だったというだけでなく、自分の殻に閉じこもろうとする彼女の未熟な精神性の表れだ。

 自分の人生だけでなく、社会全体、人類全体を相対化して心を自由にすることが、人生を楽にするのだが、オルガはそこに気づかないままだった。しかしオルガの言う通り、予備軍はいまでも世の中にたくさん存在していると思う。銃乱射事件や無差別殺人事件が、自由で民主的な国であるはずのアメリカで最も多く起きていることは、オルガの示唆が意味するところのある種の正しさの証左なのかもしれない。

映画「不思議の国の数学者」

2023年05月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「不思議の国の数学者」を観た。
映画『不思議の国の数学者』公式サイト|4月28日公開

映画『不思議の国の数学者』公式サイト|4月28日公開

映画『不思議の国の数学者』公式サイト|4月28日公開|脱北した天才数学者と男子学生の交流がもたらす、心温まる感動作

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 とても感動的な作品だった。韓国らしくヒエラルキーの上位者による暴力や威圧的な言動のシーンはあるが、総体的には自由な精神が息づいている。

 高校生の時にとても数学が得意なクラスメートがいて、E=mc2(2乗)の公式を説明してくれたり、無限に真っ直ぐ飛ぶロケットは、無限の未来には発射地点に戻ってくる理由などを説明してくれたが、あまりよく理解できなかった。というのも彼の説明の殆どが数式で、数学が得意ではない当方には、数式でそうなることは分かっても、ロケットが元の場所に戻るイメージが出来なかったのである。とはいえ、放課後の教室の黒板にびっしりと埋め尽くされた数式は、全体としてとても美しかった思い出がある。

 音楽と数学には共通点があると思う。音はエレメントに分解され、曲は微分されて楽譜となる。逆に作曲家の頭の中で響いている音は積分されて、その体積が音楽となる。完成されたクラシック曲は球体のイメージで、かつてピタゴラスが「地球は数学的に完璧な形、すなわち球体である」と看破したのに似ている。
 ちなみに地球が球体で、太陽の光が平行であることを前提として、地球の大きさを計算したのは2300年以上前のヘレニズムの数学者エラトステネスだ。夏至の日の正午に太陽が底に映るアスワンの井戸からアレキサンドリアまでの距離と、アレキサンドリアの正午の太陽の角度を測って、地球の半径と円周を計算したそうだ。

 人民軍こと、天才数学者の警備員ハクソンは「自分で考えることが数学だ」と言う。将棋の米長邦雄は、どれだけ自分ひとりで考えたかが、将棋指しにとって最も重要なことだと言っていた。そういえば将棋も数学だ。だから将棋の勝敗でコンピュータが人間を凌駕したのは当然のことである。

 バッハの無伴奏組曲は、チェロの独奏曲として大変に有名で、多くの人が聞いたことがあるお馴染みの曲だ。有名なクラシック曲を使うのは映画ではよくある手法だが、本作品には、有名な数字とピアノ演奏をマッチングさせた素晴らしいシーンがある。

 ハクソンが解いているナンバープレイスは、数学者らしい時間潰しである。当方もスマホにナンプレのアプリを入れていて、暇があると頭の体操をしている。最初はとても時間がかかるが、慣れてくると法則のようなものに気づいて、格段に解くのが速くなる。もっと上達すると、意識ではなく無意識の領域を使って、考えなくても数字が浮かび上がってくるようになるのではないかと思うのだが、当方はまだその域に達していない。
 脳科学者によると、無意識は意識の数万倍の容量を持っているらしい。数学が得意な人は、無意識の領域を上手に使っているに違いない。人間の日常生活の選択の殆どを無意識が司っていることを考えれば、数学こそが生活を向上させるという言い方もできる。数学が上達したハン・ジウが、世界が数学に見えるようになったこととも関係がある。数学は音楽と同じように、人生を豊かにしてくれるのだろう。