太陽族は死ぬまで太陽族なのである。戦後のタブーに次々と挑戦してきた石原慎太郎は、日本維新の会の共同代表として、自主憲法の制定にこだわり、結いの党との政策合意案に「自主憲法制定」を明記することを盛り込んだ。どこの政党に属していようとも、保守にとっての踏み絵は、憲法をめぐってである。これには同じ共同代表の橋下徹大阪市長も賛同した。反対したのは、民主党から移ってきた松野頼久幹事長代行であった。松野は自分の選挙のことしか頭にないのである。今こそ日本の政治の論点を整理しなくてはならない。そこでもっとも重要なのは憲法である。中共は戦争一歩手前のことをしてきているのに、9条のこだわる勢力は現実を直視する勇気がない。日本は国家として身構えなくてはならないのである。石原が平成11年に世に問うた『国家なる幻影』で書いたことは、今持って切実な問題なのである。「最近の日本の政界における原理には、その基底に国家などというものがもはやほとんどありはしない。彼らが籍を占めるのは日本国の国会であろうと、彼等を抱えている日本という国は、実は往々アメリカであり、そうであることにはほとんどの者が疑義を抱かずにきているのだ。そしてそれぞれの党派の掲げるものは、依り所もない空虚なイデオロギーでしかありはしなかった。彼等が唱える国家なるものはどこまで掘って探していっても、それぞれ異なるそれぞれの空疎な論のために都合のいい実体のうかがえぬものでしかありはしなかった」。戦後であっても日本という国家は存在したにもかかわらず、あくまでもアメリカの従属から抜け出せなかった。幻影としてではなく、もう一度取り戻す戦いの先頭に石原は立とうとしているのである。
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民主党の玄葉光一郎前外相が代表選の前倒しを主張している。そんなことは当然であり、集団的自衛行使容認に反対する左派をすぐにでも切り捨てて、安倍政権とは経済政策で競い合えばいいのである。民主党政権が墓穴を掘ったのは、沖縄の普天間基地の移設問題であった。そこで鳩山由紀夫元首相のようなルーピーが出てきたから、左派を勢いづかせたのである。もともとは選挙事情で自民党にいられなくなったから、民主党に逃げ場を求めただけだ。鳩山あたりが安全保障政策を自民党との争点にしようとしたことで、地獄を見たのである。民主党にもまともな国会議員が少しは入る。玄葉や前原誠司元民主代表らは己の信念を貫くべきだ。一時期であっても、国民が民主党を支持したのは、外交や安全保障に賛同したからではない。小泉構造改革に反発したからである。しかし、官僚に丸め込まれた民主党政権は、経済政策では小泉を踏襲した。それが致命傷となったのである。特定アジアに与する国会議員は自民党にもいる。民主党の保守派は前倒しをさせて党首選を勝つか、さもなければ前原グループを中心にして離党し、自民党との連立を目指すべきだ。とくに今は国を挙げて危機に対処しなくてはならないときである。救国政権の樹立が待望されている。そこでのキーワードは、集団的自衛権の行使を容認するかどうかであり、憲法の改正である。古い社会党のような主張をして誰が付いていくだろう。泥船の民主党は沈没寸前である。何人かはお国のために働けるのではないか。国を思う民主党の国会議員は決断すべきなのである。
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やっぱり中共はやらかした。いくらアメリカとの同盟関係を強化しても、日本は最悪の事態を想定しておかなくてはならない。読売新聞によると、昨日午前11時頃と正午頃の二回にわたり、中共の戦闘機が自衛隊機二機に異常接近した。一回目は海自の画像情報収集機「OP3C」に対し、中国軍の戦闘機「SU27」2機が後方から接近し、このうちの1機が海自機の約50メートル後ろを横切るように飛行した。二回目は空自の情報収集機「YS11EB」にも同型機2機が接近。このうちの1機は約30メートルまで近づいた。これは明らかに挑発であり、断じて許してはならない。約30メートルというのは、航空機にとっては衝突しても不思議ではない距離だ。そこまでやるのは、敵愾心をむき出しにしているからだろう。最前線で護りについている自衛隊員に、国民はもっと敬意を表すべきだ。もしその防衛線が崩されれば、日本は帝国主義国家中共の餌食になってしまうからだ。中共は国内を統治するのがおぼつかなくなっている。こんなときである侵略をしてくるのは。そこまでされても、中共を平和国家だと思っている人がまだいるのだろうか。憲法9条があれば、それだけで平和が維持できるというのは、とんでもない幻想である。私たち日本人は、戦争を欲しているわけではない。あくまでも自衛権の範囲内で反撃しようとしているだけだ。自衛隊の手足を縛って、それをできないようにするのは、まさしく利敵行為にほかならない。安全保障の面では、安倍政権は賢明な選択をしてきた。しかし、それでも平和が破られる可能性があるのだ。国家として身構えることで、何とかそれを阻止しなくてはならない。そのためにも、まずは国防の充実なのである。
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ネットで主流であった保守がこのところ切り崩されている。どこに軸足を置くかで混乱をしているからだろう。世界中を見渡せば、グローバリズムに真っ向から反対しているのは、それぞれの国の保守政党だ。グローバリズムにサヨクが抵抗しなかったわけではないが、そこの旗頭となっていたインテリが、次々と膝を屈したのである。日本の場合に目を向ければ、サヨクが願っていることは、日本的な国柄が破壊することである。そのためには新自由主義者と手をつないでもいいのである。今でも思い出すのは、経済学者の竹中平蔵とCMの佐藤雅彦が一緒になって、経済の本を出したことだ。竹中と佐藤は無知蒙昧な土民大衆に向かって、改革や規制緩和の必要性を説いた。アメリカの経済学にかぶれた竹中は「日本は後れている」を連発したのである。それはどこかで聞いた言葉ではないか。日本共産党系の講座派のマルクス主義者は、まったく同じ主張であった。「日本で民主主義が実現していない」とのイデオロギーを頭から信じていた。竹中はそれと同じことを私たちに言っているのだ。日本人は自立しなくてはならない。それができないのは、日本が真に民主化されていないからだ。サヨクも新自由主義者も、根本においては大差がないのである。孤塁を守るのは保守だけである。保守勢力を結集して、自民党以外の新しい政党をつくる準備が進められている。いくつものハードルを越えなくてならないが、必ず実現させなくてはならない。自民党だけでは心もとない。新自由主義に対抗できるのは、もはや保守しかいないのであり、世界的に見てそうなのである。
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福島第一の原発事故が過酷なものであったったことは、今では常識になっている。最前線で指揮を執った吉田昌郎元所長の「聴書結果書」を朝日新聞がすっぱ抜いた。そして、安倍政権の批判の材料にしている。そこで強調しているのが、吉田元所長の命令に従わず、約9割の職員が福島第二原発に逃げ出したことである。もはやその段階で東京電力は機能しておらず、今度再稼働をすればその二の舞になる。そう朝日新聞は言いたいのだろう。しかし、それは論点のすり替えだ。約9割は逃げたとしても、残り1割はとどまったのである。明らかにあのときは死が迫っていた。踏みとどまるかどうかは、結果的に個人の判断に任されたのである。残った者たちが必死に奮闘したおかげで、現在の日本があるのを忘れてはならない。吉田元所長は武士の情けを示したかったのだ。逃げ出した者たちの気持ちを誰よりも知っていたからだ。民主党政権の時代から朝日新聞は、その「聴書結果書」の存在を知っていたはずだ。吉田元所長自身もインタビューに答えたなかで、最後までとどまった職員へのねぎらいの言葉として、わざわざ『法華経』の一節まで持ち出している。国がそれを公にしないのは「安全神話を維持したいからだ」と朝日新聞は決めつけている。吉田元所長の思いはそうではない。とどまったか逃げたかで、同僚を色分けしたくなかったのである。吉田元所長もこの世の人ではない。死人に口なしなのである。命すらも投げ出そうとした人たちにこそ感謝すべきだと思う。吉田元所長の真意を捻じ曲げる朝日新聞は、単なる嫌がらせのレベルなのである。
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野にありしも者が大きな口をたたくべきではないが、今こそ隊列を組み直すべきである。民主党政権下にあっては、行動する保守も勢いがあった。しかし、自民党が政権に復帰すると、その声がかき消されてまった。時の権力者を笑い物にすることに、ためらいが出てきたからだ。安倍政権を批判しようものなら、サヨクと同列にみられる風潮が蔓延している。もはや政治の世界に出て行くしか選択肢はないのである。日本派の政党として、国民に信を問えばいいのである。行動する保守には役者もそろっている。政治運動の形態が変化するのは当然の成り行きである。日本の国民の約10%はより日本派になってきている。若い人にその傾向が顕著である。自民党が一時的に、部分的に受け皿にはなり得ても、それはあくまでも限定的である。田母神新党が結成され、そこに多くの行動する保守が合流することが望ましい。政治は特定の官僚や世襲政治家が行うべきではない。一から出発した人たちが、民主的な手続きや言論戦を通じて、自分たちの支持者を増やしていけばいいのである。排外主義と批判する向きもあるが、彼らがネットに登場したときには、無言で支持した多くの日本国民がいたことを忘れてはならない。それまでも維新政党新風の活動はあったが、その時点ではまだ時期尚早であった。今は状況が大きく変わってきている。政治の世界のなかで、一定の地位を占めるべきなのである。いつの世であっても攘夷は必要なのである。独立国家としての根本が見失われている日本においては、とりわけそうなのである。行動する保守は、政党としての可能性を探るべきだろう。
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日本のマスコミの色分けがはっきりしてきた。読売新聞と産経はより現実的な立場を主張し、朝日や毎日、さらには東京などは、相も変わらずお花畑である。どこの新聞を読んでいるかで、まったく違った色眼鏡をかけることになる。しかし、それでいいのだと思う。様々な意見があって当然なのであり、全ての新聞が一緒の論調の方が異常なのである。一番わけがわからないのが、日経新聞である。日本の財界が金儲け優先であるので、そこに追随しようとするあまり、特定アジアの国に弱腰になっている。ネットが普及したおかげで、ほとんどの新聞の社説が読むことができる。比較できるのである。一方的な情報の垂れ流しで商売がやっていける時代は、とっくの昔に終わったのだ。日本の新聞の成り立ちは、そもそもは反政府運動のオピニオンとしてであった。福島県の場合は福島民報と福島民友の二紙があるが、福島民報は自由党の機関紙として創刊された。福島民友は自由党と袂を分かった河野広中が中心になったのである。大本営発表になるのは問題だとしても、日本の進路を誤らせることがあってはならない。サヨクにもっとも近く憲法擁護の急先鋒である朝日は、戦争中は鬼畜米英を一番煽った。コミンテルンの関与が疑われても仕方がなかった。日本の国防が対ソ連に向けられるのではなく、南方に目を向けることで対米英との戦争に持っていこうとした節がある。新聞を毎日買ってきて読むのは大変である。ネットでさらっと確認するのが手っとり早い。ヘーゲルは「新聞は日々の聖書だ」と書いていたように思う。時代の流れの証言者の役割りがあるからだネットの普及によって多くの人が情報を吟味するようになってきた。新聞が権威ぶって胡坐をかいていては、もはや通用しないのである。
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