三島:源兵衛川せせらぎの道で・・・台風による雨の為だろうか、せせらぎが珍しく激しい流れをみせている。
豪雨で大荒れの列島にはウンザリ気味だが、身辺の水に、穏やかでも荒れていても心が潤されるのを思うと、大自然の奥深い営みに畏怖を感じて来る。
夏休み中で、乗降客の少なくなった駅の生垣に、ひっそりと狂い咲く「サツキ一輪」を見つけた・・・う~ん、何と言ったらいいか・・・寂しい風景だが惹かれるものもあるなぁ。
「立ち止まらせる言葉」・・・8月1日 毎日新聞「水説」欄 中村秀明編集員著
・・・テレビやラジオはしゃべりすぎていないだろうか…街に出てもそうだ。電車の車内放送はますますおしゃべりになった。だが、肝心のところはよく聞き取れない・・・
「言葉が軽くなった」と言われるのは、こうしたしゃべりすぎが世の中に広がったせいだろう。言葉があふれ、何かを力んで語っているように感じるが、誰にも何も届いていない。
・・・自らを「文筆家」と名乗った哲学者、池田晶子さんは言った。
「しゃべり散らし、書き散らして、たちまち忘れてしまうよね。大事で無いから忘れてしまうんだ。そういう言葉は、言葉のようで、実は本当の言葉ではないんだ。本当の言葉というのは、人間を、そこに立ち止まらせ、耳をすまさせ、考え込ませるものなんだ」・・・・この問いかけに出会い、ずっと考え込み、本当の言葉を探している。(以上新聞より抜粋転載)
私は、子供時代には、「全く、用の口もきかない子」というレッテルが張られていた。
無口な子どもというより、子供ながら世のしくみ(たとえば本音と建て前という2面性とか)の理不尽さに反抗して、口をきかない子供になっていたように思う。
その私が、何時の間にかしゃべりまくっている自分に気が付いて、「何だよこれって!」と、我ながら愕然としたこともあった、多くは、一生懸命、自分の正当性を主張しているのだ。
その努力も、今は、無駄だったなと思う(言葉に重みが無かったのか、付いたレッテルは簡単に剥がすのは難しいもののようだ)。
それはさておき、ブログを書いたり、友人らと長い長いおしゃべりなどしている私自身は、「考え込ませる」ようにはならぬ迄も、果たして「立ち止まらせる」ような会話をしたことがあるのか・・・4週間の夏休みで中に、じっくり新聞に目を通していて、真摯にショックを受けた言葉である。