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これから起こる出来事の全てが Last Chance だと思って生活している後期高齢者のブログ

黒歴史

2020-07-28 12:00:00 | ノンジャンル
 大学に進学する際、一番の問題点は学力です。 一応進学校の理系クラスに所属していましたが、仮に当時流行の裏口入学でも ( 例えば 1 点 1 万円で買う ) とても無理な成績でした。 実は、入学試験では 1 位で入学し、卒業時は私の下に就職組の女性が 3 人だけ。 つまり男子で最下位と言う、開校以来の歴史上の記録保持者なんです。

 ま~ 3 年生の 3 学期は登校するとすぐ友人と連れ立ってボーリング場に行きます ( 第一次ブームで 矢島純一、西城正明、須田開代子、中山律子、並木恵美子らが活躍していた時代です )。 高校生ながらボーリング場の従業員と賭けボーリングをしていました。 アベレージは 180 ハイスコアは 250 位です。 或る日、投げ終わって、振り返ると親父が仁王立ちしていました。 その後の修羅場はご想像通りです。

 そんなこんなで、入学試験が作文面接だけと言う大学に行く事になりました。
 さて、作文の内容は忘れてしまいましたが、面接での失敗は鮮明に覚えています。

 「 今まで見た映画で一番感動した映画は何ですか ? 」 「 ベンハーです。 親父が泣いているのを初めて見ました 」 ・・・ 「 これからあなたはどんな映画を作りたいと思ってますか ? 」 「 ディズニーみたいな ・・・ 」 「 感動した映画と随分違いますね~ 」 と突っ込まれた。

 落ちたと思いました。 でもこの大学は学費をちゃんと払えば誰でも入学できる様です ( 過去の話 ) ・・・(笑)。 当時、その学校には、相良直美美樹克彦松崎しげるさんらが在学していました。 殆どの学生が半プロみたいで、それぞれが芸能界、放送界、映画界などでバイトをしており、既に業界人の雰囲気を持っていました。 2 歩も 3 歩も先を走っている様に見え、ZERO からのスタートは厳しいものになりました。

 世の中上手く行かないもので、折角入学できたのに 2 年生の時、全共闘による紛争が勃発 ! 。 私の学校はすぐにバリケードで封鎖され授業どころではなくなったのです。 地元出身者なら実家でのんびり待つ事も出来たでしょうが、上京組にとっては、アパート代は払わなきゃならないし ・・・ なんとも所在ない訳です。

 そこで、新聞求人で 「 万博要員求む 」を見て、めでたく主席中退を果たし社会人になります。 万国博覧会のパビリオン ( 日本館、サントリー館、日立館など 11 のパビリオン ) の映像・音響の製作に携わりながら、思ったんです。 私は映画を観るより作るのが好きだ。 演奏するよりスタジオワーク ( レコーディング作業 ) が好きだ ・・・ 9 時 ~ 5 時の仕事は自分に合わないと ・・・ 思い込むのは得意です (笑)。


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