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素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲ 高柄山から千足峠経由、四方津駅へ ▲

2025年04月11日 | 山梨百名山

御前山で5分の小休止をして9時 05分、次の高柄(たかつか)山へ向かう。                上野原を7時50分に出発し、厳しく 感じる所もありましたがアクセントになり、貸切の様なコースで静かな山歩きを楽しむことができました。

                         

尾根を西に進むと間もなく、栃穴御前山へ の分岐に出るが、高柄山へ向かうため分岐を南に下る。

御前山の登りの厳しさに ビックリしたが、下りも急降下でトラロープがあるものの崩れやすい砂岩の岩で、細かく崩れた岩が滑りやすく 足元に注意しながら慎重に下った。

下り切り9時 15分、エスケープルートとして鶴鉱泉経由で上野原駅に戻れる分岐を通過。

この先はメイプルポイントゴルフ場を避けるために付け替えられた登山道で、小さなアップダウンを 繰り返しながら右手に進む。

9時 33分、小さな沢を渡渉し尾根に向かう。

鹿除け柵の横を頑張って登る。

10時 10分、尾根を登り切り休憩舎のある新矢野根峠に到着。

小さなアップダウンを繰り返しながら、明るい尾根を進む。

陽当たりの良い尾根道にギンリョウソウの若芽が顔を出しておりビックリ、それにコスミレがお出迎えしてくれた。

見晴らしの良い尾根の途中からは、今歩いて来た北東方向の御前山や、その後ろには奥多摩や高尾山方面の山々が望めた。

11時 12分、目的にしていた高柄(たかつか)山山頂に到着。標高 733m。                    標高は低いけれど、山頂への登りは厳しく、とても長い時間に感じられた。

高柄山では 20分の休憩で昼食を済ませ、千足峠に向かう。

下山道は岩は少なく急ではあるがトラロープが設置されており、スリップに注意し落ち着いて下る。

11時 40分、千足峠通過。

千足峠からは稜線を外れ、桧の植林された北側斜面を下る。                             下る途中で凛と背筋を伸ばしたミミガタテンナンショウが迎えてくれた。

桧林の急斜面を蛇行しながら下るが、砂地で枯れ葉は滑りやすく 慎重に歩を進めた。

12時丁度、深く切れ込み V字型の断層を思わせる様な千足沢沿いを下る。

下り切り沢を渡渉し、林道へ向かう。

柿ノ木林道出合通過、12時 16分。

千足沢に沿った林道を下るが、深い渓谷で見事な無名の滝が沢山見られた。

桂川にかかる千足橋を渡り、JR 中央本線の四方津(しおつ)駅へ

千足沢の渓谷美が素晴らしく、ノンビリ歩いていたので千足橋を渡って間もなく、急に 雨が降り出し慌てて四方津駅まで走った。到着、13時 10分。

上りの 電車 13時 29分があり、ホームで小休止していたら何と晴れ間が出て来た。

 

 

 

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▲ 上野原から御前山へ ▲

2025年04月08日 | 低山ハイク

中央 本線の上野原駅から四方津(しおつ)駅へと、駅から駅への静かな山路歩きをして来ました。

上野原市は山梨県東部にある市で、古くは甲州街道が横切り、現在では JR中央本線、国道 20号線、中央自動車道が市の中央をまとまって通り、また桂川が東へと流れ、市を南北に分断しています。

桂川は富士五湖の一つ山中湖と忍野に源を発し、道志、秋山両山地の西及び北を回り、神奈川県平塚市で相模川に合流しています。                                          大月から下流は流路が地溝帯を通るため、深い谷と河岸段丘で特色づけられています。

桂川右岸の駐車場に7時 35分、到着。 15分で準備を済ませ出発。                       桂川は、川幅が湖と間違えるくらい広大でビックリ、昔はこちらの上野原までは物資輸送を船で 行っていたとのことです。

桂川橋に案内板があり、進路を確認する。

駒門地区より、目指す御前山を望む。

歩き始めはのんびりと農道歩き。

途中の駒門薬師堂を参拝。一つの石柱の三面に彫られた六地蔵様。

少しずつ高度を上げて来ると道路脇でも春が芽生えていました。

御前山登山口到着、8時 18分。

取り付きから急傾斜の登山道に覚悟を決め、ゆっくりと登る。

益々、険しさを増し木の根や岩が現れだした。

そんな時に癒しを与えてくれるのが、野に咲く花です。ミツバツツジに迎えられ、頑張る。

更に登ると大きな岩が出現、トラロープが用意されており慎重に登る。

急登を登り切ったようで、緩やかな尾根道となる。

樹間より、先程案内板を確認した所の桂川橋と左手に JR中央本線の上野原駅が見えた。                 それに河川に沿ってできた階段状の地形である河岸段丘も確認できた。

また北側の手前眼下には八ッ沢地区と赤い橋の中央自動車道が確認できる。

9時丁度、御前山山頂に到着。 

標高 484mの山ですが、意外と登りの厳しい山でビックリしました。 

 

 

 

 

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🐾 旧東海道:品川宿 🐾

2025年04月06日 | 日本の歴史

『東海道五十三次』と云われる江戸から京都三条大橋を結ぶ五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町であります。

慶長6年(1601)に東海道の日本橋を出発して、2里の宿場町として品川宿が置かれ、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と共に江戸四宿と称されていました。

品川宿は当初、目黒川を挟んで北品川宿南品川宿から成っていましたが、享保7年(1722)に歩行(かち)新宿を加え、北品川宿に本陣が南品川宿と歩行新宿に脇本陣が置かれました。

天保 14年(1843)には宿内総家数 1561軒、人口 6890人、平旅籠 19軒、飯売(めしうり)旅籠 92軒、水茶屋 64軒を数えたそうです。 

                                               東海道は五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の中でも最も往来が盛んな街道であった。

そんな日本橋から一番最初の『品川宿』の面影を探しに歩いて来ました。

京急北品川駅を 10時、出発。

まず八ッ山通りを進みますと、歩道脇には東海道五十三次の宿場名が彫られた石柱が並んでいます。

今日、品川宿を案内して下さる中島さん。                                  開発の進んだ東京では西の御殿山や八ッ山は高層ビルが建ち、東の海は埋め立てられ、当時を偲ぶには歌川広重の絵や古地図を見ながら思いを馳せ、歩きました。

東海道は海沿いの道、品川宿は海辺の町。                                     この品川宿の東海道は江戸開府より四百年来、道幅、道筋が変わることなく今日まで維持されており、歴史遺産として貴重であります。

東海道を中心に路地や横町、寺社が残るこのまちは、古き良き宿場町の雰囲気を今に伝えています。

八ッ山橋を渡り、旧街道へと進みます。                                      旧街道に入って直ぐの辺りが『歩行新宿(かちしんしく)(北品川一丁目)と呼ばれていた所だそうです。

北品川駅の左手の路地角に「問答河岸」跡の石碑が立っています。

東海寺の開山 沢庵和尚が三代将軍 徳川家光を案内した際に、家光は「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに」と問い、沢庵がすかさず「大軍を率いても将(小)軍というがごとし」と答えたといわれています。

 

問答河岸の直ぐ近くに土蔵相模があり、この一帯を歩行(かち)新宿と呼んでいたようです。              土蔵相模は飯売(めしうり)旅籠屋「相模屋」 の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名称とのことです。

万延元年(1860)大老:井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久2年(1862)英国公使を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州藩士の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所だそうです。                                       その後は「さがみホテル」となり、現在では近代的なビルが建ち、柵に囲われた中に説明板のみがあり当時の面影はありません。

 

品川浦と船だまりに到着。 10:30                                        品川は江戸内湾に面し、室町時代から港として開けた所だったようです。                 江戸時代には大消費地の江戸に近いことから漁業や海苔作りがより盛んになり、将軍家にも献上していました。

また、品川の海は江戸市中から行楽の場でもあり、四季折々に鱚やハゼ釣り、船遊び、潮干狩りの人々で賑わいました。                                          品川沖に浮かぶ白帆の姿をはじめ、潮干狩りや海苔採り風景など品川を描いた名所絵には必ずといっていいほど、海の光景が描かれています。

埋め立てが進んだ現在、海はすっかり遠くなってしまいましたが、かつて海は品川の人々の生活に深く結びついていたとのことです。

 

品川神社 11:25                                               北品川宿の総鎮守である品川神社は歴史が古く、平安時代末期の文治3年(1187)源頼朝が安房国の洲崎(すのさき)明神の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)をお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのが始まりだそうです。

元応元年(1319)には二階堂道蘊(どううん)が「宇賀之売命(うかのめのみこと)」を、更に室町時代中期の文明 10年(1478)太田道灌が「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」をそれぞれお祀りしたとのことです。

境内入口の階段前には珍しい「双龍鳥居」があり、更に都内最大といわれる富士塚「品川富士」があります。

こちらの品川神社には慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の際に参拝し、戦勝を祈願し勝利をおさめ、そのお礼として仮面(天下一嘗(ひとなめ)の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されたとのことです。

また、神社裏の品川区指定史跡である『板垣退助墓』を参拝。

板垣退助は、天保8年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。                       幕末に藩主 山内豊信(とよしげ)の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868)に参加して功績をあげた。                                                       明治7年(1874)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治 14年(1881)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。                                翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ言葉は、当時の若者達を感激させ湧かせた。

 

東海寺 12:10                                                     臨済宗大徳寺派の寺院、山号は「万松山(ばんしょうざん)」                             寛永 15年(1638)に三代将軍 家光が『紫衣事件』で流罪となり、後に赦された沢庵和尚のために創建されたとのことです。

 

沢庵は「たくあん漬け」の考案者としても知られることから、東海寺はたくあん発祥の地といわれています。 

かつては広大な寺域を有し、歴代将軍が鷹狩りの折など頻繁に訪れたといいます。              梵鐘は元禄5年(1692)の鋳造で、五代将軍 徳川綱吉の母、桂昌院が三代 家光の冥福を祈るために寄進したものだそうです。 

 

品川宿本陣跡 12:40                                                本陣とは、武将が戦場にいる時の本拠地のことですが、江戸時代になり寛永 12年(1635)に参勤交代が命じられると、大名が江戸と地元を行き来する際に宿泊する屋敷のことを「本陣」と呼ぶようになりました。

品川宿の本陣は、初め北品川宿と南品川宿に一軒ずつありましたが、南品川宿は早くに無くなり、江戸時代中期には北品川宿のみとなりました。                                 品川三宿(歩行新宿・北品川宿・南品川宿)のほぼ中央に位置し、参勤交代の諸大名や公家・門跡などの宿泊・休憩所となっていました。

 

寄木神社 12:50                                                   創建年代は不明ですが、日本武尊の妃 弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を沈めて嵐を鎮めた際、船の残骸の木材が流れ着いたのを祀ったのが起源とされています。 

その後、慶長年間(1598~1614)に創建され、猟師町の鎮守となり、荏原神社の末社となりました。                                                          本殿の扉には名工 伊豆町八による漆喰鏝(こて)絵「鏝絵天鈿女命(あめのうずめのみこと)功績図」が描かれています。

作品は、漆喰を鏝で盛り上げて人物などの形に成形し、彩色して仕上げる鏝絵の技法によります。

 

荏原神社 13:05                                                和銅2年(709)奈良丹生(にう)川上神社より龍神、長元2年(1029)に神明宮、宝治元年(1247)に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し「品川の龍神さま」として源氏、上杉、徳川等、多くの武家の信仰を受けたとのことです。

 

目黒川を渡り南品川宿に入ります。                                            当時の品川宿は目黒川を挟んで発展し、街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねて石垣が組まれていました。

石材は千葉鋸山産の凝灰岩(房州石)であり、幕末から明治時代の加工と考えられているようです。                                                        品川宿の護岸 は、もともと伊豆半島産の安山岩(伊豆石)で構築されていましたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになりました。                                        房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に伊豆石に取って代わったようです。

海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。

 

 

 

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🌷 万葉自然公園「カタクリの里」🌷

2025年04月02日 | 春景色

万葉自然公園かたくりの里は三毳(みかも)山の北側斜面に約 1.5ヘクタールの規模で群生しています。

落葉樹林の林下に群生し、早春の雪解けと共に下向きに開花し、6枚の花弁は陽射しと共に反り返り、6本の雄しべは花外に突き出ています。

春を待ちかね、恥ずかし気に下を向きながら一斉にピンクの美しい花を咲かせました。     「見てください」と言っているように聞こえます。

可憐な花で、春の妖精 に喩えられるのも良く分かります。 

それに、かたくりに負けじと咲き誇る純白の花は 『アズマイチゲ』

こちらの花も群生していましたが、とても見事です。

ごゆっくり、春の到来を満喫して下さい。

寒さから解き放され、春の芽吹きは気持ち良いですね。 さあ歩きに出掛けましょう

 

 

 

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▲ 中岳から青龍ヶ岳を縦走し、野草園経由で戻る ▲

2025年03月31日 | 私の見た山・登った山

みかも山公園は栃木県の南西部に位置し、佐野市と栃木市の境の平地に聳える『三毳山(みかもやま)』を含めた都市公園であります。                                            見出しの写真は、手前下に見えるのが東北自動車道の佐野藤岡インターで、三毳山山塊の南側になります。

 

みかも山は、いにしえの頃から名山として親しまれ、頂上からは「関東平野」を一望することができます。                                                    『万葉集東歌』に「しもつけの みかものやまの こならのす まぐはしころは たがけかもた」と詠まれるなど、文学的な一面も持ち合わせています。                                           

題意・・・下野のみかも山に生えている 小楢の木のように、かわいい娘はいったい 誰の妻になるのだろう 

 

この山を通ったと云われている東山道(とうせんどう)は、都があった京都から東北地方へ赴く三街道の一つでありました。                                                『みかもの関』は、みかも山頂の北側、峠部分にあり、佐野市西浦と岩舟町をつなぐ下津原の犬石という地名の所にあったとも伝えられています。

                                 

中岳で 10分の休憩を取り、10時 20分青龍ヶ岳を目指し、山頂広場のある鞍部へ下る。

少し下ったらフラワートレインの車道に出て、その先には立派な休憩舎があった。

三毳山は平地にポッコリと盛り上がった山塊であり、岩で造られた山塊であることが分かります。   最初の犬石が現れる。                                           この犬石は、北側から見ると犬が伏した形に見えるそうで、この辺りの地名も犬石というそうです。

尾根歩きでは、時期的に少し早いのにヤマツツジが見られた。                           新緑にはまだ早い木々の中で、赤がとても良く目立った。

また、曇り空であったので見難いですが、大木の山桜がほぼ満開状態でした。

二つ目の大きな犬石を通過。                                        三毳の関の役人(威奴)が、この石の上で往来する人の見張りをしていたので、威奴(いぬ)石といっていたものが、犬石となったと云われているようです。

中岳と青龍ヶ岳間の吊り尾根は、大きな岩の間を抜ける様に進みます。                     アッ 青龍ヶ岳が見えた。   あのピークまで結構の距離があるように見える。

10時半、花籠岩通過。                                               左は花籠岩から見た西側の東北自動車道側の景色、右は上部が平らな花籠岩。

東口駐車場や野草の園方面へ下る分岐を通過、10時 49分。

上部に建物らしきものが見え頑張った。三毳山の青龍ヶ岳に到着、10時 58分。               山頂は狭く小休止をしてから、この更に北方向に万葉自然公園 「かたくりの里」 が有るので、折角来たので足を延ばす。

青龍ヶ岳から 20分程で 「かたくりの里」 上部に到着。

朝方見学して来た「かたくりの園」よりも、こちらの方が花が多く素晴らしかった。      20分程、沢山のカタクリの花を愛でながら、ノンビリ過ごす。

沢山のカタクリに見送られながら 11時40分、青龍ヶ岳に戻る。                          戻る途中で行く時は気付かなかったが、久し振りにシュンランを発見した。

 

12時10分、青龍ヶ岳の山頂が見えて来た。

山頂に登山者が居なかったので お弁当 にした。                                    天気が回復し、雨の予報がカッパを着ないで済み助かった。

風もなく陽射しも出て暑い陽気となり、日陰でノンビリとお昼を済ませ、12時 25分下山開始。 尾根道を真っ直ぐに登って来たが、東口駐車場に近い 「野草の園」 を見ながら戻るので、尾根を外れ左折して行く。

13時、野草の園に下山。

園内で見つけたニオイタチツボスミレ(スミレ科)

和紙の原料になるミツマタ(ジンチョウゲ科)

アズマイチゲ(キンポウゲ科)

カントウタンポポ(キク科)

オオシマザクラ(バラ科)

最後はフラワートレインの車道を戻る。

13時 35分、無事 南口駐車場に戻りました。

色々な花に巡り合えて、春の到来を感じながら歩くことができました。

 

 

 

 

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▲ 三毳山の中岳へ ▲

2025年03月29日 | 私の見た山・登った山

万葉集にも 詠まれたという三毳山(みかもやま)を歩いて来ました。 

 

          

関東平野を 一望できるという、コナラやクヌギといった広葉樹林に囲まれた自然豊かな栃木県最大の都市公園になっています。

三毳山は沢山の山野草が自生し、花の百名山にも選定されています。          

春は桜やヤマツツジに彩られ、夏には清々しい深緑、秋には鮮やかな紅葉と、四季折々に表情を変化させ多くの人を惹きつけています。

公園の西側には東北自動車道が走り、インターから5分ほどの南口の駐車場に入りました。            駐車場は広大で3ヶ所あります。                                     東口:239台、南口:215台、西口:385台 

県営の都市公園となっており、駐車場の利用は3ヶ所とも8時半からで、9時に到着した時はとても空いていました。

直ぐに歩く準備を済ませ 9時 10分、出発。                        公園内は広いので皆さんが気軽に回れるよう、フラワートレインという乗り物が走っており、ハイキングコースとトレインの車道が入り乱れているのです。

キョロキョロと道路脇の山野草を見つけながらブラブラと進む。                       まず見つけたのが、左のジュウニヒトエ(シソ科)と右のニリンソウ(キンポウゲ科)。

9時 25分、車道を離れてハイキングコースに入り、カタクリの園を目指す。

ハイキングコースを登る途中の沢で見つけた、ネコノメソウ(ユキノシタ科)。

ハイキングコースの階段を登り始めて9時 40分頃、周りにカタクリ(ユリ科)の群生が見えてきた。

落葉樹林の林下に群生し、早春に咲いて初夏には地下で休眠する。                      ピンクの花の美しさから春の妖精喩えられています。                            花は日が当たると開いて反り返り、夕方には閉じるそうです。

約 20分程ブラブラ、「春の妖精を」観賞したり、写真撮影をしたりと園の中で過ごしてから、三毳山の中岳を目指した。

中岳登頂 10時 10分。                                            標高は 210mと低いのですが、ここまでの登りは全て階段で、山頂直下から直登の長い階段が続き体力不足を痛感しました。

10分の休憩後、尾根伝いの北に聳える三毳山の青龍ヶ岳を目指す。

 

 

 

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🐾 旧東海道:大磯宿 🐾

2025年03月13日 | 日本の歴史

大磯宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定された慶長6年(1601)に平塚宿・小田原宿と共に開設された、江戸から8番目の宿場です。

ですが、江戸を発った旅人の多くは保土ヶ谷宿戸塚宿で一泊し、翌日は小田原宿に宿泊する場合が多く、遊行寺や大山・江ノ島詣でなどで栄えた藤沢宿のような観光拠点でもなかったので、あまり繫栄した宿場ではなかったようです。

宿場としてのご案内は少なく、大磯は明治時代に入り、日本最初の 海水浴場 の開設を契機に大磯駅が造られ、保養地・別荘地として発展し、政財界要人の別荘や邸宅が多く建てられ、歴代首相が8人も住んでいました。                            大磯に住んだ歴代首相には、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂などがいます。

また、島崎藤村など文化人も住んでおり、宿場以外の歴史もご紹介させて頂きます。

                            

江戸時代後期における大磯宿の宿場規模は、人口 3,056人、家数 676軒、本陣 3軒(小嶋・尾上・石井)、旅籠 66軒で、問屋場は北本町と南本町の2ヶ所にありました。         『東海道宿村大概帳より』

                        

地福寺                                                   山号は船着山円如院地福寺と称し、京都の東寺に繋がる真言宗の寺院です。

 

境内の一角には、晩年を大磯で過ごした島崎藤村のお墓があります。

この寺から見える光る海と境内の梅林は藤村が非常に気に入っていた場所で、生前 自らの墓所として希望していたそうです。                                  今では梅の名所として知られ、樹齢 100~200年の古木、約 20本に囲まれて藤村夫妻の墓碑が建てられています。

藤村の遺髪と遺爪(いそう)は故郷の馬籠にある島崎家の菩提寺「永昌寺」に分葬されているそうです。

 

小嶋(おじま)本陣跡                                                   本陣とは、宿場において参勤交代の大名、公家、公用の幕府役人などが休泊する施設で、豪壮な門構えや玄関、書院造りの上段の間などを備えていました。

 

延台寺                                                       山号 教山(ぐうきょうざん)延台寺とと称する日蓮宗の寺院です。                        寺伝によれば、曽我十郎祐成(すけなり)の恋人であった虎御前(虎女)が十郎亡き後、尼となり十郎供養のため高麗山(こまやま)北麓の虎池の傍らに小さな庵「法虎庵」を結んだのが始まりといわれ、永禄年間(1558~1570)に、この地に移されたとされています。

境内にある「虎御石(とらごいし)」は、虎女の父親 山下長者が子宝のお告げとして授かったもので、初めは小さな石でしたが虎女の成長と共に大きくなったと云われています。      後に十郎が工藤祐経の刺客に矢を射掛けられた時、この石の陰に隠れ、矢は石に刺さって難を逃れたと伝わります。

以来この石は「身代わり石」と呼ばれ『東海道名所記』に取り上げられています。

 

松本順謝恩碑                                       明治 18年(1885)軍医総監を退官した松本順は、「国民の健康増進と体力向上」のため照ヶ崎海岸に日本最初とされる海水浴場を開きました。                            海水浴場には西洋の様に病院があるべきとして、海水浴客のために建てられた旅館「祷龍館(とうりゅうかん)」に診療所を併設して自ら診察にあたったと云われています。           建設資金の不足は会員を募集して捻出し、会員には渋沢栄一・安田善次郎・榎本武揚・原善三郎ら東京や横浜の名士が名を連ねていたそうです。                             明治維新以降寂れる一方であった大磯は海水浴場開設によって息を吹き返し、国府津まで鉄道が開通し大磯に駅ができると、保養地として更には別荘地として発展していきました。

 

新島襄終焉の地                                              新島襄は明治 8年(1875)に同志社英学校(後の同志社大学)を設立した教育者であり宗教家です。                                                    大学設立準備のため東奔西走中の明治 22年(1889)11月、心臓病を 悪化させて大磯の百足屋(むかでや)旅館の別館「愛松園」で静養していましたが、翌年1月、46歳11ヵ月の生涯を閉じました。                                            石碑は百足屋旅館の玄関だった場所に建てられています。

 

鴫立庵                                                     鴫立庵は寛文4年(1664)小田原の外郎(ういろう)の子孫であった崇雪が、西行法師の有名な歌『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕ぐれ』に詠まれている沢らしい面影を残し、しかも景色の優れているこの場所に草庵を結んだのが始まりといわれています。   元禄 8年(1695)俳人 大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となり、今日まで続いています。

鴫立庵は京都の落柿舎・滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つであります。

令和元年(2019)8月より 23世の現庵主に本井 英(もといえい)さんが就かれています。

 

上方見附                                                   大磯宿の上方見附は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停付近にあった。 そこが宿場の出入口であり、標示の御料傍示杭が立っていた。                  この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目は無くなり、旅人に宿場の出入口を示す役目を果たすようになった。

見附とは本来城下に入る見張りの門のことでありますが、江戸時代の宿場の出入口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。                                    街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ 、高さは約 1.6mで、その上に竹矢来が組まれていました。                                               宿場の京都側にあるものを「上方見附」、江戸側にあるものを「江戸見附」と呼んでいました。

 

 

旧島崎藤村邸                                                   島崎藤村は近代日本文学を代表する一人で小説『破戒』・『夜明け前』、詩集『若菜集』などが有名です。                                             藤村と大磯の関わりは、昭和 16年1月 13日、神奈川県湯河原町に休養に訪れる途中、友人に誘われ大磯の左義長見物に立ち寄った時といわれています。                       大磯と この家をすっかり気に入り、ここでの生活を決意し、2月 25日に敷地面積 145坪に建つ 24坪の長屋を毎月家賃 27円で借り受け、翌年の8月には、当時のサラリーマンの約 30年分の給料に相当する1万円でこの邸宅を買い取り、終の棲家とされたとのことです。      『余にふさわしき閑居なり』

藤村邸は大正後期から昭和初期にかけて建築され、周辺には同じような貸別荘が数軒あり、一帯は「町屋園」と称されていました。

静子夫人宛ての書簡の中で藤村はこう表現しています。

小さいながらも素朴な冠木門を通れば、割竹垣に囲まれた小庭、そしてわずか三間(みま)の古びた平屋建ての民家が目に入ります。                                      昭和初期の一般家庭よりも天井の高さが一尺ほど低く茶室風に造られた四畳半の小座敷は、書斎として使われました。                                          『萬事閑居簡素不自由なし』 

この部屋からは簡素を信条とする藤村の気配りが最も感じられます。                      夫人は「大磯の住居は 50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で、最も気に入られたものだったろう」と述べられていたそうです。

しかし、昭和 18年(1943)8月 21日に小説『東方の門』執筆半ば脳溢血で倒れ、翌日午前0時 35分に 71歳の生涯を閉じました。                                    静子夫人に告げた 「涼しい風だね」 が最後の言葉となったそうです。

 

東海道松並木                                                小田原に向かって樹齢 400年ほどの松並木が続きます。

江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。                         松並木は、今から 400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主に保護され約 150年前頃からは厳しい管理のもとに、立ち枯れしたものは村々ごとに植え継がれ大切に育てられてきたものです。                                                 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産となっています。

 

 

#東海道五十三次  #島崎藤村

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🏞 駿府城公園 🏞

2025年03月04日 | 日本の歴史

今川義元 全盛の時代 天文 18年(1549)に、徳川家康は人質として 19歳までの 12年間 駿府で暮らし、また晩年も「大御所」として 65歳から亡くなる 75歳までの 10年間を駿府で過ごされました。

 

 

その駿府城公園で、城跡天守台の発掘調査公開中とのことで見学してきました。

駿府城の歴史                                                    現在の駿府城公園周辺には駿河国の戦国大名 今川氏の館があったと考えられています。     今川義元が当主の頃、松平竹千代(家康の幼名)は駿府で暮らしていました。         永禄3年(1560)義元が桶狭間の戦で織田信長に討たれると今川氏は衰退し、永禄 11年(1568)に武田信玄により駿府を追われ、翌年 今川氏は滅亡しました。                       その後、武田氏が滅んだ後、5か国を領有する大名となった家康は天正 13年(1585)に駿府城築城を開始、天正 14年(1586)に浜松から駿府に移ります。                                 発掘調査では、金箔瓦と天守台が見つかっており、金箔瓦が葺かれた天守や石垣のある城であったと考えられています。                                             天正 18年(1590)家康は江戸に移り、秀吉家臣の中村一氏(かずうじ)が入城しました。    慶長 12年(1607)大御所となった家康は江戸から駿府に移り、全国の大名を動員し天下普請による大改修を開始しました。                                             二ノ丸までであった城の範囲を拡張し、三重の堀がめぐる輪郭式の城として整備しました。  家康の死後、天守は焼失し、設計図が残されていないため、その姿は謎に包まれています。  幕末まで幕府が直接管理していましたが、明治時代になると廃城となり、現在 本丸と二ノ丸の跡は、駿府城公園として整備されました。

駿府城の構造は、三重の堀が巡り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとなっています。                                    現在 三ノ丸は、おもに公共施設が建ち並び、本丸と二ノ丸が駿府城公園となっています。

公園自体が広く大きいので入口が良く分からず、着いたところが北御門                      北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと入り、本丸を囲んだ内堀は発掘調査のため堀の水はありませんでした。

家康による築城当時「小天守台」にどのような建物が有ったのかは良く分かっていませんが、絵図(駿府城御本丸御天守台跡之図)には、天守台へと登る階段や石垣などが描かれていることから、天守台を防御する機能を果たしていたと考えられています。

なお、ここから見える石は、石垣の最も下にある石(根石)で、江戸時代には地中に埋まっていた石とのことです。 

 

 

過去の発掘調査から、天守台があった場所には室町~戦国時代の今川氏の本拠地であったと推定されていました。                                                      天守台発掘調査でも、天正期(豊臣方)天守台の内部からは今川期の遺構と遺物が発見されたようです。                                                        発見された遺構は、断面がV字状になる薬研堀と窪地状(または池状)の遺構とのことですが、広い発掘現場の外側からしか見られず、よく見えないのが残念であった。

地上に姿を現した石垣も大御所家康が慶長期に築いた石垣と、それより古い時代の天正期に築いた石垣の作り方が異なっているそうです。

慶長期の石垣は加工した石を積む「打込接(うちこみは)」という工法を使用し、石垣の勾配(傾き)は比較的急となっています。                                一方、天正期の石垣は自然石を積む「野面(のづら)積み」という工法を使用し、石垣の勾配は比較的に緩やかとなっています。

打込み接(は)ぎ                                                      石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)をもちいて石垣を築く方法です。             石の隙間には間詰め石を詰めています。

切込み接(は)ぎ                                                  切石(加工石)で石垣を築く方法です。

石垣の『刻印』                                                   石垣に使われている石材には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。この刻印の役割は、石垣の工事に携わった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表していたとされています。                                  ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したり、その役割は今も研究されています。                                                          駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あったとのことです。

最も多く見られる刻印 

大御所となった家康が全国の大名に声掛けして行った天下普請であり、駿府城で発見された『刻印』の数と種類が300以上もあったということは、各大名が我先にと駿府へ馳せ参じたことが良く分かります。

 

 

駿府城の刻印 - 検索 動画

 

 

 

 

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▲ 静岡浅間神社から賤機山ピストン ▲

2025年02月18日 | 宮詣で

東海の日光 『おせんげんさま』 を参拝しながら、市民憩いの山『賤機(しずはた)』を歩いて来ました。                                                神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社及び大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社を総称して 静岡浅間(しずおかせんげん神社(通称:おせんげんさま) と申し上げ、いずれも御創祀は千古の昔にさかのぼり、駿河国総社として広く信仰されています。

 

総漆塗り極彩色の豪壮華麗な社殿群で26棟が国の重要文化財に指定され、「おせんげんさま」 という名称で江戸時代の庶民からも信仰を集めていました。

                          

石鳥居から総門を通り境内へ、色彩豊かな楼門が現れる。

回廊内の舞殿は見られましたが、本殿・大拝殿は工事中で見ることはできませんでした。

舞殿前から左の南回廊を通り、スポーツ・武道・開運・必勝の守護神である 八千戈(やちほこ)神社 へ   

こちらの神社境内には七つの神社が集合しており、各神社を参拝してから賤機山に向かった。

賤機山古墳に8時半着。                                     古墳は静岡平野の中心部に突き出た尾根の、賤機山南端に造られています。                   葬られた人物は特定できていないようですが、6世紀後半に この地方を治めた有力な豪族の墓と考えられています。

古墳の形は、直径約 32m・高さ約7mの円墳で、内部には巨大な横穴式石室が造られ、石室内には遺体を納めた家形石棺が置かれています。

古墳から尾根道を少し上がった所に「麓山(はやま)神社」が鎮座。                                  こちらは山をつかさどる神、大山祇命(おおやまつみのみこと)を主祭神とし、日本武尊を配祀しています。                                          山を歩く者として必ず❝大山祇命❞を祀る神社は参拝をしています。

古来、賤機山上に鎮座され、「山宮」と称された麓山神社に安全登山の祈願をし、尾根を北上する。

8時 50分、登山道の右手が開け北東方向の雲の切れ間に富士が望めた。

9時丁度、第二次世界大戦の戦没者の菩提を弔う救世観音菩薩像に到着。                     清水市は、昭和 19年 11月5日や昭和 20年6月 19日に大型長距離爆撃機 B-29により大空襲を受け、壊滅状態となりました。                                           そしてここ静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に御霊の冥福と共に静岡市民の安泰と子孫繁栄、曳いては世界人類の平和と幸福を念願し建立されたとのことです。

礼拝後、更に尾根を北上した。                                          この尾根は静岡平野に突き出た尾根であり西風が強く、花粉症の方でしょうか? マスクやゴーグルをつけ頑張って歩かれていました。

低山なので沢山の方が歩かれる様で登山道はハッキリしていました。                      ただ尾根上には、低山とは思えない立派な大木が連なっていました。

9時 22分、賤機山(標高 171m)山頂にある 賤機山城跡」に到着。                         賤機山城は南北朝の動乱期(14世紀)に北朝方の今川氏が安倍川西岸の安倍城に本拠を構える南朝方の狩野氏に備えて築き、南北朝期以後は今川館の詰城となり、永禄 11年(1568)には武田信玄の駿府進攻によってその支配下へ、更に天正 10年(1582)の徳川家康の駿府入りにより廃城となったとのことです。

城は南北に続く賤機山の主尾根上及び、そこから派生する支尾根上に築かれており、範囲は東西約400m、南北約600m以上にわたり、要所には尾根を横切る形で大小の堀切が設けられ、敵の容易な侵入を防ぐ形の様です。

 

時間的に早かったので、更に北上した。

10時、静清バイパスを越えて見晴らしの良い場所に出た。安倍川の上流を望む。

何の標示もなく、この先は同じ様な尾根歩きが続きそうなので引き返すことにした。 

 

 

 

 

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🐾 旧東海道:平塚宿 🐾

2025年02月14日 | 日本の歴史

江戸から7番目の宿場で、日本橋からは 16里(62.8Km)の所に 平塚宿 があります。

江戸から6番目の藤沢宿からは3里 18町(13.7Km)にあり、途中、茅ヶ崎一里塚から間宿(あいのしゅく)南湖を過ぎ、舟渡し の相模川(河口付近は馬入川と言います。)を渡れば、高麗山(こまやま)が近づいてきて間もなく『平塚宿』に入ります。

次の大磯宿までは 27町(2.9Km)と大磯宿に大変近い所に造られました。

当時の旅人は一日平均 10里(約 40Km)を歩いたようです。                            所が、これほど近い所に藤沢宿~平塚宿~大磯宿と宿場が造られた理由に、平塚が隣村の中原にあった徳川家康の中原御殿並びに中原代官陣屋から東海道にもっとも近い場所だったからと考えられています。

中原御殿は家康が鷹狩りや江戸と駿府の往来のために築かれました。

江戸時代後期の平塚宿の規模は、問屋場2ヶ所、本陣、脇本陣 各1軒、旅籠 54軒、家屋数 443軒、人口 2,114人で東海道の宿場の中では規模が小さい方であったようです。

平塚の歴史は、地震津波、富士山の 噴火、空襲など多くの災害を乗り越えてきました。                                                                                                                                                「湘南ひらつか七夕まつり」 は第二次世界大戦末期の平塚大空襲からの復興を願い始められたとのことです。                                              その平塚が災害とどの様に向き合ってきたのか❓ その一部も見て来ました。

                            

平塚駅東口を 9時 20分、出発。                                          まずは駅から東寄りにある相模川に向かいました。                               かつての相模川には 60ヶ所を超える渡船場があったと云われています。                       この馬入の渡しもその一つで、旅人は渡船によって馬入川を行き来していたとのことです。

例外的に将軍の上洛、朝鮮通信使の来朝の時は、川に船を横に並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けて渡河したようです。

                                      

平塚八幡宮                                                    古くは鶴峰山八幡宮と言われ、相模国八幡庄の総鎮守です。

馬入村、八幡村、平塚新宿の鎮守でもあり、祭神は八幡大神(応神天皇)、神功皇后(応神天皇の母)、武内宿禰(すくね)の三柱です。                                             祭神の応神天皇は大陸文化を積極的に取り入れ、その結果、国勢が大いに発展したことから、国家鎮護、文化発展の神とされています。

平安時代後期、武士の台頭と共に武運長久の神として崇拝され、特に源氏が八幡神を氏神としたため全国に信仰が広まったようです。                                        また、平塚八幡宮は応神天皇とその母を祀っていることから、子宝、安産、子育ての神徳もあるとされています。                                              建久3年(1192)源頼朝は妻 政子の安産祈願のために神馬(しんめ)を奉納しています。

八幡山の洋館                                                  日露戦争後、日本海軍は無煙火薬国産化の必要性を痛感し、広大な遊休地のあった当時の平塚町にイギリスの三社との合弁による日本火薬製造株式会社を設立しました。                   この洋館は、その敷地内にイギリス人技術者の食堂・ホールとして明治 45年(1912)に建築されたものです。

大正8年(1919)日本火薬製造(株)の全施設は日本海軍により買収され海軍火薬廠となり、第二次世界大戦後は旧火薬廠の土地、建物はアメリカ軍により接収、昭和 25年(1950)には横浜ゴム(株)に払い下げられ、平成 16年(2004)横浜ゴム(株)より平塚市が譲り受け、八幡山公園に移築され、平成21年(2009)に一般公開されました。

建物は木造平屋建てで、塔屋のドーム、アーチ状の窓、二方向のベランダ、ドイツ下見板張りの外壁などが特徴です。                                               平塚市内では唯一の明治時代の洋風建造物で、国の登録有形文化財に登録されています。

『番町皿屋敷』のお菊                                                皿屋敷伝説のモデルといわれる 「お菊」 のお墓です。                               お菊は平塚宿役人 真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本 青山主膳方に奉公中、青山家秘伝の唐絵の皿を紛失し、主人に斬り殺されたとされています。

井戸から夜な夜な聞こえる皿を数える うらめしい声。                                「いちま~い、にま~い・・・」でおなじみの 『番町皿屋敷』。                   大切な絵皿を割ったという濡れ衣を着せられ若くして処刑されてしまった主人公「お菊」のモデルは平塚出身だそうです。

平塚宿の伝承では、その亡骸は長持ち詰めとなって江戸から送られ、馬入の渡しで父親の源右衛門に引き渡されました。                                                お菊は評判の美人でしたが、源右衛門は変わり果てた娘の姿を見て、「もの言わぬ 晴れ着姿や すみれ草」 の一句を添えて涙し、祖先の墓の傍らに埋葬したとのことです。

 

江戸方見附跡                                                かつて江戸方見附のあった場所に、近年発見された資料や写真をもとに、見附が復元されました。

資料によると盛り土の周りを石垣で固めて、長さ 3.6m、幅 1.5m、高さ 1.6mの台状にしたもので、頂部の盛り土に竹矢来を施した構造物が、東海道の両側に東西に少しずれた形に設置されていたようです。

見附は本来、簡易な防御施設であるとともに、宿場の範囲を視覚的に示す効果を併せ持っていたと考えられています。

 

本陣跡                                                     平塚宿の本陣 加藤家は代々 加藤七郎兵衛を名乗り、門、玄関付き総欅造りの屋敷は比較的小規模でしたが、本陣としての格式としっかりした構えを備えていました。

本陣とは、公家・大名・幕府のお役人などの宿泊施設です。                            14代将軍、徳川家茂は文久3年(1863)と元治2年(1865)の2回、加藤本陣で休憩されたとのことです。

付近には、本陣の補助的な役目をした 脇本陣や人馬の継立と飛脚業務を行った 問屋場、幕府や領主の法令などを記した高札を掲げた 高札場などがあり、この辺りが平塚宿の中心となっていました。

平塚の塚                                                 平塚の地名の由来とされる史跡です。                                   江戸時代の天保 11年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、【昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘 政子が東国へ向かう旅の途中、天安元年(857)相模国のこの地で亡くなり、里人が松の大木の根元に塚を築いて弔ったそうです。時を経て塚は風化し平たくなったので里人はそれを 『ひらつか』 と呼んできた。】という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。

この事から平塚の歴史の古さが伝わります。

 

上方見附跡                                                     平塚宿の京側の出入り口であった上方見附の位置は定かではありませんが、この辺りにあったと云われています。

初代 広重によって描かれた東海道五十三次の平塚宿の錦絵も、上方見附からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま) の姿に往時の風情が偲ばれます。

数多くの旅籠が並んでいた頃の夕方ともなると、客引きをする留め女たちが旅人を奪い合う光景が良く見られたそうです。                                           江戸から京へ急ぐ旅人の袖をつかんでは、前方の高麗山を指して「あの山 を越えないと大磯宿には行けないよ。」と噓を言って、旅人を旅籠に引っ張り込んだそうです。

実際は高麗山を越えずに周りを歩くだけなので、苦は無いのです。                         客引きというのは、昔からあったのですね。

 

 

 

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🎶 耳を澄まして 🎶

2025年02月11日 | 癒し

私たちのバンドグループを指導して下さる方が開催された コンサート を聴きに行ってきました。

それぞれの楽器に精通された方々のJAZZバンド。 『Banda de Fnego』

折角の Jazzコンサートで是非皆様にも素晴らしい音色を、お聞きして頂きたいのですが著作権法により、ここに載せるわけにはいかず非常に残念です。

バンドの方々は全員がプロ級の方で、バンドマスターはギターを担当され、またボーカルの方の声が引き込まれる様に素晴らしかった。

Sax のアルトとテナーそしてトランペットを演奏された方が、我がシニアバンドを指導して下さる先生です。

ボーカルに後で黙々と演奏されるベースギターリスト、弦の数が少ないがリズム感やコードの知識と精度が求められ、ギターに比べて難しい楽器を見事に聞かせて下さいました。 

舞台は機材が沢山置かれ演奏者にとっては狭い感じでしたが、Saxの後ろで色々な曲に合わせて絶妙なフィーリングを聴かせて下さったドラマー、カッコ良く引き込まれました。

左奥のグランドピアノは音楽教室で生徒さんを指導されている先生、ジャズピアノはクラシックの様に楽譜通りに演奏する訳ではなく、アドリブが演奏できて観客を魅了させるんです。   その辺りを充分に聴かせて頂きました。  

ジャズ音楽とは即興性を重視し、アドリブを生かした自由なスタイルの音楽とのことで、何も知らなくとも自然に耳に届き脳の疲労回復やリラックス効果があり、集中力向上するといわれています。     

音楽を知らない私でも、『枯葉』・『サマータイム』・『星に願いを』・『A列車で行こう』・『イン・ザ・ムード』など2~3曲は聴いたことがあります。

ジャズって意外と身近なのですね。

 

 

 

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▲ 宝登山から時計回りに下る ▲

2025年01月25日 | 日本の四季

冬のロウバイ、梅をはじめ季節の花が咲く信仰の山。                            標高 500mに満たない低山ですが、秩父三社の一つ宝登山神社が鎮座する霊山であります。

山頂直下には花木が植えられ、特にこの時期ロウバイが黄色の花を咲かせ「もう直ぐ春ですね。」と知らせる様に迎えてくれる。

宝登山神社~表参道(奥宮参道)~宝登山~毒キノコ看板前(登山口)~奈良沢峠~氷池分岐~氷池~長瀞~宝登山神社の行程で歩いて来ました。

ロープウェイ山頂駅広場からも遠く秩父市の武甲山(標高 1304m:石灰岩採掘が進む。)が望めた。

穏やかな雑木の尾根道で、冬の陽だまりが嬉しい 長瀞アルプス をノンビリ下って来ました。

宝登山山頂を9時 55分に出発。                                            北西に向けて 関東ふれあいの道 を下る。

山頂直下は急な長い木製階段を下る。 登る方のことを思うと非常に厳しい登りである。

大きな毒キノコの看板が設置された登山口である林道に出た。 10時 17分。

小鳥峠通過、10時 29分。

のどかな尾根道(長瀞アルプス)進む。                                       私は下りでしたが、次々と登ってくる方とすれ違い人気の高さに驚きました。

登山口から野上駅へ向かう 長瀞アルプス は、ほぼ平坦で歩き易い道だ。

こちらの宝登山は秩父鉄道の野上駅と長瀞駅の両方に登山口があり、電車利用で来ても非常に登り易い山で、とても人気があります。

この日は風もなく、暖かな木漏れ日を浴びながら気持ち良く歩けました。

野上峠を過ぎると山間に入り、沢筋には天然氷を切り出す氷池が見られました。              あの切り出した天然氷で作るカキ氷は美味しいだろうな~ッと夏の暑い日を思い出しながらトボトボと下りました。

氷池から 15分ほどで長瀞町に出られ、11時 45分には宝登山神社駐車場に無事到着しました。

 

 

 

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▲ ロウバイの宝登山へ ▲

2025年01月23日 | 宮詣で

荒川の左岸に山裾を広げる標高 497.1mの 宝登山 を歩いて来ました。

宝登山は秩父山塊の中でも数少ない独立峰の体をしめし、秀麗な山容は四季折々の自然の美を生み出し、訪れる人々の心を和ませてくれます。

 

 

宝登山神社駐車場に8時到着。                              宝登山は麓に宝登山神社本社が、そして山頂には奥宮が鎮座しており、まさに御神体山であります。

 

ご由緒物語 | 寳登山神社

 

創立は西暦 110年、今からおよそ 1900年前、第12代 景行天皇の御代、皇子 日本武尊 が東征の帰途山容の美しさに惹かれ、ミソギの後に山頂を目指した途中で山火事に遭遇しますが神犬の神助を得て、無事に宝登山山頂に於いて神霊を祀られたことが宝登山神社の創建の初めと伝えられています。

宝登山神社の御祭神                                                        新日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 我が国をお肇(はじめ)になられた神武天皇      大山祇神   (おおやまづみのかみ)     山の御神霊  無限の山の幸を恵み給う        火産霊神   (ほむすびのかみ)        火の御神霊 無限の火の幸を恵み給う 

 

山名は「火を止める山」と表し「火止山=ほどさん」と定め、このことが寶登山神社の始まりと伝えられています。

 

8時 13分、駐車場を出て参拝に向かう。

綺麗な二の鳥居 

二の鳥居をくぐって参道を進み階段を上がると御本殿広場にたてます。

御社殿は明治初頭に造り替えられたそうです。                                  本殿、幣殿、拝殿より成る権現造りとなっており、きらびやかで色彩豊かな彫刻が施されています。

8時半、参拝を済ませ奥宮参道を登る。                                 宝登山はロープウェイでも奥宮参拝ができる様になっていますが、一歩一歩踏み締めて奥宮を目指しました。                                                上部に山頂駅があるため車道が設けられており、そこを歩いても良いのですが狭い車道なので、突っ切る様に造られた登山道を頑張って直登した。

9時 12分、宝登山小動物公園サイドを通過。

小動物公園からは車道歩きとなり、北側の山並みが見える様になって来た。

車道を一登りしたら、「これより 神域」 と書かれた標示板が目に付いた。

階段参道を登り、この上が神社創立ゆかりの地とのことです。

麓の宝登山神社本社と同様の白い立派な鳥居が見え、扁額には 寳登山奥宮 と記されていました。

その先には更なる鳥居と社が見えた。奥宮到着、9時 20分。

寳登山奥宮の狛犬 

奥宮裏手の高台が、標高 497.1mの 寶登山山頂。

山頂から宝登山ロープウェイ山頂駅間の南西斜面に広がるロウバイ園で、ぶらぶら青空に映えるロウバイ見学を楽しんだ。

ロウバイ園越しに遠く山並みが見え、左手のピークは秩父市の武甲山であります。

園内のロウバイは、まだまだ蕾が沢山あり、当分見られそうである。

最高の天気であり暖かく、山頂やロウバイ園で 30分ものんびりと過ごした。

 

   登山神社の祈りの心

神道では人も自然の中に共生するもので、私たちの周りのものや人に神が宿り、こうした自然の中に存在する多くの神々を崇め敬います。                              山川草木豊かな自然は清浄を生み成し、そこは聖なる清らかな場所として神が宿り給う処となります。                                                      私たちは特に優れた力や自然界の生命力をカミとして崇め敬い、自然が生み出す恵みと脅威をも受け入れ、「今」を大切に想い日々の生活を営みます。                             自然に恵まれた寳登山はまさしく神鎮まります聖なる空間として清らかな時間を清らかなこころで御参拝頂きますよう願っております。

 

 

                                         

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🐾 旧東海道:藤沢宿 🐾

2025年01月13日 | 日本の歴史

江戸日本橋を出発して6番目の宿場が 藤沢宿 であります。                            藤沢宿は日本橋から 12里半(49.1Km)、戸塚宿からは 2里(7.9Km)、次の平塚宿へは 3里半(13.7Km)の距離にありました。

藤沢宿の規模は、江戸時代後期で人口 4,089人、家数 919軒、問屋場2ヶ所、本陣・脇本陣各1軒、旅籠 45軒であったと記録されています。

人口は多い方でしたが、旅籠の数では江戸を出た多くの旅人が戸塚宿で宿泊するなどの立地上の理由もあって、比較的少ない方の宿場であったようです。

「東海道宿村大概帳」には、藤沢宿の名物を「大山詣で、江ノ島弁財天詣で」と記されていますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは、多くの道が集まる場所であったこともあるようです。

メインの東海道を西へ、四ッ谷から北西に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江ノ島道(江ノ島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地であった。

その様なことから、人々の往来や物資の集散も多く、鎌倉時代末期、室町時代の頃からは、時宗の総本山 『遊行寺』 の門前町としても発展してきました。

その後、江戸時代中期以降は「大山道」や「江ノ島道」の分岐点として「大山詣り」や「江ノ島詣で」の旅人の拠点となり、一層の賑わいを見せることとなった様です。

                                   

 藤沢駅を9時 20分、出発。                                           土曜日でもあり参加総数 84名、私は6班の 10人の皆さんと歩いてきました。

 庚申堂 9:36                                                 堂内には江戸時代前期の作といわれる青面金剛が祀られており、60年に一度、庚申(かのえさる)の年に御開帳されます。                                     次の御開帳は、15年後の 2040年になるとのことです。

庚申信仰は、十干十二支の組み合わせで 60日毎に廻って来る庚申の日に、その夜は眠らずに過ごして無病息災を願う信仰だそうです。

 

 遊行寺坂東門前 9:54                                              遊行寺坂は旧東海道で、お正月の恒例行事 「箱根駅伝」 のルートになっています。

遊行寺総門                                                  総門は黒く塗られた冠木門で「黒門」と称され、総門から山門迄のゆるい坂道は「いろは坂」といわれています。

山門は銅屋根の仁王門でしたが、明治 13年(1880)の大火 で焼け、今は礎石が残るのみです。

遊行寺本堂                                                     遊行寺と呼ばれる、この寺院の正式名称は 『藤澤山(とうたくさん)無量光院清浄(しょうじょう)光寺』 と称する時宗の総本山です。                              本堂には御本尊の阿弥陀如来坐像のほか、宗祖の一遍上人像、遊行4代呑海上人像などが安置されています。

現在の建物は昭和 12年(1937)に再建されたもので、木造では関東随一の広さを誇り、最大で約 700人が座れるそうです。

本堂右手には、諸国行脚中の一遍上人像が見られます。

一遍上人は常住の寺を持たずに諸国各地への賦算の旅(遊行)を続けていたことから、一遍は遊行上人と呼ばれていました。

遊行寺中雀門                                      中雀門は安政6年(1859)に建立され、明治の大火で焼失を免れましたが、関東大震災の時には倒れはしましたが壊れなかったため、そのまま建て直されました。

向唐門造りで側面の大棟に 「菊の御紋」 と屋根の下に 「葵の紋」 が見られ、境内最古の建造物とのことです。

 

 ふじさわ宿交流館 10:28                                                藤沢宿は江戸時代には旧東海道の宿場町として、大山詣でや江ノ島詣でをする人々の交通の要衝として賑わいました。                                      交流館は藤沢の歴史や文化に触れ、人々が交流できる場として平成28年(2016)に開館しました。

 遊行寺橋・高札場跡 10:35                                           東海道は藤沢宿内の大鋸(だいぎり)橋(現在の遊行寺橋)で境川を渡ります。                       橋のたもとには高札場がありました。

高札場とは、幕府や領主の命令などが木の板に書かれた「高札」を掲げる場所で、人通りが多い宿場の中心に置かれました。

   

 江ノ島弁財天道標 10:51                                            江ノ島道に建てられた道標は江戸時代の検校(けんぎょう)杉山和一(1610~1694)の寄進によるものだそうです。                                                杉山検校は江ノ島弁財天を信仰したおかげで管鍼術を会得し、徳川綱吉の病を治して幕府から優遇され、江戸、関東の盲官の最高位である惣録検校まで上り詰めました。                    終生、江ノ島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために藤沢宿から江の島までの道案内に、道中 48基の道標を建てたと云われています。

現在、残っているのは 14基ですが、12基が藤沢市にあり市の重要文化財に指定されています。

 

 義経首洗い井戸 11:12                                           文治5年(1189)源義経は奥州衣川で、頼った藤原一族に攻められ、敗れて自害しました。  その首は黒漆櫃に納められて鎌倉に送られ、腰越で首実検にかけられた後、そのまま浜に打ち捨てられたと云われています。                                       言い伝えによれば、金色の亀によって境川を遡り藤沢に運ばれた義経の首は里人に拾われ、洗い清められ首塚に丁重に葬られたということです。

 養命寺 11:47                                                  引地山 養命寺といい、元亀元年(1570)に創建された曹洞宗の寺院です。          御本尊の 木造薬師如来坐像(像高 90.5cm) は鎌倉時代初期に造られたもので、運慶様式の作例とされ、昭和2年(1927)に国の重要文化財に指定されています。                    檜の寄木造・内削りで玉眼を入れ木肌に下地に布を貼って漆を塗った上に金箔を置いた作りになっています。                                                  寺内の格子天井には 224面の天井絵は、とても美しいそうです。

 耕餘塾(こうよじゅく)跡 12:05                                               耕餘塾は明治5年(1872)、羽鳥村名主 13代目 三觜(みつはし)八郎右衛門佐次郎が教育普及のため、小笠原東陽を招いて開いた郷学校の読書院(とくしょいん)に始まるようです。       東陽(1830~1887)は美作国(岡山県)勝山藩士 小笠原忠良の三男として生まれ、26歳で昌平坂学問所に入り儒学を修め、池上本門寺で僧たちに漢学を教えていた所、三觜右衛門によって藤沢に招聘され、廃寺となっていた徳昌院の跡地に読書院を開きました。

学制布告で羽鳥学校と改称しましたが、東陽は羽鳥学校とは別に読書院を残し独自の教育を続けました。                                                      こちらの塾からは、吉田茂(総理大臣)、平野友輔(衆議院議員)、鈴木三郎助(味の素創業者)ら政界・実業界で活躍した多くの人材を輩出しました。 

第45代内閣総理大臣 吉田茂      味の素創業者 鈴木三郎助      衆議院議員 平野友輔 

 

 

 

                                     

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🌄 2025 賀春 🌄

2025年01月01日 | 伝統行事

 

 

 

              本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

           

                         壽                                                                                                              

              御祭神                                                     神代日本の国づくりをされた神 大己貴命(大国主命)をお祀りする

         東海の総鎮守の社 砥鹿神社里宮

               霊峰 本宮山 砥鹿神社奥宮

       すべての国に平和がありますように 

 

 

 

 

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