小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子悲しむ 緑なす 蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も 藉(し)くによしなし しろがねの 衾(ふすま)の岡辺 日に溶けて 淡雪流る
あたゝかき 光はあれど 野に満つる 香(かおり)も知らず 浅くのみ 春は霞みて
麦の色 わづかに青し 旅人の 群はいくつか 畠中の 道を急ぎぬ
暮れ行けば 浅間も見えず 歌哀(かな)し 佐久の草笛 千曲川 いざよふ波の
岸近き 宿にのぼりつ 濁り酒 濁れる飲みて 草枕 しばし慰む
※遊子=旅人、 ※衾=一面に降り積もった雪、 ※草枕=旅先での寂しい宿り
『千曲川旅情の歌』は『初恋』が入っている第一詩集❝若菜集❞ではなく、第四詩集❝落梅集❞に入っています。
早春の頃であるのに、いまだはこべ、若草と、野に満つる香は見当たらない。その早すぎる春を悲しんでいる。 青春の終わりを渋く味わうための詩のようです。
二十代終わりの藤村は落ち着きがでて、濁り酒を一人呑むほどに渋くなっていたようです。 このころ藤村は、長野県の小諸で教師として七年間過ごした。
明治 32年(1899)4月初旬、旧師「木村熊二」の経営する小諸義塾に英語・国語の教師として赴任し、5月 巌本善治の媒酌により函館の秦 冬子と結婚、小諸町馬場裏に新家庭をもった。 明治 33年 4月、「旅情」(小諸なる古城のほとり)を雑誌『明星』に発表。 5月長女 緑が生まれ父となる。
木村熊二先生のレリーフ
明治 34年 8月、詩集「落梅集」を刊行。翌年3月次女 孝子が生まれる。 11月、「旧主人」・「藁草履」を。以後「爺」・「老嬢」・「水彩画家」・「椰子の葉蔭」等を発表。 明治 37年 4月、三女 縫子生まれる。
明治 38年 4月 29日、小諸義塾を退職し 7年間に渡る小諸生活に別れを告げ、執筆途中の「破戒」の原稿を携えて家族と上京。 翌年 3月、「破戒」を自費出版した。