平城遷都1300年。奈良大和路、西ノ京を歩く。 薬師寺は天武天皇により発願(680年)、持統天皇によって本尊開眼(697年)、更に文武(もんむ)天皇の御代(みよ)に至り、飛鳥の地において堂宇(どうう)の完成を見ました。
その後、平城遷都(710年)に伴い現在地に移されたようです。 当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇りました。 すなわち金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、中でも裳階(もこし)を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは、“龍宮造り”と呼ばれて、人々の目を奪ったようです。
以後1300年を経た間に幾多の災害を受け、特に享禄(きょうろく)元年(1528)の兵火では、東塔(国宝・白鳳時代)を除く諸堂が灰燼(かいじん)に帰しました。
昭和42年高田好胤管主(たかたこういんかんす)により薬師寺白鳳伽藍の復興が発願され、失われた堂塔の復興を薬師寺の大悲願とし、お写経勧進によって、金堂、西塔、中門、回廊、更には平成15年3月に大講堂が復興され、白鳳伽藍の輪奐美(りんかんび)が甦りました。
薬師寺では今でも日本人の浄らかな心の結晶が、堂塔伽藍のたたずまいとして未来の人々に継承されることを願い、更なるお写経のご結縁をお願いしております。 檀家を持たない薬師寺の復興にご協力を
お写経勧進・・・お経は、一文字書写するごとに仏様を一躰刻むのと同じ功徳があるとい われています。 納経回向料 般若心経1巻2,000円ほか
初めて参拝し白鳳伽藍の鮮やかさに驚かされました。 金堂は薬師寺縁起によると二重二閣、五間四面、瓦葺の建物で各層に裳階(もこし)をつけた美しい堂で、龍宮造りと呼ばれているようです。
金堂の東西に三重の塔がそびえています。 創建当時の建築を奇跡的にのこす「東塔」は西塔同様に屋根を数えれば六重塔に見える。
これは各層それぞれに裳階(もこし)と呼ばれる本体の屋根の木組を守る補助的な庇をつけているためで、その連続性が塔ののびやかさを一層際立たせている。 高さは約33.6m、再建の西塔は少し高く約36mだそうです。 古い東塔は工事中であり撮影できませんでした。
興楽門から北へ、芝生地の真ん中に幅の広い石敷きの参道が、玄奘塔(げんじょうとう)を中心とする伽藍に通じていて、右には本坊と写経道場、左手は小ぶりな松ノ木が植栽されて、まだ新しく明るい雰囲気であった。
礼門から受付に回り、玄奘三蔵院伽藍内に入り中央の玄奘塔を参拝し、回廊伝いに大唐西域壁画殿に進み、正月と春秋の決められた期間しか公開されないというシルクロード画家『平山郁夫』画伯が30年の歳月を費やしたという玄奘三蔵求法の迫力ある壁画を見てきました。
ところが後日(平成21年12月2日)平山画伯が脳梗塞で他界されたと聞きビックリしました。お住まいも神奈川県の鎌倉と近い所でした。 ご冥福を、お祈りいたします。