素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🌸リコリスの咲く里山ノンビリウォーク🌸

2016年09月24日 | 日本の四季

今年は夏から秋にかけて勢力の大きな台風が多くてビックリですね。                                 海水温が高くなると台風が出来易く、テレビで家屋・道路・田畑の冠水風景が見慣れた感じになってきました。 困ったことです。                           野菜類の高騰などと言ってられません。農家の方々はもっと大変なのですから。

そんなことで天候不順だから、家にこもる? 何てことはできません。               傘はあるし合羽もある。                                  晴れの日には晴れなり、曇りの日には曇りなり、雨の日には雨なり、雪の日には雪なりの 、それぞれの素晴らしさが発見できます。さあ外に出ましょう。

今日は南足柄市観光ボランティアガイドの皆様の案内で、南足柄市の里山を歩いて来ました。

地元と言うか、自分の住んでいるところに「エッこんな綺麗な所や歴史的な建物・場所があるんだ 」って発見は楽しいですね。                            こう言うところを四季折々に歩くのも良いものです。

重い頭を垂れた稲穂を見ながら棚田を歩きました。

時期を同じく、彼岸花の赤も白も見事でした。 他にもピンクや黄色があるようです。

彼岸花はヒガンバナ科の多年草。 土手や田の畔に生える。

                                                秋の彼岸の頃、高さ約30cmの花茎を伸ばし、長い雄しべ・雌しべをもつ赤い 6弁花を数個輪状につける。

花の後、線形の葉が出て越冬する。 有毒植物であるが、鱗茎を外用薬とする。          別名:曼珠沙華まんじゅしゃげ)死人花(しびとばな)、リコリス等、他にも沢山の名前がある。

お彼岸の季節に田んぼのあぜ道や土手で見かけることが多いが、これはモグラや野ネズミがあぜ道や土手に穴をあけるのを、彼岸花の毒性のある球根を植えることで防ぐためだそうです。

                                                また、彼岸花の根茎は強いため、田んぼの畔部分に植えて畔の作りを強くする効果もあったようです。

内山地区の棚田から運動公園へ、そして平成 7年の水田区画整理を行った時、「花による地域おこし」を目的に千津島ボランティア団体の皆さんが農道沿いに育て守ってきた酔芙蓉を見に向かいました。

酔芙蓉は芙蓉の園芸品種。                              耐寒性があり、落葉低木でこんもりと茂り、花の大きさは直径10~15cm位で、樹高は1~3m前後であります。                                         花弁は「一重咲き」・「八重咲き」・「くす玉咲き」があり、千津島の酔芙蓉農道には「八重咲き」が多く植えられていました。

花は一日花で、朝の咲き始めは純白で、昼頃から段々薄いピンク色に変化し、夕方には濃いピンク色に変わるようです。                               この色の変化がお酒に酔って顔が赤く変化するのに似ていることから“酔う”芙蓉と呼ばれるようになったと言われています。                               ちなみに通常の芙蓉は色の変化はしないようです。

狩川沿いで見かけた「一重咲き」の酔芙蓉です。 水を好む植物と言うことが分かります。

狩川沿いでは、とても綺麗なコスモスも沢山見られました。

 

 

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🐾 庄川沿いを歩く 🐾

2016年09月11日 | 名勝:自然の風景

 東海北陸自動車道の庄川ICで降り、以前は庄川村でしたが、平成の大合併で一位細工で知られる高山市となった庄川に立ち寄りました。

                                                        1988年 環境庁巨樹・巨木調査の中でイチイの部の日本一となった『治郎兵衛のイチイを見学。

幹回り7.95m、樹高15mというまさに巨樹。

                                         イチイの根元には墓標がありましたが、この地方の風習でイチイの木を墓標として代々守り育ててきたようです。                                 イチイの木は成長が 遅いということで、樹齢は2000年を超えるのではないかと推定されているようです。

庄川は標高が800m以上で、冷涼な気候はソバ栽培に適しているということで、沢山のソバ畑を見ることができました。

                                                   今、丁度白いソバの花が満開で、とても綺麗でした。

その後、季節外れの「庄川桜」を見学し、そばの里へ

庄川町中畑のそばの里にある「五連水車」に立ち寄りました。 水車も五連と言うと中々の迫力です。

                                                      国道から見て左端の最大のものが直径13m。                        それから順に直径4.5m、5.0m、5.5m、3.6mの水車が並んでおり、五連水車としては日本一の大きさとのことです。

水車小屋では、最大の水車の動力を利用し、直径2.2mの石臼を回してソバを挽いています。

 

 

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🐾 菅沼合掌集落と“こきりこの里”を歩く 🐾

2016年09月10日 | 世界遺産

国道156号線沿いに行くと、庄川右岸に合掌造りの集落が木々の間から見えてきます。                                        集落全体が重要伝統的建造物群保存区域になっている菅沼合掌造り集落であります。

集落は、険しい山あいを流れる庄川のわずかな河岸段丘にあり、現在9戸の合掌造り家屋が残っています。                                   冬は豪雪となる厳しい自然に耐え、養蚕など仕事の場としても適した住まいとして、はるかな歴史を重ねて完成された合掌造り。

                                                    その力強い美しさを中心に、日本の原風景ともいうべき山村の景観も含めて、1995年に岐阜県白川郷、五箇山相倉と共にユネスコの世界遺産に登録されました。                                    現存する古いものは天保年間以前の建築と言われています。

季節が巡るたびに菅沼は表情を変え、いつ訪れても感動鮮やかです。

その後、国指定重要文化財である「村上家」や「白山宮(はくさんぐう)のある南砺市(なんとし)上梨(かみなしこきりこの里」に立ち寄りました。

                                               白山宮は県内最古の木造建築物で、神殿は室町時代(1502年)の建造だそうです。

こきりこの由来                                           「こきりこ」は、越中五箇山・上梨の山里を中心に伝承された全国的に有名な古代民謡である。

                                                       多くの民謡は起源や伝承の経緯がつまびらかでないのに比べ、この唄は『越の下草』や二十四輩順拝図絵、『奇談北国巡杖記』などの古文献に記載されており、来歴がかなり明確である。                                    従って、大化改新(約1400年前)の頃から田楽として歌い 継がれてきたという語り伝えも、かなり信憑性のあるものと思われる。

                                               「こきりこ」は、越中五箇山の古社、上梨白山宮の祭礼に歌い踊られてきたが、隔絶山村として長い歴史を経た五箇山も、大正末期から昭和初期にかけて、電源開発などにより、外界との交流が始まるにつれて忘れられていった。                                               西條八十氏がこきりこ採譜のため五箇山探訪したのを契機に、昭和26年、古くから歌い継いできた上梨の山崎しい老(昭和38年没)の演唱を採譜して発表し、一躍脚光を浴びることになった。                                   奈良朝の万葉集などにみる純真、素朴にして、大らかな古代日本精神を伝承する唄として、その文化的価値が認められた。

                                                  そして昭和28年、東京・日本青年館に於ける第4回選定無形文化財として、全国郷土芸能大会に出場した。                                                        また、昭和44年文部省が中学校の音楽教材に指定したので、全国的に広く知られるようになった。                                   リズム・メロディーとも簡単で、しかも明るく軽快なこともあって多くの人々に愛されています。

白山宮からは三笑楽酒造や五箇山伝統のとうふ店を覗き、村上家前の庄川にかかる太平橋を渡り、かつて加賀藩の政治犯などを収容していた現存する唯一の流刑小屋の前を通り、今日の宿に入った。

ぬくもりの湧く山里『五箇山温泉』                                        山々の深い緑に幾重にも包まれ守られるように、ひっそりと静かに時を重ねてきた五箇山。

                                                    平家の落人伝説に彩られ、独自の歴史と文化を育んできた五箇山地方。       「むぎや」・「こきりこ」など伝統的な民謡や舞いは、どこか哀愁を帯び、雅な情趣を漂わせ、多くの人の心を魅了し続けています。

 

 

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🐾 初秋の相倉合掌造り集落散策 🐾

2016年09月08日 | 世界遺産

相倉(あいのくら)集落は庄川からやや離れた段丘上に位置し、北東にゆるく傾斜する細長い台地に広がっています。

                                                        この集落にある 32戸の住宅のうち 23戸が合掌造り家屋となっています。                            相倉集落に現存する合掌造り家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたものですが、最も古いものは17世紀にさかのぼると考えられています。

                                                     史跡として保存される範囲には、これらの民家だけでなく、田畑・山林・池・道路・屋根葺きに必要な茅を取る「茅場(かやばや集落を雪崩から守るための「雪持林(ゆきもちりん)までもが含まれます。                           相倉に訪れると、集落と周りの環境とが織りなす美しい風景を目の当たりにすることができます。

平成7年(1995)12月、ユネスコの世界遺産一覧表に文化遺産として登録されました。                                       相倉には 23棟の合掌造りが現存しますが、約100年~200年前の建築物が多く、古いものは 400年前に建造されたと言われています。                                             屋根の勾配は急で 60度。                                  断面は正三角形に近く、つまり雪が滑り易い形になっています。

                                                      この大きな屋根を支えるのは、根元の曲がった「チョンナ」と呼ばれる太い梁。                     山の斜面に生育し自然に曲がったナラを用いているとのことです。          また、合掌の組み立てには釘は一切使わずに縄とソネと呼ばれるマンサクの木を使っているようです。                                 屋根の葺き替えは15年~20年ごとに、森林組合が中心になって行われています。

雪深いという厳しい自然に対応する強固な造り、さらに生活の場と生業の場をひとつにした合理的な建築になっています。                          人々の生きる知恵が生んだ偉大な発明、それが合掌造りと言えます。

 

旧五箇山街道                                                   JR城端(じょうはな)線終点の城端駅から五箇山へ入る国道304号線に、冬でも車で通れる悲願の五箇山トンネル(3072m)が開通したのは昭和59年3月10日だそうです。

                                                       そのお陰で今までは、人喰谷という羊腸の道を登って細尾峠を越えて、車で 30分はかかっていたものが、5分で通過できるようになりました。

                                               その細尾峠が開かれたのは明治20年であるが、自動車の通れる道路が出来たのは昭和2年のことだそうです。                               それ以前は若杉から唐木峠へ上り、人喰谷の谷を巻いて朴峠を越え梨谷へ出た。   城端からこのルートを通って下梨へ来ると延長 4里(1里⇒約3.9Km)で人々は重い荷物を背負い往復した歴史街道である。 

 

      

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◎木彫りの里“井波”そして瑞泉寺参拝◎

2016年09月07日 | 古寺巡礼

八日町通り 

                                                                  瑞泉寺に続く石畳の通りで両側には、井波美術館や彫刻店、郷土玩具店、造り酒屋、格子戸のある町家などが軒を連ねるほか、木製あんどんや木製の欄干、木彫りのバス標識などがあり、落ち着いた風情を醸し出しています。                                                     また、建物の軒先に掲げられている世帯主の木彫りの干支からは、木彫りの里「井波」らしさが感じられます。

門前町として発展し、彫刻工房が並び木の香りが漂う。                  随所に井波彫刻が見られ、工房では作業現場も見ることができました。彫刻の町らしく通り沿いの看板や街灯の七福神など、散策していても楽しい。

八日町通りを抜け真宗大谷派井波別院『瑞泉寺』を参拝しました。

明徳元年(1390)、本願寺 5代綽如(しゃくにょ)上人によって開かれた寺院。

                                                      現在の本堂は、明治18年(1885)に井波の大工や彫刻師などによって再建されたもので、北陸地方の真宗木造建築の寺院としては最も大きな建物です。                                      なかでも、山門正面の精緻な彫刻が見所で、その多くは井波大工の力作、井波彫刻の基となったものだそうです。                              この山門は、昭和40年4月1日に県重要文化財に指定されました。

綽如上人は永和年中(1375~79年)杉谷(現在の八乙女山)の山中に草庵を結んで、宗祖「親鸞聖人」の教義を広められておりました。                                         当時、中国から国書が朝廷に送られてきましたが、その文字が難解を極めたため、青蓮院門跡は、その解読に博学多識の綽如上人を推挙されました。             上人は直ちに越中から上洛され、かくて国書の意義が明らかになり、返書までしたためられ、ようやく国の体面を保つことができたのだそうです。             天皇は大変に喜ばれ「周圓」の号を授けられました。

上人の深い学問に益々感銘を受け、聖徳太子絵伝八幅と、太子2歳の南無仏木像一体を下賜されました。                                 9月1日に参拝した時、特別御開帳の時間にあたり、聖徳太子像を拝観できると聞き、何と運の良いと思いましたが、御開帳が30秒ほどで礼拝し頭を上げたら既に閉扉されていた。

獅子の「子落し彫り」が見られる勅使門。

 

 

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◎高岡大仏と国宝高岡山「瑞龍寺」参拝◎

2016年09月07日 | 古寺巡礼

高岡大仏参拝 

                                                   承久3年(1221)頃に創建され延享2年(1745)坂下町極楽寺の第15世住持「等誉上人」の発願により再建され、奈良、鎌倉に並ぶ日本三大大仏のひとつだそうです。

幾度とない大火に見舞われ類焼してきたが、昭和8年(1933)再び焼けることの無いように、高岡の伝統である鋳銅技術を駆使し鋳銅仏として再興したとのことであります。

高岡大仏様の次に、壮大な伽藍配置で有名な国宝『瑞龍寺』を参拝しました。

                                                            壮大な伽藍配置様式の豪壮にして典雅な美しさに圧倒されました。

                                                          加賀藩百二十万石の財力を如実に示す江戸初期の典型的な建造物とのことです。

高岡の開祖「前田 利長」公の菩提寺。 曹洞宗の名刹であります。              3代藩主「前田 利常」の建立で、1997年に山門、仏殿、法堂が建造物として国宝に指定されました。                                    また、総門、禅堂、大庫裏、大茶堂、回廊三棟が重要文化財として指定されており、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されています。

左右対称の建物で芝が敷き詰められた中庭が、とても綺麗でした。           お寺の境内に芝が敷かれていることに驚きましたが、素晴らしいです。

 

 

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☆越中八尾“おわら風の盆”☆

2016年09月05日 | 伝統行事

二百十日の大風(台風の襲来時期)を鎮め五穀豊穣を祈る伝統行事おわら風の盆

                                                        八尾(やつお)の旦那衆が創り上げた八尾町人文化の最高傑作が“おわら風の盆”です。

二百十日の風が吹くと、八尾の町は おわら一色に染まります。

                                                      格子戸の旅籠宿、土蔵造りの酒屋が軒を連ねる静かな坂の町にぼんぼりのあかりが灯る頃、どこからともなく聞こえてくる三味線、胡弓、太鼓の音、それに合わせて哀調を帯びた唄声が 流れ始めると、各町内で一斉に町流しが始まります。

風の盆が行われるのは、井田川沿い南北約 3Kmにある11町。                                 西新町、東新町、諏訪町、上新町、鏡町、西町、東町、今町、下新町、天満町、福島のそれぞれに保存会があり、「おわらの伝承」や「後進育成」、「技能向上」に取り組んでいます。

                                                     唄や三味線、胡弓を担う地方(じかた)衆は 9月に向け、一年を通じて稽古に励んできた。                                                                                                風の盆は、これまでの成果を見せる晴れ舞台。                                       住民の皆さんが伝統の技を見せ、八尾に哀調の音色を響かせる。

9月1日から3日までの3日間、おわらに寄せる八尾の人々の思いは、この日に熱く燃え上がります。

“踊り踊るなら  しなよく踊れ  おわら踊りの  しなのよさ”

  

 例年20万人以上が訪れるという、この時期に“おわら会場”まで歩いて20分程でいける越中八尾温泉の宿が取れ驚きました。                                             観光客は多くても小さな町に宿は少なく、富山駅近くに宿を確保しバスや車で3~40分掛けて八尾町の会場近く迄来る。                               そしてお客さんを降ろし駐車場がないのでバスは戻り、23時頃に迎えに来ると言うのが通常のケースのようです。

                                               夕食は 6時からで7時には宿のマイクロで会場に向かいました。             こういう時に地元のドライバーさんが居てくれることは、本当に有り難いことです。   

今回は登山ではなく、各地方の有名な踊り見学ツアーであり気軽に考えていましたが、夜の催しであり以前、 東京ドイツ村のイルミネーション見学で迷子が出てしまったことを思い出し、参加者 26名を暗く知らない土地で迷子を出さないよう注意することと、自分が写真を撮りたいと思うことが入り交じり大変でした。                                                  でも、私が心配するより、旅慣れた皆さんの団結力が強く助けられました。

『おわら風の盆』の踊りについて                                           踊り                                                        現在の踊りは、豊年踊り、男踊り、女踊りの3種類があるようです。                       豊年踊りは明治以降、八尾の芸達者連中によって“かっぽれ”などの動きを取り入れ洗練されたとのことです。                                また、男踊りと女踊りは昭和4年に日本舞踊家によって新たに振り付けられたようです。                                           編み笠を深くかぶるのは、その昔、躍る者の照れ隠しとして手ぬぐいやお面で顔を隠して踊った名残りと言われています。

 男踊り                                                      男踊りは黒を基調とした法被姿で、勇壮に力強く舞います。                              鍬打ちや稲刈りなど農作業の仕種が取り入れられているとのことです。

 女踊り                                                    女踊りは黒い帯に浴衣姿で上品に美しく舞います。                               夏の川原で蛍狩りを楽しむ女性の情緒ある姿を日本舞踊の艶めきある仕種で一層引き立てられています。

豊年踊り                                                       古くから踊られていた五穀豊穣を祈る踊りで、老若男女問わず皆さんが楽しめる踊りだそうです。

三味線                                                       おわら節のリズムを刻むもので、長唄用の中竿が用いられています。                             三味線のリーダーは「タテ」と呼ばれ、地方を仕切ります。

胡弓                                                         おわら独特の哀調ある風情は、この楽器によるものと言えるようです。        明治から昭和にかけて胡弓を取り入れるまでは、尺八が使用されていたとのことです。

                                                      おわらの歌詞は美しい歌詞が多くあります。                          これは明治から昭和にかけて数多くの文化人を八尾に招き、そのお礼として歌を詠んで頂いたようです。                                   おわらの歌詞は七五調で作られており、当時の流行りであった都都逸の歌詞をそのままおわらにしたものもあるとのことです。

各町内の皆さんが 1年かけて修練されてきた成果の発表舞台です。                                   そろいの衣装を着た担い手たちが唄や演奏、踊りを披露して下さいます。                                            通りをぎっしりと埋め尽くす観光客の皆さんは、哀調を帯びた胡弓や三味線の音色、優美な踊りに酔いしれ、夜の更けるのを忘れます。

私達も会場に 5時間 各町内を歩き回っていましたが、3町の踊りしか見ることができませんでした。                                              沿道には動きの取れないほど観客があふれかえっています。                               お祭りは、どこでも同様だと思いますが、沿道の商店、旅籠、等からの御祝儀が出ると、そこで御礼の踊りが15~20分始まります。                            そして休憩を含めたりすると、2~30m先で待っていても中々来てくれないというのが現状です。

どうしても見たいと言うのであれば、有料の観覧席で見られますが、私は沿道で地元の皆さんと共に真剣になって踊りを見せてくれる可愛い小学生たちに声援を送りました。

 

 

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