素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 旧東海道:藤沢宿 🐾

2025年01月13日 | 日本の歴史

江戸日本橋を出発して6番目の宿場が 『藤沢宿』 であります。                            藤沢宿は日本橋から 12里半(49.1Km)、戸塚宿からは 2里(7.9Km)、次の平塚宿へは 3里半(13.7Km)の距離にありました。

藤沢宿の規模は、江戸時代後期で人口 4,089人、家数 919軒、問屋場2ヶ所、本陣・脇本陣各1軒、旅籠 45軒であったと記録されています。

人口は多い方でしたが、旅籠の数では江戸を出た多くの旅人が戸塚宿で宿泊するなどの立地上の理由もあって、比較的少ない方の宿場であったようです。

「東海道宿村大概帳」には、藤沢宿の名物を「大山詣で、江ノ島弁財天詣で」と記されていますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは、多くの道が集まる場所であったこともあるようです。

メインの東海道を西へ、四ッ谷から北西に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江ノ島道(江ノ島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地であった。

その様なことから、人々の往来や物資の集散も多く、鎌倉時代末期、室町時代の頃からは、時宗の総本山 『遊行寺』 の門前町としても発展してきました。

その後、江戸時代中期以降は「大山道」や「江ノ島道」の分岐点として「大山詣り」や「江ノ島詣で」の旅人の拠点となり、一層の賑わいを見せることとなった様です。

                                   

 藤沢駅を9時 20分、出発。                                           土曜日でもあり参加総数 84名、私は6班の 10人の皆さんと歩いてきました。

 庚申堂 9:36                                                 堂内には江戸時代前期の作といわれる青面金剛が祀られており、60年に一度、庚申(かのえさる)の年に御開帳されます。                                     次の御開帳は、15年後の 2040年になるとのことです。

庚申信仰は、十干十二支の組み合わせで 60日毎に廻って来る庚申の日に、その夜は眠らずに過ごして無病息災を願う信仰だそうです。

 

 遊行寺坂東門前 9:54                                              遊行寺坂は旧東海道で、お正月の恒例行事 「箱根駅伝」 のルートになっています。

遊行寺総門                                                  総門は黒く塗られた冠木門で「黒門」と称され、総門から山門迄のゆるい坂道は「いろは坂」といわれています。

山門は銅屋根の仁王門でしたが、明治 13年(1880)の大火 で焼け、今は礎石が残るのみです。

遊行寺本堂                                                     遊行寺と呼ばれる、この寺院の正式名称は 『藤澤山(とうたくさん)無量光院清浄(しょうじょう)光寺』 と称する時宗の総本山です。                              本堂には御本尊の阿弥陀如来坐像のほか、宗祖の一遍上人像、遊行4代呑海上人像などが安置されています。

現在の建物は昭和 12年(1937)に再建されたもので、木造では関東随一の広さを誇り、最大で約 700人が座れるそうです。

本堂右手には、諸国行脚中の一遍上人像が見られます。

一遍上人は常住の寺を持たずに諸国各地への賦算の旅(遊行)を続けていたことから、一遍は遊行上人と呼ばれていました。

遊行寺中雀門                                      中雀門は安政6年(1859)に建立され、明治の大火で焼失を免れましたが、関東大震災の時には倒れはしましたが壊れなかったため、そのまま建て直されました。

向唐門造りで側面の大棟に 「菊の御紋」 と屋根の下に 「葵の紋」 が見られ、境内最古の建造物とのことです。

 

 ふじさわ宿交流館 10:28                                                藤沢宿は江戸時代には旧東海道の宿場町として、大山詣でや江ノ島詣でをする人々の交通の要衝として賑わいました。                                      交流館は藤沢の歴史や文化に触れ、人々が交流できる場として平成28年(2016)に開館しました。

 遊行寺橋・高札場跡 10:35                                           東海道は藤沢宿内の大鋸(だいぎり)橋(現在の遊行寺橋)で境川を渡ります。                       橋のたもとには高札場がありました。

高札場とは、幕府や領主の命令などが木の板に書かれた「高札」を掲げる場所で、人通りが多い宿場の中心に置かれました。

   

 江ノ島弁財天道標 10:51                                            江ノ島道に建てられた道標は江戸時代の検校(けんぎょう)杉山和一(1610~1694)の寄進によるものだそうです。                                                杉山検校は江ノ島弁財天を信仰したおかげで管鍼術を会得し、徳川綱吉の病を治して幕府から優遇され、江戸、関東の盲官の最高位である惣録検校まで上り詰めました。                    終生、江ノ島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために藤沢宿から江の島までの道案内に、道中 48基の道標を建てたと云われています。

現在、残っているのは 14基ですが、12基が藤沢市にあり市の重要文化財に指定されています。

 

 義経首洗い井戸 11:12                                           文治5年(1189)源義経は奥州衣川で、頼った藤原一族に攻められ、敗れて自害しました。  その首は黒漆櫃に納められて鎌倉に送られ、腰越で首実検にかけられた後、そのまま浜に打ち捨てられたと云われています。                                       言い伝えによれば、金色の亀によって境川を遡り藤沢に運ばれた義経の首は里人に拾われ、洗い清められ首塚に丁重に葬られたということです。

 養命寺 11:47                                                  引地山 養命寺といい、元亀元年(1570)に創建された曹洞宗の寺院です。          御本尊の 木造薬師如来坐像(像高 90.5cm) は鎌倉時代初期に造られたもので、運慶様式の作例とされ、昭和2年(1927)に国の重要文化財に指定されています。                    檜の寄木造・内削りで玉眼を入れ木肌に下地に布を貼って漆を塗った上に金箔を置いた作りになっています。                                                  寺内の格子天井には 224面の天井絵は、とても美しいそうです。

 耕餘塾(こうよじゅく)跡 12:05                                               耕餘塾は明治5年(1872)、羽鳥村名主 13代目 三觜(みつはし)八郎右衛門佐次郎が教育普及のため、小笠原東陽を招いて開いた郷学校の読書院(とくしょいん)に始まるようです。       東陽(1830~1887)は美作国(岡山県)勝山藩士 小笠原忠良の三男として生まれ、26歳で昌平坂学問所に入り儒学を修め、池上本門寺で僧たちに漢学を教えていた所、三觜右衛門によって藤沢に招聘され、廃寺となっていた徳昌院の跡地に読書院を開きました。

学制布告で羽鳥学校と改称しましたが、東陽は羽鳥学校とは別に読書院を残し独自の教育を続けました。                                                      こちらの塾からは、吉田茂(総理大臣)、平野友輔(衆議院議員)、鈴木三郎助(味の素創業者)ら政界・実業界で活躍した多くの人材を輩出しました。 

第45代内閣総理大臣 吉田茂      味の素創業者 鈴木三郎助      衆議院議員 平野友輔 

 

 

 

                                     

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🐾 旧東海道:戸塚宿 🐾

2024年12月24日 | 日本の歴史

江戸日本橋を起点として始まる東海道五十三次の五番目の宿場町 『戸塚宿』 を歩いて来ました

今から約 400年ほど前の旧東海道と言っても幾多の変遷を経て現在に至り、部分的な面影を探しながら歩く形であります。

戸塚駅東口を9時半に出発。 駅そのものが『戸塚宿』の中とのことです。

『戸塚宿』について

慶長6年(1601)東海道に宿駅伝馬制度が制定された時には、保土ヶ谷と藤沢は宿駅に指定され宿場町となっていましたが、その間にある「戸塚」は指定されませんでした。

戸塚宿は日本橋から10里18町(41.2Km)の位置にありました。                    江戸時代の旅では、健康な成人は一日当たり 10里の行程を歩くのが普通であったようです。

日本橋から10里余、箱根越えを控えた小田原宿までも10里余という立地にあり、旅人にとって戸塚は宿泊するのに最適な地でありました。

江戸寄りの保土ヶ谷宿へは品濃坂の急坂を越える2里9町(8.8Km)の道のり、京寄りの藤沢宿へは大坂の急坂を越える2里(7.9Km)の道のりで、保土ヶ谷宿から藤沢宿までは4里余の道のりがあり、2宿間の距離が長く、更に品濃坂、大坂という急坂を登り下りするため人馬が疲弊することが多かったようです。 

このため旅人は正式ではなかった戸塚宿に宿泊したり、同町の人馬を使って藤沢宿や保土ヶ谷宿まで荷物を運んだりすることが行われ、戸塚宿では相応の駄賃を取得して、街道稼ぎを生計にしていた人が沢山いたようです。

こうした状況に対して、保土ヶ谷宿は同情的でしたが、藤沢宿は公用の人馬を負担していない戸塚宿が人馬を出して駄賃稼ぎをするのは不法であると代官の彦坂元正に苦情申し立てをしました。                                             このため、幕府は戸塚宿に対して「伝馬御用を果たさず届け出もせず勝手に街道稼ぎをするのは不都合」と通達を出しました。

そこで戸塚の有力者である澤邊宗三は保土ヶ谷宿と藤沢宿に了解を取る交渉をしながら、幕府に宿駅開設を強く働きかけ、慶長9年(1604)戸塚宿成立にこぎつけました。

 

戸塚宿の宿内の町並みは20町余(2.2Km)で、江戸方より矢部町・吉田町・戸塚町の3町で構成されていました。                                              戸塚町は一丁目から六丁目まであり、それぞれ上宿、中宿、台宿、天王宿、田宿、八幡宿の別名で呼ばれていました。                                              宿の規模は、天保 14年(1843)編纂の『東海道宿村大概帳』によれば、人口 2,906人、家数 613、本陣 2、脇本陣3、旅籠 75で、問屋場は矢部町・吉田町・戸塚町中宿の3ヶ所が交代で務めていたとの事です。                                              旅籠 75軒は近隣の宿場町の中で、品川、小田原に次ぐ多さであった。

こんな形で『戸塚宿』が誕生しました。

                            

この後は戸塚宿の街道沿いを歩きながら面影の残る場所を、ご紹介して往きます。

 

戸塚競馬場跡 9:50                                                 昭和8年(1933)吉田町に神奈川県畜産組合連合会の経営する 競馬場ができました。

上の写真の右手が競馬場になります。前の道路は当時の鎌倉街道だそうです。            競馬場は昭和 17年(1942)に汲沢に移転し、跡地は現在 日立製作所になっています。

 

日蓮宗 妙秀寺 9:57 

こちらのお寺の境内には、延宝2年(1674)の鎌倉街道の石道標が残されています。     ガイドを担当して下さった藤井さん。  

有名な歌川広重の『東海道五十三次之内  戸塚』 に描かれた道標が移築されたものと考えられていますが、浮世絵中の道標は「左 かまくら道」となっているのに対し、境内にある道標は「かまくらみち」となっています。

 

吉田大橋 10:07                                                  江戸時代、大橋は広重の浮世絵に描かれ、戸塚宿を代表する場所の一つとなりました。    絵の左側に描かれている「こめや」 は旅籠屋で、旅籠屋の軒先には講中の名前を書いた講中札が何枚も吊り下がっています。                                           この札は、この旅籠屋が講仲間や旅人が安心して泊まれる特約旅館であることを示しているのだそうです。                                                   絵の中央辺りに「左 かまくら道」と記された道標が見えます。                           ここは柏尾川沿いに下って鎌倉へつながる川沿いの分岐点で、現在の大橋は「吉田大橋」と呼ばれています。

柏尾川に架かる吉田大橋 、左が鎌倉道、左の橋の角に石道標が建っていたようです。

江戸時代には夜明け前に日本橋を出発し、一日歩いてここで宿をとるのが定番であった。   大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、当時は大変に賑わっていた所のようです。

 

清源院 10:50                                                浄土宗のお寺で、徳川家康の側室 お万の方ゆかりのお寺です。                            本尊は徳川家康から拝領した歯吹(はふき)阿弥陀如来で、境内には松尾芭蕉の句碑 心中句碑があり、墓地最上部に お万の方の遺骸火葬跡(当時としては珍しい)の碑があります。                        また、鎌倉郡三十三観音二十二番札所であり、千手観音が祀られています。                       本堂正面の扉には葵の御門が見られます。

 

澤邊本陣跡 11:15                                                   澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。                             本陣創設時の当主 澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。   明治天皇の東下の際には行在所になりました。

 

海蔵院 11:23                                            海蔵院は臨済宗 円覚寺派の寺院で惠照山 海蔵院と号します。                    本堂には御本尊の釈迦如来像と観世音菩薩、十一面観音菩薩、持ち上がり地蔵などが安置されています。

山門の入口右手にある像は平成 26年(2014)1月から始まった戸塚宿七福神巡りでお参りされる布袋尊(山門右手)で、山門上部には左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があります。

 

八坂神社 11:33                                               通称「天王さん」と呼ばれ親しまれている神社で、また戸塚宿の鎮守であり、祭礼当日の参詣人は当地随一の賑わいを見せるそうです。

この神社の祭日である7月 14日に行われる 『お札まき』 は女装した 10人ほどの氏子が、音頭に合わせて歌いながら円を描いて踊り、「正一位八坂神社御守護」と刷られた5色のお札を 団扇 であおって撒くそうです。

風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であります。

 

上方見付跡 11:55                                                                                                                      戸塚宿の上方側、すなわち京側の出入り口を示す土居が街道の両側にあり、京に向かって左側に松、右側に楓が植えられていました。                                   江戸方見付から上方見付までの戸塚の宿内は長さ 20町余(2.2Km)でした。

 

大坂台の庚申塔群 12:01                                          上方見付を過ぎると直ぐ登り坂にかかります。この坂が大坂です。                       『新編相模国風土記稿』に「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれているように、かつては2つの坂から成っていたようです。                 今は拡幅、舗装されて割合緩やかな坂になっていますが、昔は急坂で荷車、牛馬車などは真っ直ぐには登れず、車の後押しを商売とする人に助けられ蛇行しながら登っていたそうです。

庚申塔は3年間にわたって庚申待ちを続けた記念などに建立された石碑で、十干十二支の組み合わせで 60日に一度やって来る庚申の日の夜を眠らずに過ごして無病息災を祈るのが庚申待ちです。

こちらの庚申塔は道路改修工事にあたって大坂周辺から集められたものです。

 

大坂上の松並木 12:27                                              天気の良い日、汗を拭き拭き2つの坂を登り切ると松並木の続く道で、その合間から富士山が見える素晴らしい景色は多くの浮世絵の画題となりました。

松並木は、慶長9年(1604)、家康の命により街道に植樹されました。                     大坂を登り切った辺りから遊行寺坂上に至る街道には高さ 30mほどの松の巨木が立ち並び、その数は2千数百本もあり大変壮観であったようです。

ですが、第二次世界大戦末期の軍による松の伐採や昭和 30年(1955)頃からの排気ガス、松喰い虫の被害そして道路の拡幅工事が進み松並木は失われてしまいました。 

 

浅間神社 13:00                                                  原宿村の鎮守で、祭神は木花佐久弥毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。                     富士山信仰に基づき村内安全を祈願するため勧請され、永禄年間(1558~01570)に創建された神社で、玉縄城主 北条左衛門大夫綱成の崇敬が篤かったといわれています。

社殿は安政5年(1858)に再建され、改修を経て現在に至り、参道の両側にはスダジイの大木が何本もあり、中には樹齢 600年を超えるものもあり横浜市の名木古木に指定されています。

浅間神社の境内から霊峰 富士山が望めました。                                  

 

 

 

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🐾 旧東海道:保土ヶ谷宿 🐾

2024年11月15日 | 日本の歴史

保土ヶ谷宿は、慶長6年(1601)徳川家康が東海道に宿駅伝馬制度を制定すると、神奈川・藤沢などと共に、幕府公認の宿場として誕生しました。                                               江戸から約 33Km(8里9丁)で品川・川崎・神奈川に続く4番目の宿場です。                日本橋を起点とした東海道は品川、神奈川と海沿いの道を進み、次第に海から離れ内陸部に入った場所に位置していたのが 『保土ヶ谷宿』 でした。

宿場が担う役割は、荷物の運搬に要する人馬などの継立や旅人の休泊施設の提供、飛脚の業務などがありました。

街道は幕府によってすべての管轄が定められていました。                 保土ヶ谷宿は、芝生(しぼう)村追分(現在の西区との境)から、境木(さかいぎ)地蔵(現在の戸塚区との境)まで約5Kmで、追分から北は神奈川宿、境木地蔵より南は戸塚宿の管轄となっていました。

                              

相鉄線 天王町駅を9時 20分出発。

天王町駅前公園の帷子(かたびら)橋跡から香象院~問屋場跡~金沢横丁~御所台の井戸~福聚寺~本陣跡~瀬戸ヶ谷八幡社~一里塚~樹源寺~権太坂~境木地蔵尊~品濃一里塚の順に約7.0Kmを歩いて来ました。

                           

帷子(かたびら)橋跡                                                   保土ヶ谷宿に入って、東海道が帷子川と斜めに交差する所に架けられていた橋が「帷子橋」とのことです。

橋の長さは 15間(27.3m)、幅は3間(5.5m)の板橋でした。                    歌川広重は、付近の景観と相まってこれが大変気に入り何枚もの浮世絵を残しているそうです。                                          天王町駅前には当時を偲ぶモニュメントが残されています。

普賢山 香象(こうぞう)                                                 ご本尊は不動明王立像だそうです。                                            保土ヶ谷宿で最大の 寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となったとのことです。

仏足石(仏の足裏の形を刻んだ石)や寺名に因んだ象の置物があり、香象とは青色で香気を帯び大海を渡るという象で強力な力を持つといわれています。

旧東海道を歩くと、現在では都市計画により区画整理が行われているので、各所にこの辺りに何々が有りましたという解説板や案内柱で示されています。

金沢横丁の石碑(道標 )                                          東海道と分岐して金沢や鎌倉への分岐点を「金沢横丁」と呼んだようです。                  金沢を経由して鎌倉に至り、更には江の島を巡って藤沢で再び東海道に合流することになる代表的な物見遊山のコースであったようです。                                  曲がり角には道案内の石碑が四基並んでいました。

御所台の井戸                                      この道は旧金沢道(金沢・浦賀往還)、俗称「金沢横丁」と呼ばれる道で古くより鎌倉へ至る道として知られていました。

鎌倉時代、源 頼朝の妻政子が、ここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ「御所台の井戸」と呼ばれています。

無量山 福聚寺 臨済宗建長寺派                                                       開山は南北朝時代(1335年)で、ご本尊は釈迦如来像。

本堂の裏手に十返舎一九の弟子である五返舎半九の供養塔がありました。                    半九は江戸時代後期の戯作者で落語の原作『落噺(おとしばなし)仕立て下ろし』などの作品があるそうです。

本陣跡                                                     保土ヶ谷宿の本陣は苅部本陣一ヶ所だけでした。                                  保土ヶ谷宿が設けられると、苅部清兵衛が幕府より本陣、問屋、名主の役を命ぜられ、以降 明治3年(1870)、本陣の制度が廃止されるまで代々清兵衛を世襲してきました。(現在は軽部姓)

東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊し、本陣が混雑した際は脇本陣に宿泊したようです。                                        保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣があったそうです。

                                 

旅籠 本金子屋跡                                             本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。                                     明治2年に建て替えられた現在の建物も東海道沿いに建ち、格子戸など旅籠の面影を残しています。

過去に国道1号線が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。 現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。                   ガイドして下さる平岩さん  

復元した一里塚と上方見附モニュメント                                平成 19年2月に一里塚と松並木が復元されました。 

一里塚は行程の目安として一里ごとに小高く盛り土をして榎を植えたものであり、ここは江戸から8番目の一里塚です。                                            見附は宿場の門の役目で、京都に近い方を「京方見附」もしくは「上方見附」と言い、上方見附から江戸方見附までは家屋敷が街道沿いに沿って建ち並び「宿内(しゅくうち)」と呼ばれています。

国号一号線の権太坂。 お正月に 箱根駅伝の選手 はここを走ります。

歴史の道 『権太坂』                                            この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい登り坂でした。

日本橋から4番目の宿場であった 保土ヶ谷宿 まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西辺りより長く続く険しい登りとなります。

「新編武蔵風土記稿」によれば、保土ヶ谷から登る坂は一番坂、二番坂と二つの坂があったと書かれ、また「その地形十丈(約 30m)余りも高く、屈曲して長き坂なり。故に街道往返の人、この所を難所とす・・・・・」 と書かれるほどに傾斜のきつい大変な急坂で、民家もなく道の左右は鬱蒼として松の老木が立ち並んでいたといいます。

                                                          きつい坂を登り切れば、松並木が続き景色も良く富士が 眺められ、目の下に見える神奈川の海は大変美しかったとあります。                              旅人にとって印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所となりました。

境木(さかいぎ)地蔵尊                                                 境木地蔵は丁度、武蔵国と相模国の国境にあり、境木地蔵の手前には昔、国境に立てられたという傍示杭が平成 17年(2005)に復元されました。

この辺りは、境木の立場(休憩所)があった所で、保土ヶ谷からは難所の権太坂を登り切った所、また戸塚側からも品濃坂を登り切った所でしたので見晴しも良く、茶店などもあり、旅人は名物の牡丹餅 を食べながら疲れを癒した所の様です。

境木地蔵尊の創建は江戸時代初期(1659年)江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝されたようです。

品濃一里塚                                                    江戸日本橋から9番目となる品濃一里塚です。                                      こちらの一里塚は、街道の左右につくられ、直径が6間(約 11m)、高さ3間(約 5.5m)で、塚の上には大きな榎が植えられていました。

現在、神奈川県内でほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定文化財 になっています。

品濃一里塚を下り、全行程 約 7.0Kmを歩き、JR東戸塚駅に到着しました。

 

 

 

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🚢 横浜開港当時の神奈川宿を歩く 🚢

2024年10月19日 | 日本の歴史

今回は東海道ウォークガイドの会主催の月例会に参加させて頂きました。

横浜の開港前は戸数 101戸の半農半漁の横浜村が一躍時代の脚光を浴びたのは、安政5年(1858)に結ばれた日米修好通商条約で神奈川の開港が決まってからとのことです。                 『横浜開港当時の神奈川宿』や開港場への道『横浜道』という古い道はアップダウンが多く歩き甲斐のある所をガイドさんと共に歩いて来ました。                                               ガイドさんの話では横浜の平地は海を埋め立てた所だけですとのことでした。

JR 東神奈川駅を9時半、出発。                                ガイドをして下さった、お元気な中野さん。 

東海道五十三次の日本橋より数えて三番目が神奈川宿であります。                       宿内は 18町 29間で江戸よりの神奈川町と京よりの青木町の2町で構成され、規模は江戸後期で人口 5,793人、家数 1,341、本陣 2、旅籠は 58軒だったそうです。

日米修好通商条約上の開港は神奈川でしたが、幕府は神奈川に居留地を置けば、東海道の通行に支障が起こるとし、対岸の横浜村に長崎の出島と同様の外国人を囲い込む居留地づくりを進めたそうです。                                                  それに対し、アメリカをはじめ条約を結んだ各国は、これに抗議し条約通り神奈川宿の寺院に領事館を置き神奈川の開港を迫りました。

アメリカ領事館:本覚寺                                           オランダ領事館:長延寺                                           イギリス領事館:浄龍寺                                              フランス領事官:慶運寺

開港は決まったものの、当時は東海道筋から横浜村への交通は不便を極めていた。          開港場の建設と共に重要な課題は、東海道と横浜開港場を結ぶ新道の開設でしたが、開港の直前、安政6年(1859)に工期3ヶ月の突貫工事で横浜道が完成しました。

当時の慌しい中に建設された『横浜道』を歩きながら、残されたものを見て来ました。

今年 2024年は、横浜開港 165年になるとのことです。

 

まず最初に正覚山法雨院「成仏寺」を訪ねました。

嘉永7年(1854)横浜で行われた日米和親条約交渉の応接掛(特命全権大使)林大学頭の宿舎になり、日本開国の最前線基地のお寺でした。

横浜開港の3ヶ月後、アメリカの宣教医ヘボン博士は寺の本堂を、宣教師ブラウンは庫裡を宿舎としたそうです。                                        ヘボン博士は日本で最初の和英辞典を編纂、それによりヘボン式ローマ字を広めたことや、青少年の教育などに尽力されています。                                   【男子は後の明治学院、女子は後のフェリス女学院】 

当時はまだ「キリスト教禁止令」が解除されていませんでしたが、日本で初めて日曜礼拝も行われ領事館員、商館員、水兵、船員らが参加して、この寺から 讃美歌 が聞こえてきたそうです。

 

 開塔山 宗興寺    

ヘボン博士は医療宣教師で医師でもありました。

この宗興寺を施療所として6ヶ月間で約 3,500人の患者を無償で診療しました。           奉行所は最初この診療を黙認していましたが、やがて患者が評判を聞きつけ殺到し、驚いた幕府は開所半年後に閉鎖を命じたとのことです。

 

 青木山延命院「本覚寺」へ

開港当時、アメリカ公使ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、更には湾内を見通すことが出来る本覚寺をアメリカ領事館に決めたそうです。      生麦事件の際にはヘボン博士が負傷者の治療に当たりました。

神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町辺りは、かつて神奈川湊を見おろす景勝地でした。

 

神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863)創業の田中屋です。

田中屋の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れたそうです。                         また、坂本龍馬の妻「おりょう」が田中屋で働き始めたのは明治7年、勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。                                         英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。

 

 神奈川台関門跡                                              安政5年(1858)9月に始まった「安政の大獄」により開国に反対する浪士の行動が日毎に不穏となっていき、ついに横浜でロシア人士官と水兵、フランス領事館の清国人が殺傷される事件が起こりました。                                                イギリス総領事オールコックから浪士取り締まりのため関門設置の要求があり、これを受けて幕府は神奈川台などに関門7ヶ所、見張り番所 10ヶ所を設置しました。                  関門には木戸門・面番所があり、同心、足軽を配置して警戒に当たらせていたといいます。

神奈川宿の東西にも関門が造られ、そのうちの西側の関門が神奈川台の関門だそうです。

 

 横浜道入口 

開国に踏み切った幕府は神奈川(横浜)の開港を定めたが、東海道筋から横浜へ至る道が無く、東街道筋の芝生(しぼう)村(現:浅間町)から横浜(関内)に至る『よこはま道』と呼ばれる新たな道路を開いた。

 

11時 10分、横浜市西地区センターに到着。 15分、の 休憩。

 

 

 二代目横浜駅遺構                                           明治5年(1872)、新橋~横浜間で日本初の 鉄道が開業しますが、横浜の駅は 海運との接続を考慮し、港に近い現在の桜木町駅の位置に設置されました。(初代横浜駅)             その後、国府津駅まで路線が延伸され線路配置はスイッチバック構造になり、横浜駅には貨物が滞留し短絡線を設置するも解決に至らず、 横浜駅を移転させました。(二代目横浜駅)            その際に初代横浜駅は 「桜木町」駅 と改称されました。

二代目横浜駅は東京駅の様な煉瓦造りの駅舎で、大正4年(1915)に建設されました。が、8年後の大正 12年(1923)の関東大震災により焼失してしまいました。                   短命だったため 『幻の横浜駅』 と呼ばれました。

東海道線の運行が今の様になり、現在の「横浜駅」(三代目:開業 1928年)に移転しました。

 

 井伊掃部頭(いいかもんのかみ)ゆかりの地                                     江戸時代まで、この辺りは「不動山」と呼ばれる 海に面した 高台であったようです。     明治初期には、日本初の鉄道 開通に携わった外国人技師の官舎が建てられ鉄道事業の拠点となり、鉄道開業後も、この山の地下水が鉄道用水に使われたことなどから「鉄道山」と呼ばれるようになりました。

明治 17年(1884)、旧彦根藩士(滋賀県)らが一帯を買い取り庭園化し、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)にちなみ「掃部山」となりました。

明治 42年(1909)、横浜開港 50周年を記念し井伊直弼の銅像が建立され、同時に井伊直弼の子息:直安によって水泉も設置されました。

大正3年(1914)には井伊家より、この地は横浜市に寄付され、植樹、設備を整え、掃部山(かもんやま)公園として開園しました。 

 神奈川奉行所跡                                               横浜開港に備え、開港場の建設と運営管理のために設置されたのが神奈川奉行所です。

この地にあって内政事務を執り行う「戸部役所」、開港場の中心部に置かれ外交・関税事務を執り行う「運上所」、神奈川湊の渡船場付近で人馬の管理事務を行う「会所」の3ヶ所に分かれていました。                                             慶応4年/明治元年3月 19日、神奈川奉行所は廃止され、横浜裁判所が置かれました。      運上所は後に横浜税関になりました。

 

 

 野毛の切通し                                         元は細々とした江戸時代の保土ヶ谷道が通っていましたが、横浜開港が決まると東海道と開港場を結ぶ横浜道として丘陵が大々的に開削され、野毛の切通しが設けられました。           更に関東大震災からの復興時など順次、切り下げ拡幅されました。                      昭和 40年代までは市電が走っていました。

開港場である関内を挟んで、東の山の手は外国人居留地に、西の野毛山は日本人豪商の居留地となりました。                                                    野毛山の動物園一帯には、かつて当時の横浜を代表する実業家である茂木惣兵衛の和風建築が連なる大邸宅が、他方  動物園に隣接する散策地区には、原 善三郎(原三渓の様祖父)の豪奢な洋館の邸宅が、切通し沿いには生糸取引や金融で財を成した平沼専蔵の別邸がありました。   一帯 の施設はみな関東大震災により崩壊しましたが、唯一の 遺構が旧平沼専蔵邸の石積み(亀甲積み)擁壁でした。

震災後、防災の観点から公園緑地が見直され、跡地は野毛山公園などになりました。 

 吉田橋関門跡                                                   横浜道が完成すると同時に、開港場の入口と吉田新田の入口の間に橋が架けられ「吉田橋」と呼ばれました。

吉田橋が設置されると、ここが交通の中心地となり治安維持のため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。                         関内、関外という呼び名は この時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、関内の内側一帯は現在でも『関内』と呼ばれています。                                                      

 

 

 

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👞 旅人、箱根旧街道を歩く 👞

2024年10月12日 | 日本の歴史

小田原から三島までの道のりを『箱根八里』といい、街道で最も難路であったと云われていました。                                               この八里のうちの二里半(約 10Km)が箱根旧街道の東坂となります。                  江戸幕府が開いた旧東海道。                                             かつては竹を敷いていたそうですが、その後「二子石」など周辺の石材を使って石畳の道となったようです。

箱根湯本駅から元箱根への箱根旧街道東坂を、江戸時代の旅人気分に浸りながら歩いて来ました。                                                       箱根湯本駅を7時 46分出発。

駅前通りを南西に進み温泉街を抜けて県道に出た。                        県道は狭く、意外と車が多いので、気にしながら登る。                     途中、正眼寺に寄り仇討ちで有名な曽我兄弟の菩薩供養の堂宇「曽我堂」を参拝したりとノンビリ進んだ。                                                 8時 37分、県道と別れる箱根旧街道入口を通過。右下に下る。

ここは一時的に県道を外れるが、再び県道に戻ります。                           この県道の下に延宝8年(1680)江戸幕府が箱根旧街道に石を敷いたと云われる面影の残る道が約 255m程あるとのことで、そこを歩かせてくれる為にわざわざ県道を外れているのです。  国の史跡に指定されています。 

再び県道に戻り、9時 16分 須雲川自然探勝歩道入口を通過。

ここから須雲川に下ります。

10分ほど下ると三枚橋発電所の沈砂池に突き当たり、右に下ると須雲川に出ます。       ここは大雨で増水している時は県道歩きとなりますが、普段は丸太橋で左岸に渡ります。

川から上がると県道に出ますが、目の前に「割石坂」と標示された案内板があり、その横の遊歩道を登って行きます。

登り出して直ぐに石畳となり距離は短いようですが、部分的に江戸時代の石が再利用されているとのことです。

箱根旧街道に沿って県道が造られているようで、何度も横断しながら登って行きます。    9時 46分、箱根旧街道の道標に従い石段を下り、飛龍ノ滝から流れる沢を渡り山道を進む。

登り返しは苔むした急な石畳「大澤坂」を登る。

急な大澤坂を登り切り車道に出た所が『畑宿』です。10時 03分通過。

江戸時代初め、徳川幕府は街道や宿場を整備し交通基盤を整え、更に距離を明確にするため、街道の一里(約4Km)毎に一里塚を置きました。

寄木細工の店が並ぶ畑宿、三連休前の平日であり畑宿寄木会館はお休みでした。

 

一里塚は旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。

旧街道一里塚の石柱前から、更に石畳を進みます。

車では急坂を大きく蛇行しながら登って行きますが、旅人は小さな石畳の歩道橋を渡り、蛇行せずに西海子坂(さいかちざか)の急坂の登りが始まります。                           ここを登り切ると七曲がりの車道歩きになりますが、歩道が確保されています。

橿木坂(かしきさか)通過、10時 26分。

車は蛇行して登る所を、旅人は急階段を幾つも登らなければならず厳しかった。           見晴茶屋への分岐点に到着、10時 45分。

見晴茶屋前の広場から休憩しながら眺めた、湯本方面と相模湾。                     登ってきたなァ~ と感じ、疲れが飛ぶ。

見晴茶屋を過ぎると西側に聳える下二子山(標高 1065m)の南側を巻くように進み、甘酒茶屋を目指します。

                                                  山根橋通過。

                            

箱根旧街道には❝ 雲助 ❞と呼ばれる人たちが居ました。                            『箱根の雲助』というと、何か?悪者の様に思われていますが、実は小田原の問屋場で働く人足達だったのです。                                             ただ、❝ 雲助 ❞という悪者は ほんの一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割り当てていましたので、悪さをした人などいなかったといいます。

日本交通史論という資料によりますと、❝ 雲助 ❞になるのは次の3つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなか難しく誰でも直ぐになれるという職業ではなかった。

 力が非常に強いこと。                                             これは仕事の性質上絶対に必要なことでした。

 荷物の荷造りが優れていること。                                      荷物を見ると、誰が造ったものかわかるそうです。                              箱根で一度荷造りした荷物は京都まで決して壊れることはなかったそうです。

  を歌うのが上手でないと一流の❝ 雲助 ❞とは言われなかったそうです。

                               

甘酒橋通過、10時 52分。

猿滑(さるすべり)坂通過。                                                 こちらは『新編相模国風土記稿』に「殊(こと)に危険、猿猴(えんこう)といえども、やすく登り得ず よりて名とす」と難所らしい坂の名の由来が書かれているとのことです。

追込坂通過、11時 11分。                                           ここまで来ると車道の一段上を歩く平坦な道となり、甘酒茶屋近し。

11時 25分、甘酒茶屋到着。                                          道中には「甘酒」をふるまう茶屋が設けられる様になり、文政年間(1818~1829)には『甘酒小屋』と記録があり、箱根地域には9か所設けられていたようです。

江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。    東海道は その中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本~箱根関所間、通称「東坂:ひがしざか」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通1日十里(一里は4Km)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。

 

甘酒茶屋付近で見かけたノコンギクとホトトギス。

旧街道最高地点に近い最後の石畳入口通過、11時 44分。

最初はこれほど長い石畳の道が続いているとは思っていなかったが、最後の石畳はじっくりと味わいながら歩いた。

権現坂からコースを外れるが、お玉ヶ池に寄ってみた。                           左:二子山、右:下二子山がスッキリと見えた。

再び、権現坂に戻る。12時 35分。

芦ノ湖に向けて一気に石畳を下る。

12時 39分、杉並木が見えた~ッ 

 

薄暗い所が長かったので、明るい芦ノ湖畔に出てみた。富士が少し顔を出してくれていた。

13時15分、ゴールとしていた箱根関所に無事到着いたしました。 

 

箱根旧街道、予想以上に長い石畳を歩けて十分満足しました。                        湿気があり石に苔が付いていたりするので、今はスリップに注意しないといけないですが、昔の旅人は草鞋(わらじ)でしたから安全に歩けたのですね。

 

 

 

 

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🐾 宿場町:由比 🐾

2023年02月25日 | 日本の歴史

歌川広重が東海道五十三次で描いた浮世絵の『由比』は「薩埵(さった)峠」からではないかと云われ、そこからの富士を眺め、由比宿を見学しながら由比駅に戻りました。

昔は「由井」という字が使われていた この由比の町は東海道の 53宿中、16番目の宿場町で当時はおよそ 700人程の人が住んでいたといわれています。

歌川広重 完全復刻愛蔵版『東海道五拾三次』55図揃和紙大判錦絵 ...

薩埵峠から下って来たら、由比宿に入る案内板が出ていました。

蒲原宿(十五番)       由比宿(十六番)       興津宿(十七番)

広重東海道五十三次の蒲原宿の浮世絵広重東海道五十三次の興津宿の浮世絵

十五番目の蒲原(かんばら)宿は、現在の静岡県静岡市に置かれた宿場で、浮世絵は雪景色 しんしんと静まり返った夜の様子を描いたのだそうです。                                  十六番目の由比宿は、山と海が迫り東海道の難所の一つといわれ、難所ではありましたが富士の見える美しい風景で有名な宿場でありました。                                 十七番目の興津(おきつ)宿は、由比町とは打って変わり平坦な道が続き、川を渡る力士の旅が描かれているとのことです。                                             力士ということで、身体が馬からはみ出していたりとユーモラスな一枚となっています。

午後になると雲 が出て来るので、必死に歩いたつもりなのですが浜石岳で見た時よりも、雲が煙の様に流れていました。

                            

主な目的のコースは歩いたので、薩埵峠を下ってからは観光客気分でノンビリ。

坂を下って由比宿の町並みが見えて来た。 13時 20分。

下り切った左手には「一里塚跡」の石碑。 ここは日本橋から 40番目の西倉沢一里塚跡。

坂を下り一里塚跡の道の反対側には、間(あい)の宿「藤屋」という当時の茶屋がありました。  薩埵峠の東側登り口に位置していることから、一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶屋を営み磯料理、アワビ、さざえのつぼ焼きを名物としていたとのことです。         また、店内の部屋からは富士山の眺望が良いので「望嶽亭」とも呼ばれ文人墨客が好んで休憩をされたようです。

明治天皇御小休所「柏屋」                                          江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいたそうです。                   明治元年(1868)及び 11年(1878)、明治天皇ご行幸のみぎりは、御小休所に当てられた茶屋であったとのことです。

由比宿の町並み  

(あい)の宿 川島家                                                   西倉沢は薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があって旅人は ここで茶を飲み、疲れを癒し駿河湾の風景を賞して旅立って行かれたとのことです。            ここ川島家は、江戸時代 慶長から天保年間およそ 230年間、代々「川島勘兵衛」を名乗り、間の宿の中心をなし、大名も ここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村 名主も務めた旧家であったそうです。(右手の平屋の建物です。)

住民の方が生活されており、長野県の妻籠宿奈良井宿の様に宿場全体が当時のままの町並みではありませんが、史跡名勝が沢山見られました。

由井宿場町の途中から見えた富士山、東名高速道路、国道バイパス、東海道本線。      東海道の「親知らず」、海に山が迫った狭い場所に日本の大動脈がひしめき合っています。

小池邸                                                   小池家は江戸時代、代々 小池文右衛門を襲名し寺尾村の名主を代々務めてまいりました。   名主は年貢の取立て・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でも、最も重要な役割を担っていたとのことです。

この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成 10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されたそうです。

東海道の賑わいと共に発展した由比町は、空襲に遭わなかったこともあり、東海道の宿場町の中でも比較的 江戸の面影を今に伝える建物が多く残っています。

                                                    桜エビ、しらす漁の他、温暖な気候を生かした夏ミカンやオレンジなどの柑橘類やビワの栽培が盛んに行われています。

計画通り、由比駅~浜石岳~薩埵峠~由比宿~由比駅の周回コースを完歩し、13時55分、由比駅に無事到着しました。

 

 

         ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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🏯 初夏の小田原城 🏯

2022年06月15日 | 日本の歴史

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。

16 世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、 関東支配の拠点として次第に拡張されました。                                           豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。

北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。            その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。

 

稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。

                     

小田原駅の東西自由通路を東口に出ますと南側に小田原城を望むことが出来ます。

東海道五十三次の9番目の宿場町として栄えた小田原宿であり、城下町としての雰囲気を楽しみながらお城に向かいます。

ノンビリ歩いても10分ほどで城址公園北側の入口に到着します。             本丸広場に向かい坂を登ると、覆いかぶさるように天守が見えてきます。

本丸広場から望む天守閣。

明治3年(1870)に小田原城は廃城となり売却された後、次々と解体されました。      城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ現在に至っています。          現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が国の史跡に指定されています。

本丸広場から南東側の常盤木門へ進みます。

常盤木門は江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に作られていました。                                        元禄 16年(1703)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870)の小田原城廃城の際に解体撤去されたようです。   

                                           常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繫栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。

 

常盤木門を抜け階段を下ると、本丸東堀に架かる常盤木橋(赤い橋です。)を渡り二の丸広場に出ます。

江戸時代の小田原城本丸の周囲は堀に囲まれていました。                      本丸東堀は発掘調査の結果、幅 20m以上の規模を持つ水堀で現在よりも5m以上深さがあったようです。

本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生(あいおい)橋を渡り鉄(くろがね)門から入るルートがあり、こちらの常盤木門から入るルートが正面入口であったようです。

 

 

御茶壺曲輪から見た銅(あかがね)門。

現在の銅門は昭和 58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年(1997)に復元されたものです。

銅門は小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壷曲輪は住吉堀によって隔てられています。江戸時代には馬出門土橋(現在のメガネ橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守閣へと進むようになっていたようです。

 

正面入口のメガネ橋を渡ると見える一番最初の馬出門。

三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門になります。

今回は正規登城ルートの逆を歩いてみました。                           メガネ橋を渡り、お堀端通りからお堀越しに隅櫓と天守閣を遠望しました。

の時期も素晴らしい小田原城址公園であります。

 

 

      ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

 

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🕊 沖縄の日本復帰50年 🕊

2022年05月18日 | 日本の歴史

1972年5月15日、沖縄の日本復帰。

天皇陛下のお言葉より (抜粋)                                     沖縄には、今なお様々な課題が残されています。                          今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。

復帰時の『沖縄を平和の島とする。』という目標が『復帰から50年経ってなお達成されていません。』

 

米軍嘉手納基地から約2Kmの自宅で幼少期を過ごされた河野立子さんが、沖縄復帰時、小学5年生だった時の詩が朝日新聞に掲載されました。

私のねがい

復帰は

パスポートなしで

本土への行き来ができる

算数の本に出ているような

円生活に入る

 

1ドルは308円にかわり

お店では

今、わたしの着ている

7ドルのスカートが

2156円になる

お米が

バナナが

ノートが

何でもかんでも

×308

きっと、頭が

こんがらがるだろうな

 

毒ガス

ばく音

ひきにげ

B52

苦しかった沖縄

 

復帰で

沖縄はほんとに

すくわれるだろうか

沖縄には

日本復帰で

平和になりたいという

強い強いねがいがある

 

日本の人々よ

それに答えて

沖縄を

平和な県にしてほしい

 

子供が米軍関係の事件事故に巻き込まれる現実を訴えたかった。               でも、50年経っても危険と隣り合わせの『普通じゃない暮らし』は現在進行形でした。

と少しも変わらない現状を河野さんは語られています。

国が沖縄に基地負担を強いる構図は復帰後、歴代の自民党政権でも変わっていない。     ただ、過去には沖縄の苦難の歴史に思いを馳せ、対話を重視した政権も有った。       しかし、安倍政権以降、移設問題と沖縄の振興予算を「アメとムチ」のように絡めるなど、対話の姿勢は消えてしまいました。                                   日米地位協定の「見直しの検討」についても自民党は拒否の意向のようです。

「聞く力」をアピールする岸田政権は、首相や松野博一官房長官が地元住民らと車座対話を重ねるなどしているが、沖縄県側が求め続ける日米両政府と県による三者協議には応じていません。

現政権では、「アメとムチ」を使い分けながら沖縄に押し付けて行くように思えてなりません。

 

     ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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🏯 懐古園 🏯

2019年12月20日 | 日本の歴史

小諸なる 古城のほとり                                              雲白く 遊子悲しむ                                         緑なす 蘩蔞(はこべ)は萌えず 

                                              若草も 藉(し)くによしなし                                       しろがねの 衾(ふすま)の岡辺                                            日に溶けて 淡雪流る 

   

 あたゝかき 光はあれど                                     野に満つる 香(かおり)も知らず                                              浅くのみ 春は霞みて

                                           麦の色 わづかに青し                                                 旅人の 群はいくつか                                     畠中の 道を急ぎぬ

 

暮れ行けば 浅間も見えず                                                 歌哀(かな)し 佐久の草笛                                       千曲川 いざよふ波の

                                           岸近き 宿にのぼりつ                                      濁り酒 濁れる飲みて                                          草枕 しばし慰む

※遊子=旅人、  ※衾=一面に降り積もった雪、  ※草枕=旅先での寂しい宿り

『千曲川旅情の歌』『初恋』が入っている第一詩集❝若菜集❞ではなく、第四詩集❝落梅集❞に入っています。

 

                                                  早春の頃であるのに、いまだはこべ、若草と、野に満つる香は見当たらない。その早すぎる春を悲しんでいる。                                                                                                                青春の終わりを渋く味わうための詩のようです。

二十代終わりの藤村は落ち着きがでて、濁り酒を一人呑むほどに渋くなっていたようです。  このころ藤村は、長野県の小諸で教師として七年間過ごした。

明治 32年(1899)4月初旬、旧師「木村熊二」の経営する小諸義塾に英語・国語の教師として赴任し、5月 巌本善治の媒酌により函館の秦 冬子と結婚、小諸町馬場裏に新家庭をもった。                                                                                                                                                               明治 33年 4月、「旅情」(小諸なる古城のほとり)を雑誌『明星』に発表。                5月長女 緑が生まれ父となる。

木村熊二先生のレリーフ

                                           明治 34年 8月、詩集「落梅集」を刊行。翌年3月次女 孝子が生まれる。                           11月、「旧主人」・「藁草履」を。以後「爺」・「老嬢」・「水彩画家」・「椰子の葉蔭」等を発表。                                                                                                       明治 37年 4月、三女 縫子生まれる。

 

明治 38年 4月 29日、小諸義塾を退職し 7年間に渡る小諸生活に別れを告げ、執筆途中の「破戒」の原稿を携えて家族と上京。                                          翌年 3月、「破戒」を自費出版した。

 

 

 

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☆ 新元号 ☆

2019年04月01日 | 日本の歴史

平成に代わる新しい元号は、奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集「万葉集」を典拠とした令和れいわ)に決まりました。

 

七世紀の「大化」から始まり248番目の元号にあたります。

墨書は 内閣府人事課の辞令専門職、茂住 修身(もずみ おさみ)氏が書かれたものです。《菅義偉(すがよしひで)官房長官》

「平成」の時は小渕 恵三官房長官が「平成」とテレビで発表されたのを見て知りましたが、今回のようにそれほど話題にならなかった気がします。                                  私が無関心であったからかもしれません。

新元号『令和』は登山をご趣味とする皇太子徳仁(なるひと)親王」さまが新天皇に即位する 5月1日に施行されます。

「令」の字が使われるのは初めてで、「和」は 20回目だそうです。

 

政府が 4月1日に開いた有識者 9人による「元号に関する懇談会」には 6つの原案が提示されたとのことです。

英弘(えいこう) 久化(きゅうか) 広至(こうし) 万和(ばんな) 万保(ばんぽう) 令和(れいわ)

上記 6案のうち三つの典拠は国書で「令和」の典拠であった万葉集のほか、日本書紀に基づいたとのことであります。                                                       残る 3案の典拠は中国の古典(漢籍)より考えられたようです。

 

典拠となった万葉集は 20巻からなり、約 350年間にわたって詠まれ約 4500首を集めています。                                                                                                                                                     額田王、柿本人麻呂、山上憶良ら代表的な歌人のほか、天皇から防人、無名の農民に至るまで幅広い歌人が含まれ、地方の歌も多くあります。

 

令和」の典拠 

出典                                                                 「万葉集」巻五、梅花の歌三十二首併せて序

 

引用文                                                             初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

 

書き下し文                                      初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫らす

 

現代語訳(中西進著「万葉集」から)                                     時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

 

歌人                                                     大伴 旅人(おおとものたびと)が太宰府長官時代に宴会を開いた時につくられた歌

 

新元号の決定に至るまで                                    「元号に関する懇談会」に出席の有識者 9人の先生方のお名前を公表することは決してございませんと政府は伝えましたが、新元号が発表された翌日(4月 2日)の新聞には写真と名前が掲載されていました。

                                                  また、政府は発表前に新元号が漏れないよう神経をとがらせ、会議室内の盗聴を防ぐため机の裏や植木の中まで確認し、有識者や閣僚らから携帯電話を預かることまでしたようです。

 

テレビ・新聞で何気なく見ていますが、沢山の有識者の先生方の意見があったり、いち早く新元号を知り発表しようとする人がいますので、決められた日に発表することは大変なのですね。

 

新天皇ご即位  

 宮殿のベランダより、一般参賀に集まった人たちに手を振る天皇、皇后両陛下 

 天皇が生前に交代したのは、実に 202年ぶりとなるとのことです。 

 

 

 

  

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