京都府南丹市美山町の茅葺きの里を訪ねた帰り、国道162号(周山街道)で京都市内に戻り、途中から洛北経由で大原に向かおうと、狭い道に入ったら鷹峰(たかがみね)の地名が目に付いた。
遥か昔、狭い道を走り、やっとの思いで参拝した記憶が甦り、そうだこの辺りには「光悦寺」や「源光庵」があるんだと思っていたら、源光庵駐車場の看板が目に入り、そのまま入場した。
道はカーブが多かったので、ノンビリ休憩を兼ねて参拝した。
源光庵と言えば、まず思い浮かぶのが本堂の『迷いの窓』と『悟りの窓』。 670年ほど前に作庭された「鶴亀の庭」と呼ばれる枯山水庭園が、本堂前に広がっている。 この庭自体、紅葉の景色などで知られる見事なものですが、2つの窓はその庭を眺めるためのものでありながら、庭そのものよりも有名である。
『迷いの窓』は四角いガラスの引き戸で、人の一生における苦しみを象徴し、「生老病死四苦八苦」を表すと言われ、また『悟りの窓』は正確な真円を描く丸窓であり、禅における悟りの境地を表していると言われています。
四角と丸、それぞれに切り取られた庭の風景をノンビリ鑑賞、そこには新緑のモミジが見えた。 これが秋になると、またまた素晴らしい。広い本堂の畳に正座し、窓外を眺める。 ただ何と言うことも無い窓であるが、寺を後にしても不思議と心に残っている。
ここには、もう1つ本堂の天井が血天井である事でも知られています。 京都には伏見城から移築した血天井を持つ寺が幾つかあるようですが、源光庵も伏見城の遺構を伝える寺の1つだそうです。
伏見城ゆかりの血天井とは、豊臣から徳川へ移る動乱期、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいうべき戦いでの、戦国武将「鳥居元忠」の戦死を伝えるもの。 この時伏見城の留守居役であった元忠は、石田三成軍の攻撃に対し良く耐えたが、力尽き、一党380余名と共に自刃、全城を朱に染めたようです。
明治維新後に伏見城は解体され、その遺材が京都の寺などに用いられたため、いわくつきの血天井がアチコチに有るとの事です。 源光庵では本堂廊下の天井がそれで、黒い染みとなった血痕や足跡などがハッキリ見えます。城守できなかった無念さが伝わります。 とてもカメラを向ける気にはなれませんでした。