京都へ向かう途中、琵琶湖湖岸道路を走行中に「近江八幡」と言う標識が何度か目に留まったが、いつも素通りをしていた。 今回は用事が早くに片付いたので、ちょっと寄って見る事にした。 この時は「近江八幡」てどんな町だろう と考えてみたが「近江牛」や「商人の町」くらいしか頭に浮かんで来なかった。 そんな事でウキウキ・ドキドキしながら歴史街道を通り、商人の町に足を踏み入れてみた。
ビックリ 昔のままの商人の町並み、そして琵琶湖からの堀を運河として利用した歴史の街が残っていました。
自然の恵みや先人達が創り出した風景・文化が、今現在生活を営む人々と重なり合って醸し出す風情を感じることが出来ました。 私のもう一度、訪問し歩いてみたい街のひとつです。
近江八幡の町は今から約400年あまり前、豊臣秀吉の甥の豊臣秀次が開いた城下町で、水上交通の要であった八幡堀を中心に栄えた町だそうです。
堀沿いには今も白壁の土蔵が立ち並び、隆盛の時代を今に伝えています。 江戸時代中期から明治に建てられた商家が現存する新町通りや八幡堀沿いを、当時の活気ある町を想像しつつ、雨の中貸切状態でプラプラ散策をしました。
近江八幡の町が発展した理由の中で、八幡堀の役割は欠かす事ができません。
堀は城を防御するために存在しますが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用する事を考え、琵琶湖を往来する船を全て八幡の町へ寄港させた事から、商人の町として大いに活気を呈したとの事であります。
多くの商人が八幡の町から全国へと旅立ち、近江商人として 活躍した原動力となった八幡堀も昭和30年頃になると時代は高度経済成長期に入り、人々の生活が変化する中で、次第に市民の関心も薄らいで、やがてドブ川のようになり埋められる危機があったようです。
しかし、「八幡堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」の合言葉により、市民が立ち上がり、清掃活動に取り組まれ次第にかつての姿を取り戻し、今日でも各種団体による清掃活動が続けられているとの事です。 本当に、ありがたい事です。 そのお陰で写真を撮られる方や絵を描かれる方が数多く訪れ、また水戸黄門など時代劇のロケ地としても頻繁に利用されているようです。