素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

📚 島崎 藤村を訪ねて 📚

2021年07月14日 | 文学者

まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

以前、京都に毎月通った時、毎回 同じ道では飽きてしまい、早く用事が終了した時は中央道で帰った時がありました。                                             その時、恵那山トンネル手前の神坂PAでの休憩時、下記の案内図を発見しました。

これは面白いと思い、長時間運転も疲れるので 運動がてらに中山道「馬籠宿」を散歩して来ました。この道を下った先が、神坂PAになります。

地図には徒歩約15分と書いてありましたが、行きは登りでノンビリ歩き 25分程掛かりました。

道路より階段を登り切ると、急に宿場町らしい所に飛び出ました。

神坂PAからは登りなので、上が見えない山の中の道を歩き階段を登り切ったら、目の前に馬籠宿の宿場風景が現れビックリした。                                            近世、中山道 木曽十一宿の最南端にある宿駅として繁栄したようです。

当時の面影を残す旅籠、民家や石畳が残され、一旅人としてタイムスリップした雰囲気が味わえました。                                              宿場内の石畳沿いには馬籠本陣跡や藤村記念館が設けられており、立ち寄って来ました。

島崎藤村の生家は馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねた旧家であったそうです。

明治・大正・昭和期の詩人、小説家。父、島崎正樹の四男として生まれ、本名は「春樹」。(1872~1943)

島崎家は正樹で17代目の旧家であったが、藤村の出生時は明治維新に伴う諸改革で没落しつつあり、1881年(明治14)数え10歳で修学のため上京し、泰明小学校を経て明治学院に学び、その間 親戚や知人の家で成長されたとのことです。                                                                                  キリスト教の影響を受け、自由な雰囲気の中での交友などから文学を志す。

1893年、北村透谷らの『文学界』創刊に参加、透谷の影響を受けた。

卒業後は明治女学校の教師となったが、恋人の死、実家の没落、透谷の自殺などを経験し、苦悩と懐疑の日々を送ったようです。

1896年、仙台の東北学院に赴任、この頃から清新な叙情詩を発表し始め、それらは1897年『若菜集』としてまとめられた。

この藤村生地である馬籠宿は、長編小説『夜明け前』の舞台としても知られています。

主人公、青山半蔵(モデルは藤村の父、正樹)の数奇な生涯を軸として、幕末維新の動乱期を描き、抑圧からの解放を求める「若い生命」の苦しみを浮かび上がらせた歴史小説。

夜明け前 (序の章)         

木曽路はすべて山の中である。                                     あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。                          一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。・・・・・

 

                              参考書籍:日本歴史大事典

 

    ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

♬ 詩人・童謡作家「北原白秋」♬

2016年01月31日 | 文学者

詩人であり、童謡作家であり、そして歌人でもある北原白秋が平成27年に生誕130年を迎えました。                                      それを記念した特別展(H28.1.23~3.16)が小田原文学館で開催され、当地にも深い関係がある白秋を見てきました。

                                                  白秋は本名を「隆吉」といい、明治18年(1885)1月25日、福岡県山門郡沖端村(現 柳川市)の北原家に父 長太郎と母 しけ(通称しげ)の長男として生まれました。 家はもともと海産物問屋として九州一帯に知られていましたが、長太郎の代に酒造を業とするにいたりました。

                                                    地元は水郷として知られ、切支丹や南方文化が早くに流入したところでもあったので、一種の異国情緒豊かな雰囲気をかもし出していました。

                                                   隆吉少年は、そうした豊かな環境の中で多感な幼少期を過ごしていたようです。

                                                   しかし、白秋が16歳の時、大火で酒蔵が全焼し、家は傾きます。                                     傷心の白秋は没頭していた詩歌の創作へと更にのめりこみ、明治37(1904)年に家出同然で上京し、早稲田大学の同級 若山牧水与謝野鉄幹石川啄木といった才能とも交流しながら、26歳の時に書き上た処女詩集「邪宗門」耽美的な表現で称賛をあびました。

その2年後に出した詩集「思ひ出」は、故郷 柳川と破産した実家に捧げる懐旧の情で、白秋の名を世に知らしめました。                             57年の生涯で2万点以上の作品を残した白秋。

                                                     山田耕作とのからたちの花などは日本の心ともいうべき童謡の傑作です。

実家の破産、隣家の女性との恋愛事件、結婚、離婚と苦境の中、生涯に30回以上の転居し、その中の大正7年から15年までの8年ほどの間を小田原で過ごしています。

                                                   この間に全童謡作品の半数近くを創作したといわれています。                       小田原時代の作品「赤い鳥小鳥」の石碑です。                                         赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた。                                  白い鳥、小鳥、なぜなぜ白い。白い実をたべた。                                  青い鳥、小鳥、なぜなぜ青い。青い実をたべた。

話は変わりますが、大相撲初場所で日本出身力士として10年ぶりに優勝した大関『琴奨菊』関32歳(佐渡ヶ嶽部屋)の出身地が「北原白秋」と同じ、福岡県柳川市とのことで、3月の春場所での横綱昇進を皆さんで応援しましょう 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“太宰治記念館を訪ねて”

2014年01月24日 | 文学者

御坂峠への旧道を上るとトンネルの手前に1軒の茶屋がある。

その茶屋が天下茶屋である。                           建築されたのは、昭和9年の秋。木造二階建で、八畳間が三間あって、富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていた。                                   天下茶屋と呼ばれるようになったのは、徳富 蘇峰が新聞に紹介した記事がきっかけとなったようです。

太宰 治が、滞在した天下茶屋から三代目にあたるこの建物は、昭和58年4月1日に開店されました。                                  二階の、富士山と河口湖を一望できる六畳間に、ささやかながら記念館を設置されたとの事であります。

                                                                                            一般にあるような記念館とは違い、太宰 治のすべてを知り得るようなものではなく、太宰 治が滞在した部屋を復元し、当時使用した「机」や「火鉢」などを置いて、太宰 治を偲んで頂きたいとの趣旨のようです。

                                                                                                               特に床柱は、初代の天下茶屋のものをそのまま使用したものだそうです。

                                            

作品『富嶽百景』から抜粋

甲府市からバスにゆられて1時間。御坂峠へたどりつく。

御坂峠、この峯の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏 鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をして居られる。

私は、それを知ってここへ来た。

ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているそうであるが、私は、あまり好かなかった。

まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割(かきわり)だ。

どうにも註文(ちゅうもん)どおりの景色で、私は恥ずかしくてならなかった。

3,778メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。

富士には、月見草がよく似合う。

                                                   

太宰 治が、はじめて天下茶屋を訪れたのは、昭和13年9月13日との事です。   それまでの生活に区切りをつけ、思いをあらたにする覚悟での、天下茶屋滞在であった。

                                                                                                11月15日までの三か月余りを、2階の一室で過ごし、ここでの生活は作家としての意欲に燃え、大きな転機となったようです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🐾 延暦寺散策 🐾

2010年08月14日 | 文学者

1,200年前、伝教大師『最澄』は、日本の国の安泰と国民の幸せを祈って日本人に合った仏教を比叡山に開きました。



その教えの根本をなすものは、「個々が思いやりの心をもって一隅を照らす人になる」すなわち、一人ひとりが相手の立場に立って考え、自分の出来る事を精一杯行うことが、周りが良くなっていくことにつながると説かれています。



後世、この様な教えに基づいて、様々な高僧が集い、特に鎌倉時代には、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などと言った祖師方が比叡山で修行されたとの事です。



和歌の世界では、山といえば比叡山のこと。                     都人にとって、比叡山延暦寺はそれほどに特別な存在であった。



むろん、最澄が開いた天台宗の総本山として特別だったのだが、それ以上に、大名や法皇さえも圧倒した武力・政治力も《特別》であった。
根本中堂へお参りする大名は、1万石なら外の濡れ縁まで、5万石なら板の間まで、10万石なら畳の上まで・・・・・・・と言った具合に、その地位に応じた位置までしか内陣に近づけなかったと言われています。



そうした「比叡山延暦寺」ならではの威厳は、今もこの山全体に漂っているようです。



現代でも、その威厳は変わらない。
そんな威厳のある比叡山には、多くの文学者も参拝しております。           文中の絵をご覧ください。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『樋口一葉』を訪ねて

2010年07月18日 | 文学者

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、・・・・・・
代表作《たけくらべ》の一部であります。



一葉の父「樋口則義」の文学好きの影響を受け、下谷元黒門町にあった私立青梅学校小学校高等学科第四級を首席で修了後退学し、14才の時、小石川安藤坂にあった歌塾「萩の舎」へ弟子入りして和歌・書道・古典を学んだようです。

一葉の文章は読点でつなげられ、一文が非常に長い。                                                       切れめのない流れるような文章を書く人は、もう出現しないと言われています。
甲州市塩山には、イトザクラで有名な「慈雲寺」があります。一葉の父、則義は慈雲寺の寺子屋で学問を学びました。
そんな事で一葉の、ご両親が安政4年(1857)まで塩山で暮らしており、樋口なつ(一葉)は、明治5年(1872)に樋口家の第五子、次女として東京で生まれました。



一葉にとり塩山は両親から大藤村やその周辺の話を聞き、想像を巡らせていたようです。
「我が養家は大藤村の中萩原とて、見渡す限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて西南にそびゆる白妙の富士の峰は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ・・・・・」

上記は小説『ゆく雲』の中で、まだ見ぬ故郷・中萩原についてこう記しています。         明治28年、23歳の時の作品です。



江戸へ出てから一葉が生まれるまでの15年間、さらに一葉がその才能を惜しまれながら世を去る24年間、樋口家、また一葉を取り巻く環境は決して楽なものではありませんでしたが、優れた作品を数多く生み出したことは、改めてその存在の偉大さとその偉業が称賛されています。



18歳で東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水について初めて小説の手ほどきを受け、翌年には桃水の主宰した雑誌『武蔵野』に小説「闇桜」がのり、次いで雑誌『都の花』に「うもれ木」が連載され、これが一葉の出世作となりました。



28年1月から1年間にわたり「たけくらべ」を『文学界』に連載し、この間に「大つごもり」・「にごりえ」・「十三夜」・「わかれ道」などを発表しました。
一葉はこのほか四千首に近い和歌と15歳から晩年までの日記を残しました。                この日記は「たけくらべ」・「にごりえ」などの作品と並んで、近代文学の傑作と言われています。                                                                                                                          29年11月23日、肺結核のため本郷区丸山福山町で、24年の短い生涯を閉じました。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする