素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🍂 醍醐寺の秋 🍂

2021年11月25日 | 世界遺産

秀吉が 花の宴 を開いた、山科の名刹。

醍醐寺といえば桜。                                              ときは慶長3(1598)年3月15日、ここで一世一代の花見をしたのが、太閤秀吉。          でも当時は桜の名所ではなかったようです。                              ですが名所でなければ名所にすればいいだけのことと、吉野山から選りすぐりの桜、およそ700本を移植したのだそうです。

その様な、あまりにも桜で有名な醍醐寺ですが、紅葉 も楽しむことができます。

金堂は醍醐天皇の御願により、延長4年(926)に創建された建物とのことです。

当時は釈迦堂といわれていたが、永仁、文明年間に二度 焼失。                              現在の金堂は豊臣秀吉の命によって紀州(和歌山県)の満願寺から移築したお堂で、正面7間・側面5間の入母屋造りの平安末期の建物だそうです。                        この金堂が、醍醐寺の主なお堂であり、安置されている薬師如来坐像が御本尊です。

金堂の横から五重塔を眺める。

五重塔は醍醐天皇の御冥福を祈るために建立。天暦5年(951)に完成したとのことです。                               初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれており、日本密教絵画の源流をなすものといわれています。                                          高さは約38mで屋根の上の相輪は約13mあり、相輪が搭の三分の一を占め安定感を与えています。

京都府下で最も古い木造建築物となっており、国宝に指定されています。

紅葉やイチョウが色づく季節は朱塗りの弁天堂 が水面とよく合う紅葉の名所となっています。

堂内には音楽などの学芸や知識の女神であるとして広く知られている弁財天(七福神の一つ)が祀られています。

観音堂を中心に広がる林泉(林や泉水などのある庭園)及び弁天堂、鐘楼、伝法学院などを総称して大伝法院と呼ばれています。観音堂の水煙とイチョウ。

これらの諸堂は醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和5年(1930)山口玄洞居士の寄進により造築されたものだそうです。

   

 

 

※ ご訪問頂き、ありがとうございます。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

✿ 富岡製糸場 ✿

2019年12月18日 | 世界遺産

日本近代化の幕開け                                         明治 5年(1872)に日本で最初の官営模範工場・富岡製糸場が誕生しました。           ヨーロッパと日本の技術が融合してできた世界最大規模の製糸工場は、近代日本を象徴する建造物として百数十年の時を経た今も圧倒的な存在感を示しています。

 

当時の日本は明治維新を迎えたばかりでした。                                   殖産興業政策を掲げた政府が急務としたのは、輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を可能とする器械製糸工場の導入と推進でした。

江戸時代末期に幕府は鎖国を解き外国と交易を開始し、安政 6年(1859)に横浜などを開港しました。

                                                その当時の主な輸出品として生糸と蚕種の需要が急激に高まりましたが、その頃の日本は伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸であったため、良質で質の揃った生糸を大量生産できませんでした。                                                                                                                                           こうした問題を解決する目的で国の資本による模範器械製糸場の設立が明治 3年(1870)2月に決定され、政府は生糸に精通したフランス人「ポール・ブリュナ」を指導者として契約を締結しました。

                                            左は繰糸所(そうしじょ)の入口、右は繰糸所(国宝)建物全景。

繰糸所は、繭から生糸を取る作業が行われていた場所です。                           創業当初はフランス式の繰糸器 300釜が設置され、世界最大規模の製糸工場でした。      小屋組には「トラス構造」という従来の日本にない建築工法を用いています。                                              そのため、建物内部は中央に柱のない広い空間が保たれています。さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられています。

                                           現在は、昭和 41年以降に設置された自動繰糸機が保存されています。

                                           ブリュナらは、当時養蚕が盛んであった長野、群馬、埼玉の各地を実地調査した結果、製糸に必要な繭と良質なだけでなく、工場建設に必要な広い土地、近くで蒸気エンジン用ボイラーの燃料である石炭(亜炭)が確保できたことなどから、群馬県富岡の地が選ばれました。

右の大きな 2階建て建物は東置繭所(ひがしおきまゆじょ)で奥の建物は明治 35年~昭和 13年築の社宅です。

東置繭所(国宝)は明治 5年(1872)建築。 長さ104.4m:幅12.3m:高さ14.8m         1階は事務所・作業場などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵していたようです。     建物は、木材で骨組みを造り、壁に煉瓦を用いた「木骨煉瓦造」(もっこつれんがぞう)という工法で建てられました。                                         「木骨煉瓦造」とは、木材で骨組みを造り、壁の仕上げに煉瓦を用いる建築方法。

                                           煉瓦の積み方は、煉瓦の向きを長い面と短い面を交互に並べています。この積み方を日本では「フランス積み」と呼んでいます。

                                           使用された煉瓦は、日本の瓦職人が甘楽(かんら)町福島に窯を築いて作り、煉瓦積みの目地には下仁田町の青倉、栗山産の石灰で作られた漆喰を使いました。                         また、礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われているとのことです。

首長館(重要文化財) 明治 6年(1873)建築:延床面積 320坪                     

指導者として雇われたフランス人「ポール・ブリュナ」が家族と暮らしていた住居だそうです。後に建物は、宿舎や工女に読み書きや裁縫などを教える学校として利用されました。

                                           製糸場の運営にあたっては、ブリュナの人選によってフランス人の生糸検査人、技術者、繰糸教師、医師らが雇入れられ、富岡製糸場の設立や操業に関わりました。

検査人館(重要文化財) 明治 6年(1873)建築

                                           生糸の検査などを担当したフランス人男性技術者の住居として建設されました。後に改修され、現在は事務所として使用されています。                                     2階には、皇族や政府の役人が訪れた際に使用された貴賓室があるそうです。

建築資材は、日本で調達できない一部の資材以外は近辺で調達されました。         木材や礎石は近隣の官林や山から切り出し、煉瓦はフランス人技術者のもと瓦職人が隣町で作りました。                                                   一方、日本人の体格に合わせた 300人取り繰糸器械や動力用の蒸気エンジン、窓ガラスや鉄製の窓枠などはフランスから輸入しました。

工女館(重要文化財)明治 6年(1873)建築

                                           日本人工女に、器械による糸取の技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建設されました。

明治 5年(1872)2月より工女募集が行われましたが、順調には集まりませんでした。                                                                                                                                 そこで初代場長の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)が娘の勇(ゆう)を率先して入場させた結果、32道府県から工女が集まったとのことです。

左は診療所で、右の学校の様な建物は寄宿舎です。

官営当初期の富岡製糸場で働く工女の生活は、労働時間は季節により異なるものの、1日平均 7時間 45分で日曜は休み、給料は繰糸技術の等級により格付けされた月給制、また宿舎や病院が場内にあり、食費や医療費は国が負担するなど、当時の日本では先進的な労働環境であったようです。                                             工女の中には、技術習得後は故郷に戻り指導者として活躍する者もおり、器械製糸技術の伝播に貢献しました。

西置繭所(国宝)明治 5年(1872)建築。 長さ104.4m:幅12.3m:高さ14.8m      現在保存修理の工事中でした。

                                           東置繭所と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用し、1階部分は当初、蒸気機関の燃料用の石炭を置く場所や繭をより分ける場所などとしても使われたようです。

明治 5年(1872)に誕生してから 1987年の操業停止まで115年間生産を続けました。     2005年には富岡市の所有管理となり、敷地全体が国史跡に、2006年設立当初期の 9件の建造物が国重要文化財に指定されました。                               また、2014年 6月には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産登録され、同年 12月には重文のうちの 3棟、東西の置繭所と繰糸所が国宝に指定されました。

世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、高品質な生糸の大量生産に貢献した、19世紀後半から 20世紀の日本の養蚕・製糸の分野における世界との技術交流と技術革新を示した絹産業に関する遺産です。

日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものへと変化させました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🏢 韮山反射炉 🏢

2019年02月03日 | 世界遺産

 

[ザノースフェイス] ハット ゴアテックスハット ユニセックス NN01605
防水・透湿性素材のゴアテックス・ファブリクスを使用したレインハット。つば結合部、縫い目からの雨水侵入を抑え、広めのつばで紫外線カット、調節可能な顎ひも付きです。
GOLDWIN(ゴールドウイン)

幕末期における近代製鉄技術導入への挑戦を物語る『韮山反射炉』

寛永 16(1639)年から嘉永 6(1853)年のペリー黒船来航まで続いた❝鎖国❞         長崎「出島」のオランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態。

この状況の中、天保 11(1840)年のアヘン戦争(清朝のアヘン禁輸措置からイギリスと清国[中国]との間に起った戦争。清国が敗北し、列強との不平等条約締結、中国の半植民地化となった。)を契機に、日本では列強諸国に対抗するための軍事力強化が大きな課題となり、唯一外国との交流のある長崎の出島より西欧の文物(蘭学)を取り入れ、薩摩や佐賀などの各藩では、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになりました。

幕府においても、韮山代官「江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)を始めとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られはじめた。                        江川英龍は西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言した。

このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが「反射炉」であった。

嘉永 6(1853)年、ペリー艦隊の 来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。                                                                                                              そこで以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたとのことであります。

                           

 

なぜ『反射炉』と呼ばれるのか 

反射炉は、17世紀から 18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と、煉瓦積みの高い煙突からなる。

                                            石炭などを燃料として発生させた熱や炎 を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銑鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現する。                      この様な、熱や炎を反射する仕組みから、反射炉と呼ばれているのだそうです。

 

反射炉は、当初 伊豆下田港に近い賀茂郡本郷村(現 下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし安政元年(1854)3月、下田に入港していたペリー 艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ海岸から離れた韮山の地に建設地を変更することとなった。

下田での築造のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。    また、千数百度という高温に耐える良質の耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現 河津町)で生産されていた。                                               韮山での反射炉築造は順調には進まず、江川英龍は、その完成を見ることなく安政 2年(1855)に世を去っている。                                                                                                                  後を継いだ息子の英敏が築造を進め、安政 4年(1857)、連双 2基 4炉の反射炉本体とその周辺の関連施設からなる韮山反射炉を完成させた。

 世界文化遺産

『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業

明治日本の産業革命遺産は、西洋から非西洋への産業化の波及を顕し代表する日本国内 8エリア、23資産から構成されており、平成 27年(2015)7月、世界文化遺産に登録された。

19世紀の半ばから 20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国土台を構築し、製鉄・製鋼・造船・石炭産業という重工業分野において、急速な産業化を成し遂げた。                    産業化の歩みは、蘭書 片手に試行錯誤での鉄製大砲鋳造への挑戦や、洋式船 の模倣から始まった。                                                     次に、西洋技術の導入が行われ、専門知識の習得を行った。                        明治の後期には、国内で人材が育ち、積極的に導入した西洋の科学技術を国内に適合するよう改良を加え、産業経済の基盤を築いた。                                      このようにして、日本は非西洋諸国で初めて産業革命の波を受容し、50年余りという短期間に、植民地にならず自らの手で産業化を成し遂げた。

ガイドの土屋様から詳しく解説して頂きました。                               鎖国中に師もなく蘭書片手に試行錯誤の鉄製大砲造り、韮山反射炉では 4基しか製造できなかったそうです。出来上がった大砲は品川のお台場まで船で運ばれました。

                                           「萩の反射炉」と共に現存する反射炉としては、歴史に残る貴重な遺産となっています。            ここ韮山反射炉は、実際に稼働し、ほぼ完全な形で残る世界唯一の反射炉とのことです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🐾 白神山地散策 🐾

2016年10月11日 | 世界遺産

東北新幹線を利用して青森県の山を歩いて来ました。                                   東京駅発 7時36分のはやぶさ 3号に乗車、ほぼ 3時間半の 11時に新青森駅に到着。  車人間の私には、速過ぎてビックリです。

新幹線は 2階のホームへ滑りこみ、1階の改札へ向かっていたら、下で何やら お祭りでもあるかのように賑やかな 笛や太鼓 の音が聞こえた。                                         新幹線が到着すると歓迎のお出迎えであります。

幼稚園生、小中高の皆さんに駅長さんも混じって絵葉書や抗菌・防虫・消臭効果のあるという青森県産の「青森ひば」袋詰めを到着されたお客様に配布されていました。  ちょっとオリンピックメダル獲得選手の凱旋風景が感じられました。                           こんなにして頂けると、とても嬉しいですね。

新青森駅を出ると小雨がパラついていた。                                     これからは青森県内を車移動で巡り、まず遠方の白神山地の深浦エリアに向かいました。                                      北海道のような延々と真っ直ぐな道路を快適に走り、車窓からは赤い大きな実をたわわに付けた林檎畑を横目に「美味しそう」・「落ちてるのもったいないね 」などと賑やかな声が飛び交っていた。

五能線と並行して走ってきた国道 101号線から深浦町の JR十二湖駅より県道 280号線に入り、奥十二湖の森の物産館「キョロロ」に 15時半到着。                                                途中では晴れ間も見えましたが、ここは雨。

15時35分、傘を持ちブナ林の中に点在する十二湖への散策に出発。

ブナ林の中に 33の湖沼が点在し、森の澄んだ空気と美しい景色が広がる十二湖。

                                                     「さあ登山だ。」と気負うことなく気軽に歩けるコースです。              一度見たら忘れられないほどの鮮やかなコバルトブルーの透き通った青池は、訪れる季節や時間によって少しずつ表情が異なり、趣の深い池であります。

この日は雨でしたが、晴れた日の青池を見たことがあるので今日は残念でした。でもコバルトブルーに見えるだろうという雰囲気は判りました。

白神山地とは、青森県と秋田県にまたがる広大な山地の総称。 原生的なブナ林が広がる世界最大級の森。

美しい四季の中で多種多様な植物が織りなす生態系が世界的に認められた場所。

                                                    色々な命が棲みつづける場所。「ようやく、来たか そんなふうに、太古の自然からのささやきが不思議と聞こえてきそうな場所。

                                                宮崎 駿監督の映画「もののけ姫」の舞台のモデルともなった場所。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🐾 白神山地・西目屋エリアを散策 🐾

2016年10月11日 | 世界遺産

岩木山が荒天に付き撤退し、リフト乗り場の 8合目駐車場を14時頃 後にして、白神山地の西目屋エリアに向かった。                                                                                          アクア グリーン ビレッジANMONに 15時半到着。

世界遺産の径「ブナ林散策路」に15時40分出発。

世界遺産白神山地憲章                                                 文明の発達と共に地球上の自然が次第に失われてきましたが、幸いにも日本には まだ豊かな天然林が残っていました。                                                     青森・秋田両県の擁する白神山地の広大なブナ天然林と、その生態系が世界的に貴重な価値として認められ、1993年12月にユネスコが日本で最初の世界自然遺産として登録しました。                                        日本のみならず全世界が白神山地を永久に保護することを宣言したのです。

ブナ天然林での降雨が枝葉や根幹を伝わって大地に吸収され、多種多様の動植物を育みながら谷川に滲出し大海に達し、豊かな恵みを与えます。                                           海水は水蒸気や雲となって再び山地に還り、大いなる生命の循環が行われています。

暗門大橋を渡り、白神山地世界遺産地域に進んだ。

残念なことに暗門の滝は通行止めとなっており見学はできなかった。

滝方面には進めず、ブナ林散策路に向かった。

ブナ林とは自然の輪廻を昔から普通に行っている素晴らしい天然林です。

                                                      この自然の営みを壊すのは人間であり、ここ白神山地が世界自然遺産となり永遠に保護され後世に残していくことが私たちの努めです。

アクア グリーン ビレッジANMONを 16時20分に出発し、白神ライン(県道28号線)で津軽峠に向かった。

ここから「ふれあいの径」歩き、ブナの巨木「マザーツリー」の見学。

胸高直径約 148cm、胸高幹回り約 465cm、高さ約 30m。                      推定樹齢約 400年の白神山地を代表する母なる木です。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🐾 菅沼合掌集落と“こきりこの里”を歩く 🐾

2016年09月10日 | 世界遺産

国道156号線沿いに行くと、庄川右岸に合掌造りの集落が木々の間から見えてきます。                                        集落全体が重要伝統的建造物群保存区域になっている菅沼合掌造り集落であります。

集落は、険しい山あいを流れる庄川のわずかな河岸段丘にあり、現在9戸の合掌造り家屋が残っています。                                   冬は豪雪となる厳しい自然に耐え、養蚕など仕事の場としても適した住まいとして、はるかな歴史を重ねて完成された合掌造り。

                                                    その力強い美しさを中心に、日本の原風景ともいうべき山村の景観も含めて、1995年に岐阜県白川郷、五箇山相倉と共にユネスコの世界遺産に登録されました。                                    現存する古いものは天保年間以前の建築と言われています。

季節が巡るたびに菅沼は表情を変え、いつ訪れても感動鮮やかです。

その後、国指定重要文化財である「村上家」や「白山宮(はくさんぐう)のある南砺市(なんとし)上梨(かみなしこきりこの里」に立ち寄りました。

                                               白山宮は県内最古の木造建築物で、神殿は室町時代(1502年)の建造だそうです。

こきりこの由来                                           「こきりこ」は、越中五箇山・上梨の山里を中心に伝承された全国的に有名な古代民謡である。

                                                       多くの民謡は起源や伝承の経緯がつまびらかでないのに比べ、この唄は『越の下草』や二十四輩順拝図絵、『奇談北国巡杖記』などの古文献に記載されており、来歴がかなり明確である。                                    従って、大化改新(約1400年前)の頃から田楽として歌い 継がれてきたという語り伝えも、かなり信憑性のあるものと思われる。

                                               「こきりこ」は、越中五箇山の古社、上梨白山宮の祭礼に歌い踊られてきたが、隔絶山村として長い歴史を経た五箇山も、大正末期から昭和初期にかけて、電源開発などにより、外界との交流が始まるにつれて忘れられていった。                                               西條八十氏がこきりこ採譜のため五箇山探訪したのを契機に、昭和26年、古くから歌い継いできた上梨の山崎しい老(昭和38年没)の演唱を採譜して発表し、一躍脚光を浴びることになった。                                   奈良朝の万葉集などにみる純真、素朴にして、大らかな古代日本精神を伝承する唄として、その文化的価値が認められた。

                                                  そして昭和28年、東京・日本青年館に於ける第4回選定無形文化財として、全国郷土芸能大会に出場した。                                                        また、昭和44年文部省が中学校の音楽教材に指定したので、全国的に広く知られるようになった。                                   リズム・メロディーとも簡単で、しかも明るく軽快なこともあって多くの人々に愛されています。

白山宮からは三笑楽酒造や五箇山伝統のとうふ店を覗き、村上家前の庄川にかかる太平橋を渡り、かつて加賀藩の政治犯などを収容していた現存する唯一の流刑小屋の前を通り、今日の宿に入った。

ぬくもりの湧く山里『五箇山温泉』                                        山々の深い緑に幾重にも包まれ守られるように、ひっそりと静かに時を重ねてきた五箇山。

                                                    平家の落人伝説に彩られ、独自の歴史と文化を育んできた五箇山地方。       「むぎや」・「こきりこ」など伝統的な民謡や舞いは、どこか哀愁を帯び、雅な情趣を漂わせ、多くの人の心を魅了し続けています。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🐾 初秋の相倉合掌造り集落散策 🐾

2016年09月08日 | 世界遺産

相倉(あいのくら)集落は庄川からやや離れた段丘上に位置し、北東にゆるく傾斜する細長い台地に広がっています。

                                                        この集落にある 32戸の住宅のうち 23戸が合掌造り家屋となっています。                            相倉集落に現存する合掌造り家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたものですが、最も古いものは17世紀にさかのぼると考えられています。

                                                     史跡として保存される範囲には、これらの民家だけでなく、田畑・山林・池・道路・屋根葺きに必要な茅を取る「茅場(かやばや集落を雪崩から守るための「雪持林(ゆきもちりん)までもが含まれます。                           相倉に訪れると、集落と周りの環境とが織りなす美しい風景を目の当たりにすることができます。

平成7年(1995)12月、ユネスコの世界遺産一覧表に文化遺産として登録されました。                                       相倉には 23棟の合掌造りが現存しますが、約100年~200年前の建築物が多く、古いものは 400年前に建造されたと言われています。                                             屋根の勾配は急で 60度。                                  断面は正三角形に近く、つまり雪が滑り易い形になっています。

                                                      この大きな屋根を支えるのは、根元の曲がった「チョンナ」と呼ばれる太い梁。                     山の斜面に生育し自然に曲がったナラを用いているとのことです。          また、合掌の組み立てには釘は一切使わずに縄とソネと呼ばれるマンサクの木を使っているようです。                                 屋根の葺き替えは15年~20年ごとに、森林組合が中心になって行われています。

雪深いという厳しい自然に対応する強固な造り、さらに生活の場と生業の場をひとつにした合理的な建築になっています。                          人々の生きる知恵が生んだ偉大な発明、それが合掌造りと言えます。

 

旧五箇山街道                                                   JR城端(じょうはな)線終点の城端駅から五箇山へ入る国道304号線に、冬でも車で通れる悲願の五箇山トンネル(3072m)が開通したのは昭和59年3月10日だそうです。

                                                       そのお陰で今までは、人喰谷という羊腸の道を登って細尾峠を越えて、車で 30分はかかっていたものが、5分で通過できるようになりました。

                                               その細尾峠が開かれたのは明治20年であるが、自動車の通れる道路が出来たのは昭和2年のことだそうです。                               それ以前は若杉から唐木峠へ上り、人喰谷の谷を巻いて朴峠を越え梨谷へ出た。   城端からこのルートを通って下梨へ来ると延長 4里(1里⇒約3.9Km)で人々は重い荷物を背負い往復した歴史街道である。 

 

      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⛩ 丹生都比売神社参拝 ⛩

2016年03月09日 | 世界遺産

高野山参詣のため、まず丹生都比売(にうつひめ)神社を参拝いたしました。                       紀ノ川より紀伊山地に入り標高450mの盆地「 天野」に当社が創建されたのは『日本書紀』に「天野の祝」として当社の宮司についての記載があることから、今から1700年以上前のことと伝えられています。

天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと』によれば、「丹生都比売大神 にうつひめのおおかみ」は「天照大御神 あまてらすおおみかみ」の御妹神さまで「稚日女命 わかひるめのみこと」と申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。

『播磨国風土記』によれば、「神功皇后 じんぐうこうごう」の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝して応神天皇が社殿と紀伊山地の北西部一帯の土地を神領として寄進されたとあります。

御祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。

                                                    丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。                                       全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。

今から1200年前「丹生都比売大神」の御子、「高野御子大神 たかのみこのおおかみ」は、真言密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。

                                               弘法大師は丹生都比売大神の御神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。                                 これ以降、古くから日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。  中世には、当社の周囲にも数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで五十六人の神職と僧侶で守られてきました。

高野山参詣には町石道(ちょういしみち)を登り当社に参拝した後、高野山に登ることが習慣であったようです。                                             現在の本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮観なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門と共に重要文化財に指定されています。    なお、平成16年7月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産に登録されました。

                       (丹生都比売神社パンフレットより)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ 霊場への参詣道「高野山町石道」☆    

2016年03月09日 | 世界遺産

南海高野線 九度山駅に近い慈尊院の、町石道(ちょういしみち)の起点180町石から卒塔婆石をひとつひとつ数えながら高野山山上までの祈りの道(約23.5km)を歩いて来ました。                                         弘法大師入定以来、高野浄土信仰の広まりと共に人々の参拝が盛んになり、参拝者が巡った高野への道で、主な七つの道が高野七口(高野山町石道有田・龍神道、相ノ浦道、熊野古道小辺路、大峰道、黒河道、高野街道)と呼ばれていました。

その七つの道の中で、九度山の慈尊院から山上西口の大門へ通じる表参道を特に高野山町石道と言い、弘法大師が開山の折は、木造の卒塔婆でしたが、文永2年(1265)遍照光院の覚きょう上人が石造卒塔婆の建立を発願し、弘安8年(1285)20年を費やし完成。                                                                                                                                           当時の石柱150本が現在も残っており、平成16年7月には『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録されました。

また、高野山は女人禁制であったため、女性は山内に入れず七口の各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建てられ、女人信者は御廟を拝みたいと八葉蓮華の峰々をめぐる女人道を巡ったと言われています。

和歌山県伊都郡かつらぎ町のかつらぎ温泉八風(はっぷう)の湯を8時10分出発。 

                                                慈尊院着8時40分。  門をくぐると丹生官省符神社への長い階段が見え、慈尊院本堂を参拝して、その階段を登る途中右手に町石道の最初の町石180町石がありました。

                                               これが、これから進む町石道の道しるべとして私たちを誘導してくれます。                 高さ3mを超す五輪塔形の石柱が、根本大塔の起点1町石まで逆算に数えて進みます。(1町は約109m)

階段を登り切り正面の丹生官省符神社 を参拝し、右の脇から外の道に出て直ぐの所に179町石があり、エッもう・・・・・ といった感じで、おしゃべりしていると見過ごしてしまいます。                                    175町石を過ぎた頃から前方が開け雨引山が見え気持ちの良い登りで、日差しがあり暑くてTシャツ姿になった。 

                                              170町石(9時21分通過) 辺りまでは傾斜のきつい柿畑の中をドンドン高度を上げて行き、紀ノ川やこれから向かう高野山の山並みが望め、初めて見る景色に感動でした。

                                              168~166町石までは右側が急傾斜で、もうこんなに登ったか?と高度感があり好天に感謝。

                                                     166町石先のコース外に展望台があったが、一番後ろを歩いていたので通過。                   平坦になり、少し道の広くなった銭壺石(9時55分着)のある所に到着、小休止。

                                                  137町石通過、10時45分。 この辺りは軽い登り下りの繰り返しであった。

                                               六本杉峠到着、10時50分~10時55分。 昔は見事な杉並木があった場所のようです。

                                                    124町石(古峠)通過、11時15分。 平坦で歩き易い道であった。              疲れたら上古沢駅に下れる。

                                                      二ッ鳥居到着、11時20分~11時25分。                      展望台で一休み、丹生都比売神社のある天野の里が一望できる。            石の鳥居が2つ並んだ珍しい光景。                               丹生明神高野明神の鳥居で弘法大師が建立したと伝えられています。

白蛇の岩と鳥居を通過し、ゴルフ場の横を下る。                      古道を歩いているのに異様な感じであった。                       神田地蔵堂到着、11時40分~12時15分。 休憩を兼ね昼食とした。トイレあり。

                                                     この先も紀伊高原CCのゴルフ場サイドを歩くので「ゴルフボールに注意」の看板が多数あり。                                           百町石通過、12時30分。 少し町石道の左手上部にあり、見過ごすところであった。

                                                笠木峠着、12時55分~13時。 左に進むと上古沢駅方面への分岐となっていた。

                                               ここからは少しづつ下りであったが雑木林の道は思いのほか快適であった。      三里石通過、13時25分。 

                                               みまもり地蔵さんに見送られ、国道480号線と交差する矢立(60町石)に到着、13時45分~14時。

                                                ここでバスが待機していてくれたが、コースの残り三分の一を全員頑張るとのことでバスを見送った。                                              矢立茶屋の「やきもち」は花坂名物と聞いたが食べる時間なくパス。      茶屋の左手、町石道に取り付く。

                                               茶屋で休憩したものの、今まで下った分の急な登りが待っていた。                 苦しく鍛えが足りないと感じた。                                袈裟掛石通過、14時13分。 押上石通過、14時17分。言い伝えのある石がアチコチに点在し、いにしえの伝説に、この道の歴史の深さを感じた。

                                                50町石通過、14時25分。 更に登りが続く。

                                                再び国道480号線を横断し、展望台着、14時55分~15時05分。

                                                    鏡石通過、15時25分。                                                12町石から大門の7町石までの急登が始まった。

                                                        最後は急な階段を登って国道に出るが、皆さん黙々と頑張られた。          きっと良い御利益があると思います。                             杉木立の中の薄暗い山道を登り切ると大門が目の前に。 それがまた普通の街中の景色にかわりビックリ。

                                                  そこは和歌山県伊都郡高野町高野山である。16時20分到着。お疲れ様でした。              巨大な重層の楼門「大門」。                            何度か焼失の難に遭い、現在のもので築後約300年。                          両脇の金剛力士像は江戸時代の仏師、康意〔阿形像〕:運長〔吽形像〕作を配し、一山の総門にふさわしい堂々とした門です。

  

                                             大門の前でしばし休憩し、町中の道を壇上伽藍に向け進んだ。                          壇上伽藍の中門手前の柵の中に1町石を発見。 うっかりすると見過ごすところでした。

                                                                                                                                           全員無事、スタートの180町石から歩く祈りの道「高野山町石道」完歩しました。

                                                     壇上伽藍の金堂のみ参拝し、宿坊「上池院」さんに17時到着しました。お疲れ様 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ 霊場 高野山詣で ☆

2016年03月09日 | 世界遺産

平成27年(2015)弘法大師『空海』が高野山を開創し1200年を迎えました。

                        

6時起床。宿坊と聞くと寒いイメージがありますが、部屋の中はとても暖かく快適に過ごせました。                                                                                                                6時半、宿坊「上池院」本堂にて朝のお勤めに参列し、本堂右手で三鈷(さんこ)を持ち鎮座されます金色大師尊像様にも礼拝してきました。

                                                  その後、7時より朝食となり、8時 地元のガイドさんと共に霊場「高野山参拝巡り」出発しました。

例年は雪が多く、堂宇の軒下には近寄れないとのことで、ロープが張られていましが、暖冬は高野山も同じで、雪はほんの少し見られただけでした。

弘法大師が遥か都を離れ、しかも標高 約900mの山上である、この高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。                                                            (大晦日の「行く年来る年」で聞く大塔の鐘)

                                               それは、弘法大師が2ヵ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷を投げられた。             その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。

                                               弘法大師は この三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時、異様な姿をした一人の猟師にあった。                                                                                                                  手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。                                                        弘法大師は その犬に導かれ、紀ノ川を渡り険しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「私はこの山の主です。あなたに協力致しましょう。」と語られ、更に山中深くに進んでゆくと、そこに忽然と幽邃(ゆうすい)な大地があった。             

                                                     そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけ、この地こそ真言密教にふさわしい地であると判断し この山を開くことを決意されました。             三鈷の松」とは、松葉が三本という珍しい松で、大師がお投げになった三鈷が掛かっていたと伝えられる松。)

高野山は平安時代のはじめに、弘法大師によって開かれた日本仏教の聖地です。

                                                                                  金剛峯寺という名称は、御大師様が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。

                                                  東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え、境内の総坪数は48,295坪の広大さと優雅さを有しているとのことです。

総本山「金剛峯寺」という場合は、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指すようです。

                                                      普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、ここ高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所が お寺の境内地であり、高野山全体が お寺だそうです。

山内に点在する お寺は、塔頭寺院といい、御大師様の徳を慕い、高野山全体を大寺に見立て、山内に建てられた小院を指すようです。                     現在では117ヵ寺が存在し、そのうち52ヵ寺は宿坊として、高野山を訪れる私達のような参詣者に宿を提供して下さっております。

参道入口、一の橋から弘法大師御廟までの約2kmの参道両側には、樹齢数百年の杉の大樹と共に歴史に名を残す諸大名などの20万基を超える墓碑や供養塔が立ち並んでおり、大師信仰の厚さをうかがわせます。

大師御廟や燈籠堂に近い御廟橋からは霊域に入るので、ガイドさんより『服装を正し脱帽、写真撮影は禁止』と聞き、清らかな気持ちで礼拝し御廟を参拝しました。

ここ高野山では弘法大師『空海』が永遠の悟りの世界に入り、今なを高野山 奥の院で生きていると信じられています。                                            ですので、これを「死去」とは言わず「入定」と言うようです。                 この事は高野山の信仰が今も生きている事を意味し、そしてこれは世界的にも珍しい信仰とのことです。                               日本国内だけでなく、世界遺産登録後ヨーロッパからの観光客が増加し続けているのは、こうした独特の精神世界によるものだと言われています。

この世界的にも珍しい高野山へ、是非 御参拝を 

今日、平成28年3月6日(日)午後12時半より高野山春の山開き「高野の火まつり」が開催され、丁度 山伏による霊場開きの行列が始まり、それを見て帰途に着きました。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする