素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

👺 大雄山最乗寺参拝 👺 

2023年11月30日 | 古寺巡礼

神奈川県の 紅葉の名所 として知られる、大雄山最乗寺。                              応永年間に了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師により開山され、大本山 ❝ 永平寺 ❞・❝ 総持寺 ❞ につぐ格式を誇る曹洞宗寺院で、全国に四千余りの門流を持っています。

歴史は六百年に及び、釈迦牟尼仏をご本尊に、文殊と普賢の両菩薩を脇持仏として奉安しています。

                       

四季の中でも最も人気の高い紅葉の時期の道了尊(地元での呼称)をご紹介いたします。              11月 20日の参拝時は、まだ少し早かったので 一週間後に再度参拝訪問してみました。           売店があり、大型バス駐車場から参道を登ると、最初に現れる三門。

瑠璃門前の紅葉は素晴らしいです。

光明亭 

本堂と石燈籠 

本堂内部 

お正月の準備に入った結界門。

山々を守護し、人々から畏れ敬われてきた天狗。                                    日本には数々の天狗に関する伝説がありますが、最乗寺と天狗との関係は、開山の歴史に由来しています。

 

 

 

 

 

 

 

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🔷 恵林寺と枯露柿 🔷

2023年11月23日 | 古寺巡礼

11月に山梨県の羅漢寺山を訪問したので、帰りに甲州市にある戦国最強の騎馬軍団を率い 『甲斐の虎』 と恐れられた武田信玄(1521~1573)の菩提寺である ❝ 恵林寺 ❞ を訪ねてみた。

今年は暑い日 が続き紅葉はどうだろうか❓と思っていたが、季節の移ろいはそれなりに進み、参道入口のイチョウの木は、もう散り始めていた。                                   真っ黄色の葉が青空に映えると思っていたが遅かった。

長い参道を進む。                                                    恵林寺の周辺地域では吊るし柿作りが盛んで、参拝した恵林寺でも見ることが出来ました。

四脚門から参道を進むと三門が見えてきます。                                 その三門の両柱には白字で有名な言葉が揮毫されています。

信玄の度々にわたる強い懇願に答え恵林寺の住職に就任した「快川国師」(快川紹喜:かいせんじょうき)の言葉であります。                                               快川国師(1502~1582)は戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の名僧であります。

安禅不必須山水  (安禅は必ずしも山水をもちいず)

滅却心頭火自涼  (心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)

この言葉は、炎に包まれて落命する最後の瞬間に国師が唱えたものだと云われています。

                           

とても立派な左手:方丈と正面:庫裡。 

庫裡の前庭にある武田信玄公の訓言。(甲陽軍鑑より)

戦というものは、五分と五分であれば、上々。                                    七分三分で優勢であれば、中程度。                                        十分で圧勝するならば、結果は下だと考えなさい。                                なぜならば、五分五分の互角であれば、次こそはと励みが生まれる。                             しかし、七分の勝ちであれば、油断が生じて怠けが始まる。                         そして、十分の勝利を得ても驕慢や傲りを招くからだ。                             戦で完勝しようとも、驕慢を生じてしまえば、次には必ず負ける。

戦に限らず、世の中のことは、すべてこうだという心がけが肝心である。

厳しい戦乱の世に、国主として領民を護り導かねばならなかった信玄には、負けることは許されませんでした。                                               小さな戦の勝ち負けにこだわり、大局を忘れるならば、必ずその国は滅びることでしょう。  前線での戦闘と同時に、郷土の将来を大きな視野から見据えて戦い続けた武将ならではの、優れた洞察が、この訓言には光っています。                                      そして、生涯の最後には、勝ち負けも、名誉も、栄枯盛衰をも越えたところで、『紅粉を塗らざれども自ら風流』兜も、鎧も、太刀も、知略も、軍配も捨てて、一糸纏わぬ素っ裸になって、生まれてきた生命の根源に帰っていくのです。

過酷な時代の現実のただ中を全力で駆け抜けた傑出した人間の目には、人生のあるいは歴史そのものの、はるか彼方まで向けられていたようです。           (恵林寺の歴史より抜粋)

 

恵林寺付近の枯露柿

武田信玄公の時代に奨励され、美濃国から蜂屋柿を移植して増産を図ったようです。

枯露柿という名は、柿を乾かす時に、まんべんなく陽が 当たるようにコロコロ位置を変える作業をすることによると云われています。

恵林寺に近い松里地区では、気象条件が適していることなどから、甲州百目(百匁)柿を中心に枯露柿づくりが盛んで、11月~12月にかけて民家の軒先に吊るされています。

この様な 「ころ柿のすだれ」 は、甲州を代表する風物詩となっています。

 

 

 

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📚 樋口一葉ゆかりの慈雲寺へ 📚

2023年04月01日 | 古寺巡礼

樋口一葉は東京で生まれ育っていますが、何故?慈雲寺に一葉女史の石碑があるのでしょう❓

慈雲寺のある、ここ大藤の里は、明治の女流文学者として近代文学史上に今以て燦然と輝く樋口一葉女史の「父母のふるさと」なのであります。

先ずそのお話をする前に慈雲寺の開創について、お話しさせて頂きます。

天龍山 慈雲寺は聖観観世音菩薩が御本尊様の臨済宗 妙心寺派のお寺で、甲斐百八霊場の第十番札所になっています。

慈雲寺は南北朝時代の暦応年間(1338~1342)に京都と鎌倉を往き来して、京都の天龍寺などを開山した僧として有名な夢窓疎石によって開かれたと伝えられています。

また、こちらの境内には『慈雲寺のイトザクラ』という見事な桜が咲き、山梨県の天然記念物に指定されています。

ウバヒガン桜の変種ということで樹齢は三百三十年ほど、枝を四方に垂らして糸が垂れる様な形、花色は淡紅色で春には美しい花を咲かせ沢山の参拝者を魅了しています。

それでは樋口一葉と慈雲寺の関連について                        一葉の両親は慈雲寺の寺子屋に通っていたとのことです。                             そして、ここで知り合い安政4年に二人で江戸に出ました。                        何故、江戸に行ったのかという理由は諸説あるようです。一葉はその 15年後に誕生しました。 後に、一葉の母(たき)は他の土地の見聞に乏しい一葉に若き日の自分を懐かしみながら話を聞かせました。

一葉は明治5年3月 25日に樋口則義、たきの次女として東京で生まれました。                明治 22年に父を失った一葉は一家の生計を立てようと小説を書き始め、貧困に苦しむ中で「大つごもり」・「ゆく雲」・「にごりえ」・「たけくらべ」・「十三夜」などを書き続けましたが、明治 29年 11月 23日に 24歳の短い生涯を閉じました。

樋口一葉女史文学碑                                             この碑は大正 11年(1922)一葉女史の文才を偲びて建てられたものであります。        題額は東宮御学問所 御用掛 杉浦重剛、撰文は芸術院会員 幸田成行(露伴)、書は宮中御歌所出仕 岡山高蔭にて当時最も新しい形の碑文で、日本最高の文学碑と云われています。

                          

いま、ここに一葉女史の見ることのなかった父母のふるさとへの愛着と思慕の念を秘めた作品 『ゆく雲』 の一節を碑文に刻み、一葉女史と郷党の人々との心の結びつきを一層深めるために記念碑を建立した。

『ゆく雲』 の碑文の一節は全体の中間あたりに書かれたものですが、書き始めより甲府・塩山・勝沼など地名が出て、母から聞いたことが住んでいたかのように克明に書かれています。

我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ・・・ 

 

 

 

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🌄 氏神様:足柄神社 詣で🌄

2023年01月10日 | 古寺巡礼

自分が住み、自分たちの生活に密着した氏神様に詣でて来ました。

もう皆さまは、初詣を済まされたことと思います。

元旦 お正月 は、各地の有名社寺に出掛けてお参りすることが多く、どこも大変混雑をしています。

年の初めにお参りすると 「めでたさ」 が倍加するということで、お正月に社寺に行くこと自体が特別なイベントの様になっています。

 

ただ余り報道されなくなっていますが、コロナが終息した訳ではなく再び増加傾向にあります。全国の感染者数、死者数の増加には驚きを隠せません。                    この様な状況下、あえて人混みの中に入ることは出来ず「松の内」を外しました。      経済を動かさなくてはならないということで、政府も各自治体もコロナのことは口にしなくなった以上、我が身はそれぞれが守るしかありません。

今まで以上に感染対策に対する注意が必要です。

 

                        

 

私の住む所の氏神様は小高い山の尾根上にあり、急坂を頑張って登ります。

登り切る手前左手に観音堂(本地堂)に参拝です。                               こちらは足柄明神の本地 仏聖(ぶっしょう)観世音菩薩像を祀ったお堂です。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んであった本地垂迹(すいじゃく)説(仏が人々を救うために神に姿を変えて現れたとする神仏同体の考え)によって建てられたお堂とのことです。

 

観音堂から更に階段を上がった鎮守の杜の中にひっそりと佇む足柄神社社殿。

足柄神社は、かつて坂の神として足柄峠に祀られたとする足柄明神が矢倉岳、更に現在の苅野に遷座し、矢倉明神社と呼ばれていました。                                昭和 14年(1939)に足柄神社に改称されて、今も南足柄の総鎮守として信仰を集めています。

平成 20年(2008)に社殿の調査が行われ、幾つかの特徴的なことが判ったようです。

本殿は三間社 入母屋造りで、桁行 15.5尺、梁行 11.7尺あり、県内でも数少ない大型社殿で、唐破風下の各所には獅子や龍など良質で細部にわたる彫刻や陽刻による装飾が施されています。

また、建築年代は、境内の由緒碑によれば慶応2年(1866)3月と記されています。

材質は欅の素木(しらき)仕上げで堅固さと優美さを備えています。

現在の社殿は、本殿と拝殿、幣殿とを廊下でつないでいますが、もとは独立して建っていたそうです。

昔の初詣は1年のケジメとして、一家の家長は、大晦日の夜から神社に出掛けて、寝ないで新年を迎えるのが習わしで、家族は主として自分たちが住んでいる地域の氏神を祀っている神社にお                                    参りをしていたとのことです。

昔の日本人にとって、神社参拝はごくごく日常的で、毎日詣でるものであったようであります。いつも詣でているからこそ、新年最初の神社詣でをわざわざ『初詣』と区別するようになりました。

大家族であった昔の風習を知り、現在と違って来た流れを知ることも良いのかと思います。

 

 

              ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

         本年も、皆様にとりまして最良の年でありますようお祈り致します。

 

 

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🍂 石山寺の秋 🍂

2021年11月02日 | 古寺巡礼

滋賀県大津の南端、琵琶湖から流れ出る瀬田川の西岸に位置する、真言宗の大本山。

『寺は石山、仏は如意輪』といわれるとおり、霊験あらたかな観音様として奈良時代より広く信仰されてきました。

石山寺は、天平19年(747)聖武天皇の勅願により、良弁僧正によって建立されました。    その名の通り、石の山の上に建つお寺です。

 

境内の本堂前には大きな岩が聳え立っています。

こちらは天然記念物の『硅灰石(けいかいせき)』というもので、世界的にも珍しいものだそうです。     本堂や多宝塔は、この『硅灰石』の上に立てられています。

「この山の上に八葉の蓮華のような大きな岩があり、そこは紫雲たなびく美しい場所である。ここが観音の聖地である。」❝石山寺縁起絵巻❞第一巻には、近江の守護神 比良明神が石山の地について、この様に述べる場面が描かれています。

このことから、石山寺は古来より神聖な土地として人々の信仰を集めていたようです。    松尾芭蕉翁も何度も足を運ばれたようです。

石山の 石にたばしる 霰かな ❞ 

石山寺の名の由来でもある巨大な硅灰石の上にあられが激しく降り注いでいる光景を詠まれた句だそうです。

源頼朝の寄進により建立されたと伝わる国宝の多宝塔。

                   

上下二層のバランスや軒の曲線の美しさで日本が誇る最古最美の多宝塔として知られています。

 平安時代に観音信仰が広まると、京の都からほど近い石山寺へ参拝する石山詣でが貴族の間で流行したようです。                                                 毘沙門堂の紅葉。

その中でも、文学者が多く参詣されました。

かの有名な紫式部は、当山に参籠(さんろう)した際、湖面に映る月を見て『源氏物語』の構想を思いついたと❝石山寺縁起絵巻❞に記されているとのことです。

他にも『蜻蛉日記』の作者 藤原道綱の母、『更級日記』の作者 菅原孝標の女も石山寺に参籠し、その時のことを作品中に描いているそうです。

 

 

※ ご訪問頂き、ありがとうございます。

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🍂 三井寺の秋 🍂

2021年10月27日 | 古寺巡礼

滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺は、正式名称を『長等山園城寺(ながらさん:おんじょうじ)』と申し天台宗の総本山であります。

境内に天智、天武、持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)が有ることから『御井(みい)の寺』と称され、後に「三井寺」と通称されるようになったのだそうです。

仁王像が守護する三井寺の玄関。

「大門」とも呼ばれるこの仁王門は徳川家康の寄進によるものだそうです。            門の左右には室町時代の仁王像が鎮座しています。

金堂へ向かう参道の紅葉。

金堂とは三井寺の本堂。桃山時代を代表する名建築で国宝に指定されています。

松尾芭蕉翁が参拝された時に詠まれたという句碑がありました。                                三井寺の 門たたかばや けふの月

こちらは、平安時代に弁慶が三井寺から奪って比叡山まで引き摺り上げたと伝えられる梵鐘を収納する霊鐘堂。

この鐘を、いざついてみると「イノー、イノー(関西弁で❝帰りたい❞)」と響いたので、弁慶は怒って 谷底へ投げ捨ててしまったのだそうです。

鐘には、その時に付いたとされる傷が残っています。

霊鐘堂から、仏典類を網羅した一切経(大蔵経)を収めた書庫である一切経蔵の参道にて

唐院は開祖 智証大師をお祀りしている三井寺の聖域、奥にある三重塔は奈良の世尊寺(旧比蘇寺)から移築されたもので、重要文化財に指定されています。

ちなみに、三重塔横橋は映画『るろうに剣心』のワンシーンに使用されたとのことです。

一切経蔵側から見た三重塔です。

園城寺の境内は余りにも広く、山号である長等山という山にも登ってみたかったが時間の関係で欲張りは出来なかった。                                         お寺より山伏の装束で修行体験ができるので、役行者になった気分で長等山を登りたかった。

 

※ ご訪問頂き、ありがとうございます。

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👺 晩秋の道了さん 👺

2019年12月01日 | 古寺巡礼

地元では「道了さん」の名で親しまれている大雄山最乗寺。

                                                   曹洞宗に属し、全国に四千余りの門流を持つ大寺であります。

開創以来 600年以上の歴史を持ち、境内には老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は 30余棟に及びます。

初夏には仁王門から「てんぐのこみち」の両脇に沢山のアジサイが迎えてくれ、また 秋には堂宇をモミジが真っ赤に染め上げます。

御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊・普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場とのことであります。

 

 

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👣 恵林寺付近散策 👣

2018年11月16日 | 古寺巡礼
(シッギ) Siggi 耳あて付きキャップ 冬用防寒帽子 男女兼用 おしゃれ 大きいサイズ 屋外作業用【スキー 登山 自転車 通学 雪かき アウトドア 散歩】
寒い時期に最適な帽子。普段は上にあげ、寒い時に下に下げる。顎で止めれば風にも飛ばされません。
 

山梨県甲州市塩山小屋敷地区と松里地区の秋らしい所をブラブラ探して来ました。                 上小屋敷には武田 信玄の菩提寺である、臨済宗妙心寺派の山号「乾徳山」恵林寺がありす。

                                           また、この付近には柿畑が沢山見られ大きな柿の実を見ているだけで、充分秋が感じられました。

この地で信玄公は、臨済禅に深く帰依し、永禄 7年(1564)に 300貫の寺領を寄進して、恵林寺を菩提寺と定めた。そして美濃出身の快川紹喜(かいせんしょうき)招き、公私にわたって師事した。

                                              快川は信玄公の死後、武田 勝頼に仕えて織田・徳川との和睦工作をしたが失敗、武田家は織田 信長軍に滅ぼされました。

                                           快川は、100余人の僧侶と共に山門楼上で安禅不必須山水(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず)滅却心頭火自涼(しんとうをめっきゃくすればひもおのずからすずしと唱え焚死(ふんし)した。 快川の唱えた、この詩は有名である。

                                           のち徳川 家康によって再建されました。

恵林寺の近くには、真言宗の古刹、山号「高橋山」放光寺があります。           こちらは元暦元年(1184)新羅三郎義光の孫 清光の子 安田義定が賀賢(がけん)上人を開山として創建した。

                                           戦国時代には、武田 信玄の祈願所として篤い崇敬と保護を受けた。やはり織田 信長の兵火により焼失し、その後 慶長年間に再建された。

小屋敷地区のとなり、松里地区も歩いてみました。 とても柿畑が多いのが分かります。   柿は葉は落ちるが実は落ちないのですね。ですから良く目立つのです。

ころ柿(枯露柿)という看板がありました。                              解説に「ころ柿」という名は、柿を乾かす時に、まんべんなく陽が当たるようにコロコロ位置を変える作業をすることによると言われています。

                                           武田 信玄公の時代に奨励され、美濃の国から蜂屋柿(岐阜県美濃加茂市蜂屋町原産の渋柿)を移植して増産をはかったそうです。

                                                                                そしてこの松里地区が気象条件に適していたことなどから、甲州百目柿を中心に、ころ柿作りが盛んで、11月~12月にかけて民家の軒先に吊るされた「ころ柿のすだれ」 は、甲州を代表する秋の風物詩です。

 解説文については、前回のものと同じです。

   

 

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◎ 當麻寺(たいまでら)参拝 ◎

2017年02月11日 | 古寺巡礼

葛城市當麻(たいま)の名を知らせる名刹で、二上山(にじょうさん)のこんもりとした樹影を背景に、静かなたたずまいを見せています。

                                                  地図や本では当麻と表示されていますが、この辺りでは駅名以外、でわなくを使われているようです。                                                                                                           西名阪自動車道の香芝 ICを出て、国道 168号線を南下し、當麻の交差点を右折、近鉄線の線路と国道 165号線をこえれば正面に見えます。

當麻寺の創建は、用明天皇の皇子「麻呂子(まろこ)王」が推古天皇 20年(612)に河内(大阪)に建てた万宝蔵院に始まり、その後 天武天皇 白鳳 11年(681)に麻呂子王の孫 當麻国見が現在地に移して、この地方の豪族 當麻氏の氏寺として整備したと伝えられているようです。

金堂、講堂が南北に一直線に並び、金堂の南方両側に東西二つの三重塔が建ち、更に本堂・薬師堂・仁王門などが独特の伽藍配置で建ち並んでいます。

                                               現在、西側の三重塔は修復中(右端)であります。

このお寺は、境内の参拝は自由ですが、本堂・金堂・講堂 中之坊 西南院 奥院 と四ヶ所に別々の拝観料が必要になります。

當麻寺の名が知られる伝説について                                   中将姫の伝説と綴織(つづれおり)の曼荼羅(まんだら)で、この女人伝説と曼荼羅によって中世以降、浄土信仰の熱烈な霊場となったとのことです。                                          そのお話ですが、中将姫とは藤原 豊成(704~765)の娘さんです。

                                                   豊成は藤原南家の祖 武智麻呂(むちまろ)の長男で右大臣になった人物。                      姫は継母の冷たい仕打ちに世の無常を感じ当寺で出家する。                   「ひたすら仏を敬い、生身の阿弥陀仏を拝したい」と願う姫の前に一人の比丘尼(びくに)が現れ、「百駄の蓮茎を集めよ」という。

                                                    その蓮より糸を取り染めると、またもう一人の美しい尼僧が姫のそばに来て、比丘尼と共に色鮮やかな蓮糸から曼荼羅を織り出したのである。                    夜の八時から暁の四時までかけて完成させる。そして比丘尼は姫にその絵の意味を説いて聞かせ、二人は西の空へ去った。                             比丘尼は阿弥陀如来、美しい尼は観音菩薩であった。

                                                 以後、中将姫は曼荼羅に描かれた浄土変相図の教えを広く人々に説き 伝える日々を過ごし、やがて諸仏と共に來迎した阿弥陀により極楽に往生した。

                                                 この伝説の曼荼羅が本堂の御本尊となるが、公開されていない。                                  幾度も複製がつくられて、そのうちの一つが厨子におさまり、私たちはそれを見て来ました。 (参考図書⇒奈良の寺社150を歩く 槇野 修著)

 

 

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◎ 龍潭寺(りょうたんじ)◎

2017年01月15日 | 古寺巡礼

井伊直虎が眠る寺「龍潭寺」の歴史は古く、奈良時代行基菩薩開創と寺伝にあるとのことです。

                                                       龍潭寺のある井伊谷(いいのや)は古く「井の国」と言われ「井の国の大王」が治めた土地である。                                                                                                                  平安時代井伊氏の元祖 井伊 共保(ともやす)が生まれ、井伊氏は遠江(とおとうみ)の有力武士として、既に保元物語にその名を連ねている。

                                                     鎌倉時代 源 頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇皇子「宗良(むねなが)親王」を井伊城に迎え北朝軍と戦った名門である。                                                        室町時代 20代井伊 直平(直虎の曽祖父)に帰依された黙宗瑞淵(もくじゅうずいえん)禅師が新たに龍潭寺の開山となり、遠州地方に京都 妙心寺の流れをくむ臨済宗を広め、臨済宗 妙心寺派の法灯を伝えている。                                                                                                24代井伊 直政(幼少時は虎松)は徳川 家康に仕え、井伊の赤鬼と恐れられる活躍をした。

                                               この直政の後見人として養育 をしたのが、22代井伊 直盛の 1人娘『井伊 直虎』(幼少名 おとわ:出家後 次郎法師)である。

                                               龍潭寺二世住職 南渓和尚の計らいで女城主として井伊家を支え、お家断絶の危機から救った。                                                                                                               後に直政は徳川四天王の筆頭に出世、関ヶ原合戦の後、彦根城に移る。 幕末「井伊大老直弼」が開国の偉業を成し遂げる。

                                               龍潭寺はその千年余り、40代の祖霊を祀る井伊氏の菩提寺として、彦根 龍潭寺と共に、その歴史を今日に伝えている。

緑深い一万余坪の境内には、本堂を始め庫裏、開山堂、総門、井伊家霊屋等の建物が江戸時代そのままのたたずまいと歴史を残し、点在している。

龍潭寺庭園は江戸時代初期に造られた小堀 遠州作の池泉鑑賞式庭園とのことであります。

                                                   昭和 11年に国の名勝記念物に指定された東海の名園である。

また、井伊家の菩提寺であり、墓所には右手の大きな自然石墓石は22代「直盛」(おとわの父)公の墓、そして左手に並んだ小さな五輪塔の番奥が直盛室(千賀:おとわの母)奥から番目は直虎(おとわ)番目は23代直親(幼少名 亀之丞:おとわの許婚)、番目は直親室(しの:直親の妻)番目は24代直政(幼少名 虎松:井伊の赤鬼)と今年の大河ドラマで大活躍する井伊家の苦悩の末、菩提寺で一家団らんの様子が伺えるようでした。

許婚から引き離された悲しみにくれる直虎は、菩提寺である龍潭寺で出家を決意。第二世住職「南渓和尚」より井伊家跡継ぎの証である「次郎」を冠した『次郎法師』の名を与えられた。

                                                  永禄 5年(1562)には、井伊家は一族の主立った男性をすべて失い、男子はわずか 4歳の虎松のみとなった。                                                                                                         逆らえぬ運命の虎松を次郎法師が立派に養育したのである。

自分の幸せを考えず井伊家の存続に一生を掛けた女城主「井伊 直虎」。                     井伊家 歴代当主の中にこの名はないが、戦国時代を語る上で欠かすことのできない注目の人物であります。

                                                       今、井伊家墓所を参拝すると許婚である「亀之丞」と「おとわ」のお墓が並んでいるのは涙をそそります。

 

 

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