歌川広重が東海道五十三次で描いた浮世絵の『由比』は「薩埵(さった)峠」からではないかと云われ、そこからの富士を眺め、由比宿を見学しながら由比駅に戻りました。
昔は「由井」という字が使われていた この由比の町は東海道の 53宿中、16番目の宿場町で当時はおよそ 700人程の人が住んでいたといわれています。
薩埵峠から下って来たら、由比宿に入る案内板が出ていました。
蒲原宿(十五番) 由比宿(十六番) 興津宿(十七番)
十五番目の蒲原(かんばら)宿は、現在の静岡県静岡市に置かれた宿場で、浮世絵は雪景色 しんしんと静まり返った夜の様子を描いたのだそうです。 十六番目の由比宿は、山と海が迫り東海道の難所の一つといわれ、難所ではありましたが富士の見える美しい風景で有名な宿場でありました。 十七番目の興津(おきつ)宿は、由比町とは打って変わり平坦な道が続き、川を渡る力士の旅が描かれているとのことです。 力士ということで、身体が馬からはみ出していたりとユーモラスな一枚となっています。
午後になると雲 が出て来るので、必死に歩いたつもりなのですが浜石岳で見た時よりも、雲が煙の様に流れていました。
主な目的のコースは歩いたので、薩埵峠を下ってからは観光客気分でノンビリ。
坂を下って由比宿の町並みが見えて来た。 13時 20分。
下り切った左手には「一里塚跡」の石碑。 ここは日本橋から 40番目の西倉沢一里塚跡。
坂を下り一里塚跡の道の反対側には、間(あい)の宿「藤屋」という当時の茶屋がありました。 薩埵峠の東側登り口に位置していることから、一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶屋を営み磯料理、アワビ、さざえのつぼ焼きを名物としていたとのことです。 また、店内の部屋からは富士山の眺望が良いので「望嶽亭」とも呼ばれ文人墨客が好んで休憩をされたようです。
明治天皇御小休所「柏屋」 江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいたそうです。 明治元年(1868)及び 11年(1878)、明治天皇ご行幸のみぎりは、御小休所に当てられた茶屋であったとのことです。
由比宿の町並み
間(あい)の宿 川島家 西倉沢は薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があって旅人は ここで茶を飲み、疲れを癒し駿河湾の風景を賞して旅立って行かれたとのことです。 ここ川島家は、江戸時代 慶長から天保年間およそ 230年間、代々「川島勘兵衛」を名乗り、間の宿の中心をなし、大名も ここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村 名主も務めた旧家であったそうです。(右手の平屋の建物です。)
住民の方が生活されており、長野県の妻籠宿や奈良井宿の様に宿場全体が当時のままの町並みではありませんが、史跡名勝が沢山見られました。
由井宿場町の途中から見えた富士山、東名高速道路、国道バイパス、東海道本線。 東海道の「親知らず」、海に山が迫った狭い場所に日本の大動脈がひしめき合っています。
小池邸 小池家は江戸時代、代々 小池文右衛門を襲名し寺尾村の名主を代々務めてまいりました。 名主は年貢の取立て・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でも、最も重要な役割を担っていたとのことです。
この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成 10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されたそうです。
東海道の賑わいと共に発展した由比町は、空襲に遭わなかったこともあり、東海道の宿場町の中でも比較的 江戸の面影を今に伝える建物が多く残っています。
桜エビ、しらす漁の他、温暖な気候を生かした夏ミカンやオレンジなどの柑橘類やビワの栽培が盛んに行われています。
計画通り、由比駅~浜石岳~薩埵峠~由比宿~由比駅の周回コースを完歩し、13時55分、由比駅に無事到着しました。
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