廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、・・・・・・
代表作《たけくらべ》の一部であります。
一葉の父「樋口則義」の文学好きの影響を受け、下谷元黒門町にあった私立青梅学校小学校高等学科第四級を首席で修了後退学し、14才の時、小石川安藤坂にあった歌塾「萩の舎」へ弟子入りして和歌・書道・古典を学んだようです。
一葉の文章は読点でつなげられ、一文が非常に長い。 切れめのない流れるような文章を書く人は、もう出現しないと言われています。
甲州市塩山には、イトザクラで有名な「慈雲寺」があります。一葉の父、則義は慈雲寺の寺子屋で学問を学びました。
そんな事で一葉の、ご両親が安政4年(1857)まで塩山で暮らしており、樋口なつ(一葉)は、明治5年(1872)に樋口家の第五子、次女として東京で生まれました。
一葉にとり塩山は両親から大藤村やその周辺の話を聞き、想像を巡らせていたようです。
「我が養家は大藤村の中萩原とて、見渡す限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて西南にそびゆる白妙の富士の峰は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ・・・・・」
上記は小説『ゆく雲』の中で、まだ見ぬ故郷・中萩原についてこう記しています。 明治28年、23歳の時の作品です。
江戸へ出てから一葉が生まれるまでの15年間、さらに一葉がその才能を惜しまれながら世を去る24年間、樋口家、また一葉を取り巻く環境は決して楽なものではありませんでしたが、優れた作品を数多く生み出したことは、改めてその存在の偉大さとその偉業が称賛されています。
18歳で東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水について初めて小説の手ほどきを受け、翌年には桃水の主宰した雑誌『武蔵野』に小説「闇桜」がのり、次いで雑誌『都の花』に「うもれ木」が連載され、これが一葉の出世作となりました。
28年1月から1年間にわたり「たけくらべ」を『文学界』に連載し、この間に「大つごもり」・「にごりえ」・「十三夜」・「わかれ道」などを発表しました。
一葉はこのほか四千首に近い和歌と15歳から晩年までの日記を残しました。 この日記は「たけくらべ」・「にごりえ」などの作品と並んで、近代文学の傑作と言われています。 29年11月23日、肺結核のため本郷区丸山福山町で、24年の短い生涯を閉じました。