素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲ 霊峰本宮山と砥鹿神社奥宮参拝 ▲

2024年12月29日 | 宮詣で

愛知県東三河の平野に聳え立ち、神代より砥鹿(とが)の大神が鎮まります霊山 『本宮山(ほんぐうさん) を歩いて来ました。

美しい姿の本宮山は、千古の神山として仰がれています。

豊川市から北方を望めば山頂笠を伏せた如く一際秀でた山が 「本宮山(標高 789m) で、東三河の何処からでも拝することができます。                                       今も昔もこの砥鹿の大神の御神徳を慕って、山頂の奥宮へ登拝する人々は年中絶えることが無く、今年の山行の締めとして参拝してきました。

 

 

本宮山登山の出発点であるウォーキングセンターに7時 50分到着。                     出発の準備を進め8時 10分、 出発。

ウォーキングセンター前の道路から、真北に聳える本宮山(中央のピーク)を望む。

8時 20分、砥鹿神社奥宮の石塔のある鳥居を通過

鳥居を過ぎたら直ぐに「本宮山登山」と書かれた石柱が見えた。

ここ本宮山には山頂直下に鎮座する砥鹿神社奥宮を 50丁目として麓から丁目が刻まれており、登山者が自分の位置を確認できる目安として、とても助かりました。

8時 48分、十一丁目通過。

前半戦は非常になだらかな道で快調に進みました。 二十丁目通過、9時 04分。

ところが二十丁目を過ぎて間もなく、道の様子が激変しビックリ                   大きな露岩が現われ左手には木製手摺り、右手にはロープが設置され斜度がきつくなる。

二十六丁目の直ぐ下にある馬背(うまのせ)岩通過、9時 16分。                          登山道の中でも難所の一つで、岩の段々が馬の背骨の感じに良く似ていることから名付けられたと言われています。                                  またこの付近には梯子岩、蛙岩、日月岩など様々な名の付いた岩があります。

蛙岩の上にある見晴台、9時 24分通過。 外気温 2.0度

標高は低い山だが、領家片麻(りょうけへんま)岩や雲母片岩から成る岩山であり、ぶつけたり捻挫などに注意しながら登った。

                                              三十二丁目通過、9時 35分。

登っている登山道は本宮山表参道であり、段々神社への参道らしくなって来た。         上前方に鳥居が見えるが、きつい。

9時 44分、上部の鳥居に着いた。                                        鳥居の横には 「是より、霊峰本宮山 砥鹿神社境内」 と記されていました

三十八丁目通過、 9時 51分。                                                この辺りは傾斜が酷くきつく、一歩一歩慎重に登った。

三十八丁目と三十九丁目の間に 「山姥の足跡」 という伝説の岩がありました。        言い伝えによると昔、三河に住む山姥が本宮山と石巻山に両足を掛け、豊川の水で顔を洗った時にできた足跡だそうです。                                        昔から登山者がこの足跡を踏むと疲れがとれるとか、足が軽くなると云われ、下山の時も踏んでから下山します。忘れて帰ると足が重くなると云われています。              左の案内板の奥に足跡の岩があります。私も踏んだお陰で快調に歩けました。

四十一丁目通過、石段がずっと続きます。

10時 05分、お清水舎到着。                                              砥鹿神社 第一神域に入る前に、手を清め口を漱ぐ。

本宮山砥鹿神社奥宮へ行く参道には鳥居が幾つもあり、その多さにビックリしました。    10時 30分、是より砥鹿神社第一神域と記された鳥居を通過。

鳥居を通って間もなくの所に荒羽々気(あらはばき)神社に到着。                      大己貴命(おおなむちのみこと)の荒魂を祀っており、昔から足の願掛け神として崇敬されています。                                        東海唯一:健歩健脚の守護神                                       貴社に、今まで山歩きの出来たことの御礼を申し上げてきました。

10時 38分、やっと三河国一宮 砥鹿(とが)神社奥宮に到着。                               祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」・【別称:大国主命(おおくにぬしのみこと)】             登山道の終点は砥鹿神社奥宮の本堂につながっているとのことです。

奥宮の社叢(しゃそう)は昔から神域として保護されてきた暖帯自然林で、杉の巨樹が林立しています。 愛知県の指定天然記念物となっています。                                        「本宮山天狗の寄木」 といわれる御神木が最も大きく、高さ約 30m、根回り約 6.5m、樹齢 約千年といわれています。

本宮山山頂到着、11時丁度。                                       山頂からは豊橋平野や三河湾が眺望でき、運が良ければ富士山が見えるそうですが、雲があり残念でした。                                             三角点のある山頂には沢山のテレビ局の電波塔などが建っています。

山頂の一等三角点。

標高 789.2mの山頂直下まで 本宮山スカイライン が通っており、車でも気軽に訪れることができます。                                                    ただ、こちらの山は低山とは思えない変化に富んだ登山道があり、表参道をピストンして良い思い出になりました。

 

 

 

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🐾 旧東海道:戸塚宿 🐾

2024年12月24日 | 日本の歴史

江戸日本橋を起点として始まる東海道五十三次の五番目の宿場町 『戸塚宿』 を歩いて来ました

今から約 400年ほど前の旧東海道と言っても幾多の変遷を経て現在に至り、部分的な面影を探しながら歩く形であります。

戸塚駅東口を9時半に出発。 駅そのものが『戸塚宿』の中とのことです。

『戸塚宿』について

慶長6年(1601)東海道に宿駅伝馬制度が制定された時には、保土ヶ谷と藤沢は宿駅に指定され宿場町となっていましたが、その間にある「戸塚」は指定されませんでした。

戸塚宿は日本橋から10里18町(41.2Km)の位置にありました。                    江戸時代の旅では、健康な成人は一日当たり 10里の行程を歩くのが普通であったようです。

日本橋から10里余、箱根越えを控えた小田原宿までも10里余という立地にあり、旅人にとって戸塚は宿泊するのに最適な地でありました。

江戸寄りの保土ヶ谷宿へは品濃坂の急坂を越える2里9町(8.8Km)の道のり、京寄りの藤沢宿へは大坂の急坂を越える2里(7.9Km)の道のりで、保土ヶ谷宿から藤沢宿までは4里余の道のりがあり、2宿間の距離が長く、更に品濃坂、大坂という急坂を登り下りするため人馬が疲弊することが多かったようです。 

このため旅人は正式ではなかった戸塚宿に宿泊したり、同町の人馬を使って藤沢宿や保土ヶ谷宿まで荷物を運んだりすることが行われ、戸塚宿では相応の駄賃を取得して、街道稼ぎを生計にしていた人が沢山いたようです。

こうした状況に対して、保土ヶ谷宿は同情的でしたが、藤沢宿は公用の人馬を負担していない戸塚宿が人馬を出して駄賃稼ぎをするのは不法であると代官の彦坂元正に苦情申し立てをしました。                                             このため、幕府は戸塚宿に対して「伝馬御用を果たさず届け出もせず勝手に街道稼ぎをするのは不都合」と通達を出しました。

そこで戸塚の有力者である澤邊宗三は保土ヶ谷宿と藤沢宿に了解を取る交渉をしながら、幕府に宿駅開設を強く働きかけ、慶長9年(1604)戸塚宿成立にこぎつけました。

 

戸塚宿の宿内の町並みは20町余(2.2Km)で、江戸方より矢部町・吉田町・戸塚町の3町で構成されていました。                                              戸塚町は一丁目から六丁目まであり、それぞれ上宿、中宿、台宿、天王宿、田宿、八幡宿の別名で呼ばれていました。                                              宿の規模は、天保 14年(1843)編纂の『東海道宿村大概帳』によれば、人口 2,906人、家数 613、本陣 2、脇本陣3、旅籠 75で、問屋場は矢部町・吉田町・戸塚町中宿の3ヶ所が交代で務めていたとの事です。                                              旅籠 75軒は近隣の宿場町の中で、品川、小田原に次ぐ多さであった。

こんな形で『戸塚宿』が誕生しました。

                            

この後は戸塚宿の街道沿いを歩きながら面影の残る場所を、ご紹介して往きます。

 

戸塚競馬場跡 9:50                                                 昭和8年(1933)吉田町に神奈川県畜産組合連合会の経営する 競馬場ができました。

上の写真の右手が競馬場になります。前の道路は当時の鎌倉街道だそうです。            競馬場は昭和 17年(1942)に汲沢に移転し、跡地は現在 日立製作所になっています。

 

日蓮宗 妙秀寺 9:57 

こちらのお寺の境内には、延宝2年(1674)の鎌倉街道の石道標が残されています。     ガイドを担当して下さった藤井さん。  

有名な歌川広重の『東海道五十三次之内  戸塚』 に描かれた道標が移築されたものと考えられていますが、浮世絵中の道標は「左 かまくら道」となっているのに対し、境内にある道標は「かまくらみち」となっています。

 

吉田大橋 10:07                                                  江戸時代、大橋は広重の浮世絵に描かれ、戸塚宿を代表する場所の一つとなりました。    絵の左側に描かれている「こめや」 は旅籠屋で、旅籠屋の軒先には講中の名前を書いた講中札が何枚も吊り下がっています。                                           この札は、この旅籠屋が講仲間や旅人が安心して泊まれる特約旅館であることを示しているのだそうです。                                                   絵の中央辺りに「左 かまくら道」と記された道標が見えます。                           ここは柏尾川沿いに下って鎌倉へつながる川沿いの分岐点で、現在の大橋は「吉田大橋」と呼ばれています。

柏尾川に架かる吉田大橋 、左が鎌倉道、左の橋の角に石道標が建っていたようです。

江戸時代には夜明け前に日本橋を出発し、一日歩いてここで宿をとるのが定番であった。   大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、当時は大変に賑わっていた所のようです。

 

清源院 10:50                                                浄土宗のお寺で、徳川家康の側室 お万の方ゆかりのお寺です。                            本尊は徳川家康から拝領した歯吹(はふき)阿弥陀如来で、境内には松尾芭蕉の句碑 心中句碑があり、墓地最上部に お万の方の遺骸火葬跡(当時としては珍しい)の碑があります。                        また、鎌倉郡三十三観音二十二番札所であり、千手観音が祀られています。                       本堂正面の扉には葵の御門が見られます。

 

澤邊本陣跡 11:15                                                   澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。                             本陣創設時の当主 澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。   明治天皇の東下の際には行在所になりました。

 

海蔵院 11:23                                            海蔵院は臨済宗 円覚寺派の寺院で惠照山 海蔵院と号します。                    本堂には御本尊の釈迦如来像と観世音菩薩、十一面観音菩薩、持ち上がり地蔵などが安置されています。

山門の入口右手にある像は平成 26年(2014)1月から始まった戸塚宿七福神巡りでお参りされる布袋尊(山門右手)で、山門上部には左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があります。

 

八坂神社 11:33                                               通称「天王さん」と呼ばれ親しまれている神社で、また戸塚宿の鎮守であり、祭礼当日の参詣人は当地随一の賑わいを見せるそうです。

この神社の祭日である7月 14日に行われる 『お札まき』 は女装した 10人ほどの氏子が、音頭に合わせて歌いながら円を描いて踊り、「正一位八坂神社御守護」と刷られた5色のお札を 団扇 であおって撒くそうです。

風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であります。

 

上方見付跡 11:55                                                                                                                      戸塚宿の上方側、すなわち京側の出入り口を示す土居が街道の両側にあり、京に向かって左側に松、右側に楓が植えられていました。                                   江戸方見付から上方見付までの戸塚の宿内は長さ 20町余(2.2Km)でした。

 

大坂台の庚申塔群 12:01                                          上方見付を過ぎると直ぐ登り坂にかかります。この坂が大坂です。                       『新編相模国風土記稿』に「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれているように、かつては2つの坂から成っていたようです。                 今は拡幅、舗装されて割合緩やかな坂になっていますが、昔は急坂で荷車、牛馬車などは真っ直ぐには登れず、車の後押しを商売とする人に助けられ蛇行しながら登っていたそうです。

庚申塔は3年間にわたって庚申待ちを続けた記念などに建立された石碑で、十干十二支の組み合わせで 60日に一度やって来る庚申の日の夜を眠らずに過ごして無病息災を祈るのが庚申待ちです。

こちらの庚申塔は道路改修工事にあたって大坂周辺から集められたものです。

 

大坂上の松並木 12:27                                              天気の良い日、汗を拭き拭き2つの坂を登り切ると松並木の続く道で、その合間から富士山が見える素晴らしい景色は多くの浮世絵の画題となりました。

松並木は、慶長9年(1604)、家康の命により街道に植樹されました。                     大坂を登り切った辺りから遊行寺坂上に至る街道には高さ 30mほどの松の巨木が立ち並び、その数は2千数百本もあり大変壮観であったようです。

ですが、第二次世界大戦末期の軍による松の伐採や昭和 30年(1955)頃からの排気ガス、松喰い虫の被害そして道路の拡幅工事が進み松並木は失われてしまいました。 

 

浅間神社 13:00                                                  原宿村の鎮守で、祭神は木花佐久弥毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。                     富士山信仰に基づき村内安全を祈願するため勧請され、永禄年間(1558~01570)に創建された神社で、玉縄城主 北条左衛門大夫綱成の崇敬が篤かったといわれています。

社殿は安政5年(1858)に再建され、改修を経て現在に至り、参道の両側にはスダジイの大木が何本もあり、中には樹齢 600年を超えるものもあり横浜市の名木古木に指定されています。

浅間神社の境内から霊峰 富士山が望めました。                                  

 

 

 

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▲ 高川山から陽だまりコースを下る ▲」

2024年12月13日 | 山梨百名山

登りはずっと日蔭の登山道であったが、下りは全身に陽光を浴び、落ち葉を踏む音を聴きながら歩く、この時期ならではの山歩きであります。

高川山(標高 976m)は低山の割には、富士山をはじめとする山梨県東部の山々の展望に優れ、誰にでも気軽に登れる山として、最近かなり人気が高いようです。

十分展望を楽しんだら、山頂の案内板に沿って下山開始、9時 53分。                      最初は北に向かって尾根道を辿る。

下り出して直ぐの所に「狼煙(のろし)台跡」の案内板が目に付いた。                       解説は無かったが、戦国時代に甲斐国主となった武将 『武田信玄』 が近傍諸国をを攻略する際に遠方への情報伝達の合図として、ここで煙を高く上げたのだろう❓

下り初めは、なだらかな尾根道を右手に丹沢山塊を望みながら進む。

10時、禾生(かせい)分岐を通過。                                          ここから右手に尾根を下れば、『古宿コース』・『中谷入コース』に進み、リニヤ見学センターや富士急行線の禾生駅に下れる。                                       私は明るい尾根道歩きは好きなので直進する。

こちらの道標の上には休憩に丁度良い、落ち葉の敷き詰められた広場があった。       ノンビリしていても暖かいし、周りの山々が見え気持ち良い。

広場を過ぎ下り始めたら、岩の露出した急な下りとなり、落ち葉が滑るので転倒に注意しながら慎重に下った。

10時 29分、左手下方に中央自動車道の大月ジャンクションが見えた。

露岩は消え、穏やかな道を落ち葉を踏みながら、初冬の尾根歩きを楽しむ。

好天での、この時期の尾根歩きは両側の景色が楽しめる。

まだ残っていたヤマモミジが迎えてくれた。

11時 02分、むすび山分岐を通過。                                      尾根沿いを直進すれば「むすび山」経由で大月に出られるが、馬頭観音を見ながら松葉コースを下った。

馬頭観音通過。                                               馬頭観音様は頭上に馬頭を頂いて忿怒の相をされているといわれますが、こちらの観音様は、とても穏やかなお顔をされていました。

明るい南側斜面の松葉コースを下る。

11時 28分、田野倉側登山口に無事下山しました。                               下りは暖かな陽射しを浴び、落ち葉を踏む音に耳を傾けながらノンビリ山歩ができました。

11時 50分、富士急行線 田野倉駅に到着。

山梨百名山には、良い山が沢山あるのに驚きました。

最近では、今迄に歩いたことのない山を歩いているので、花のない時期でも景色や登山道、建物など新しい発見があり、それなりに楽しいです。

 

 

 

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▲ 静かな初冬の高川山 ▲

2024年12月08日 | 山梨百名山

紅葉 も終盤となり、静かな陽だまりハイクを楽しんできました。

山梨県と言えども、高い 山から低い山まで沢山あり、その中に歴史 も含まれ良く足が向く地であります。

低山で、ごく平凡な山ですが山頂からの展望が最高の 『高川山』です。

                                               

JR 中央本線の大月駅から初狩駅に向かいます。大月駅ホームからの岩殿山。

ひっそりとした初狩駅を7時 39分、 出発。

地図で調べてみると、高川山(標高 976m)は本栖湖北岸から延々と連なる御坂山塊の北東のはずれの山であります。                                                高川山への案内板は各所にあり、不安なく歩けます。                             中央本線の高架下を抜け、突き当りの案内板を左折。

7時 47分、自徳寺の下を通過。

自徳寺霊園の脇を通る林道を登り詰めると、車が2~3台停められる空地があり、小さな家型のボックス内にカウンターが設置されていたので、自分も一回押した。               入山者数を確認しているのだろう❓

駅からのアプローチの良さは最高なのですが、この時期北側斜面より取り付くので薄暗く寒い。                                            8時 10分、林道と登山道の分岐を通過。

結構きつい登りとなる。  でも日蔭で寒いので、丁度良く体が温まる。

8時 33分、男坂コースと女坂コースの分岐を通過。                                   月一回程度の山歩きなので、体力測定のつもりで正面の男坂に挑戦した。

初狩駅を7時 39分にスタートし、ずっと日蔭の斜面を登って来たが、1時間 10分ほど経過し陽射しが見えた。

流石 男坂できつい、高度を上げてきたら登山道に岩が見えだして来た。

9時丁度、上部の男坂 コースと女坂 コースの合流点通過。                    木の間越しに廻りの山々が望める様になり、気分も足にも元気が出た感じになる。

合流後の一本道で山頂を目指す。                                          地表を覆う丈の低い笹の登山道に変わり、その尾根を緩やかに登って行く。

山頂手前に最後の急登が現れ、頑張る。

9時 23分、高川山(標高 976m)山頂に到着。                       南西側に富士山、その手前に富士吉田市街、その更に手前には西桂町が望めた。

富士を中心に左手に御正体山(標高 1681m)、右手に三ッ垰山(標高 1785m)

風が あったが、展望は最高で陽射しの方が勝っていたので、ノンビリ 30分も展望を楽しんだ。

山頂には丁寧に周りの山々の名を記した方位盤が設置され、地元の丹沢山塊も望めた。

 

 

 

 

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