素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

◎涼を求めて「白糸の滝」◎

2015年05月25日 | 史跡・名勝探訪

5月も後わずか、この頃は天候により、夏日や真夏日となることもしばしばあります。                                      体も冬から夏への体調替えの時期です。                     富士を見ても雪を被った秀麗富士でなく、わずかに雪を残した秀麗富士に変わっています。                                      日本一の富士山もこの時期には徐々に山容を夏向けに衣変えしているようです。

こんな暑い日は天然のシャワーが浴びられる滝に行くのが一番かな?と思い、富士山方面に向かい、白糸の滝に寄ってみました。                      日曜日であり混雑を承知で出かけてみたが、意外と道路も観光地も空いているのにビックリした。

平日のようで、何か得した気分になりました。                                                お昼の時間であり観光地での食事は期待していませんでしたが、お土産物店の並ぶ中の食堂に入り「富士宮焼きそば」を注文したら、何と これがとても美味しかったのです。                                           嬉しかった半面、自分に与えられた小さな運を使い果たしてしまったような気がした。

                                                                       知らない街に行って「良かった」・「嬉しかった」と感じることに遭遇すると旅全体が忘れられないものになりますね。

お腹が落ち着いてから滝の見学に向かいました。                   まず、進行方向左手にある『音止の滝』を覗いてみました。            名前から想像して滝壺が深くて落ちる水音がしないのかな?と思いましたが、高さ25mの絶壁から落ちる水は辺りに轟音をとどろかせ、勇壮な迫力ある滝でした。

その昔、曽我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ相談をしていた際、滝の音で声がさえぎられたため、しばし神に念じたところ一瞬滝の音が止んだという伝説から、この名が残されているとのことです。

次に、今回のメインの滝『白糸の滝』に100段ほどある階段を下って向かいましたが、何と先ほどの「音止の滝」とは様子が一変し、映画館のシネマ・スコープ画面の様な印象を受けました。

幅150mの湾曲した絶壁の全面にかかる白糸の滝は、左の本滝の一部を除いてそのほとんどが富士山の湧水だそうです。

                                                                     岩壁の間から白い絹糸のように流れるさまは、白糸の名にふさわしく、女性的な美しさの景観を見せながら周囲にマイナスイオンを含んだ冷たい風を運んでいます。

年間を通じて水温12℃、毎秒1.5トンの湧水が流れ出ているとのことです。

戦国時代末から江戸時代初期、富士講の開祖とされる「長谷川 角行」が修行を行った地とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となったことでも知られています。

 

 

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▲西丹沢:不老山ハイク▲

2015年05月22日 | 丹沢山塊

久し振りに地元の山に出かけてみた。                                                                                と言うのも開花時期が5月末~6月上旬で富士・箱根周辺地域のみに生育するサンショウバラという花を見てみたいと思い立ったのである。

その山は、不老山(ふろうざん)と言い丹沢山塊の西部にあり、神奈川県足柄上郡山北町と静岡県駿東郡小山町の境に位置する標高928mの山である。

登山道はJR御殿場線の駿河小山駅からと、山北町の丹沢湖ダム西の浅瀬橋からと山市場(棚沢キャンプ場)からの3本あるようですが、平成22年(2010年)の台風により、浅瀬橋からの登山道は未だに通行止めの様であります。                                また、他の2本も倒木や土砂崩れ個所があり、気の抜けない部分があります。

そんな事で、棚沢キャンプ場から入山。                                                                              駐車場出発9時40分。 河内川に架かる吊り橋を渡り左折。

                                                                          ちょっと取付き点で迷いました。                                                                                        分岐に細かな案内板が有ると親切なのにと感じました。

取付きから一気に高度を上げる急登。                                                                            道も一部細くなり、判りにくい個所がありました。  それに大きな杉の木がまとまって崩れ登山道が寸断、大きく巻道が作られており、通過は出来ました。

立ち休憩を入れながら登ったが、汗が滴り落ちる。                                                         でも登山道のほとんどが樹林帯の中であり、日差しを受けないだけでも登り易かった。

ベンチが1つある広場になった「番ヶ平」(標高867m)に11時20着。                              10分休憩し東名高速道路や谷峨駅が見えたので写真と撮った。 広場には車が走った気配はないが林道らしき道もあった。

林道を横切り登山道に入る。                            10分ほど登ると尾根に出て、そこからは鹿止めの柵に沿って、

                                                                            多少のアップダウンを繰り返しながら西に進むと双耳峰である不老山の東峰   (標高928m)に出た。12時着。

                                                                        樹林に囲まれ展望はない。                            1つあるテーブルベンチには先客がおり、挨拶を交わし、富士の見える西峰(標高926m)に進んだ。12時10分着。

登って来た正面に富士が見えたので、直ぐ写真撮影を済ませた。

                                                                              今日はコンロを持参したので昼食はラーメンとお結び、食後はコーヒーと洒落込んだ。30分休憩。

                                                                            その時、駿河小山から登って来たという方が、世附峠で「サンショウバラ」を見たと聞き、今日の目的でもあるので世附峠まで下った。13時着。                  こんな親切な案内板がありました。

                                                                             サンショウバラの樹高が5m程あり、その上部に咲いているので中々気付かなかった。

                                                                              時期は気持ち早いように感じた。 今回は番ヶ平でも見る事ができました。

目的の花が見られて満足でした。25分もサンショウバラを見ていた。      この花も環境省のレッドデータブックの絶滅危惧Ⅱ類(VU)に登録されているとの事です。    枝には痛そうな棘が沢山あり、葉は「山椒」の葉に良く似ている。

                                                                                                               と言うことで、和名の由来は、葉が「山椒」の葉に似ているからだそうです。

満足気分で帰りのアップダウンは余り気にならず下山できました。          駐車場着15時半。

 

 

 

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▲高社山ハイク▲

2015年05月12日 | 私の見た山・登った山

前夜は信州健康ランドにて仮眠をとり、当日は5時半に出発した。          雲1つない好天である。                           塩尻北ICより乗り、長野自動車道から上信越自動車道を経て信州中野ICで降り、登山口である谷厳寺に7時15分到着した。

                                                                          付近の景色は山梨県甲州市の桃源郷の様である。                   ただ現地は桃でなくリンゴ、木々にスプリンクラーの様なもので散水していた。    登山準備を済ませ7時35分に登山開始。

私は皆さんの出発を見送り、下山口である山ノ内町の「よませスキー場」へ車を回した。8時到着。                                     スキー場の係員の方に登山口や駐車の場所を聞き、どこに止めても構わないことや登山はリフトの下でもゲレンデの中でも、どこを登っても構わないと教えて頂いた。   「疲れたら上部にはジグザグの道もあるし、1時間半くらいで登れるよ。」と聞きホッとした。

8時10分出発。                                         歩き出しは風も冷たく元気も良かったので、ゲレンデ内を直登した。          リフトは3基あり、最初のリフトを8時17分通過。                ゲレンデの中間地点では体も温まり、また足元に沢山あるが気になり踏まない様に登った。 中間のリフト上部を8時45分通過。                徐々に高度が上がると共に傾斜もきつくなり、立ち休憩で振り返ると「オッここは自分には滑れない上級者用かな 」と感じた。                                                ここまで来たらジグザグにある道や登山道にも気づき、立ち休憩を取りながら登ったが、直登の登山道を選んだ。 汗をかかない様にと思いペースを落とした。

                                                                             3基目、最上部のリフト場に9時着。                                                                              ここは沢山のスキーヤーがリフトを降りるので広場になっていた。                                   好天だし広場からの見晴らしは最高でした。山ノ内町や志賀高原の山々が良く見えた。 風も気持ち良い。

ようやく、ここからは一般の登山道に変わった。                                                              15分ほど登ったら大きな岩が登山道から突き出した好展望地に出た。見晴らし最高、爽やかな風が心地良い。

                                                                             そこから間もなくで高社山(こうしゃさん:1,351m)山頂に出た。 9時20分着。

                                                                              整った山容から『高井富士』と呼ばれる独立峰で360度の展望が楽しめた。

                                                                                 後立山連峰から穂高連峰まで、また近くには妙高山、黒姫山、飯綱山が望めた。

ちょっと手振れがあるが槍ヶ岳を遠望して見た。

まだ仲間は見えてないので9時35分出発し、吊り尾根である高社山西峰に向かい9時40分着。

                                                                              ここにも石造りの祠が建ち参拝後、写真を撮り45分に出発。

                                                                            濃い紅紫色の「ミヤマツツジ」や小さな筒状鐘形の花で淡紅色の「イワナシ」、「カタクリ」、そして「モクレン」か「コブシ」か判らないが青空に鮮やかに映える真っ白な花が印象的でした。

西峰の下りにはロープやクサリが見られたが補助的なもので危険度は少なく感じた。     9時56分薬師の岩屋通過。

                                                                                 以後は尾根上の馬の背路で闊歩できた。石の祠が木陰に立つ八幡神を10時5分通過。

                                                                             更に進もうとした時に登って来た9名の姿を確認、合流できました。                             沢山の花や蕨が有ったことを報告し、私は折り返し皆さんの最後尾に付いた。                以後は私が感じた登山道の状況を伝えながら再び高社山を目指した。

 

全員が高社山山頂に立つ10時40分。   45分休憩し360度の景色を楽しんだ。                  本来は今日、四国の石鎚山を歩いている筈なのだが強烈な台風6号接近中とのことで、急きょ高社山に変更。 やはり山は好天が一番です。                                        怪我なく皆さんが喜んで頂けるのが最高だと感じています。山頂発11時25分。

 

山頂付近で見かけた、白い花弁の美しい「タムシバ」。                                         皆さん蕨が取りたいのか下りは早い。    最上部のリフト広場を11時45分通過。 

                                                                        上部から見下ろすとリフトの柱沿いに登山道が見えた。                                                    下からでは見えなかったので自分はゲレンデの中央を直登した。きつい登りでしたが練習には良いコースでした。

                                                                     よませスキー場の駐車場に全員無事下山、12時35分。  

 

 

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◎信濃善光寺御開帳◎

2015年05月12日 | 古寺巡礼

よませスキー場を12時50分に出発し、上信越自動車道に乗った。                                 皆さんの意見で「折角だから善光寺参りをしよう。」と決まり、善光寺へ 14時到着。

月曜日というのに、駐車場も人も一杯でした。  土日はどんな状況になるのかと余計な心配をした。

内心では9日(土)に甲斐善光寺を参拝したばかりなので、今年は善光寺の前立ご本尊様にしっかりお守りして頂ける様に感じました。

境内そして表参道の人の流れにビックリ。                          表参道、仲見世通りの土産物屋さんもテントでなく、立派な家屋型店舗の商店街となっています。

境内の本堂前に立つ有名な回向柱(えこうばしら)に触れようと長い列ができ、如来さまとの結縁を叶えるのも大変。

                                                                              善光寺でもう一つ有名なものは「お戒壇めぐり、こちらは行列をするロープが張られ、係員の方が「ただ今60分待ちです。」と叫ぶ声が聞こえ、諦めました。

その分、境内や表参道を散策しました。

宗派を超えて誰にも親しまれる善光寺。                                  その成り立ちや阿弥陀如来信仰を伝える物語を抜粋しご紹介致します

  『善光寺縁起』                                                                昔、天竺(インド)の大金持ち月蓋(がっかい)長者が阿弥陀如来によって一人娘・如是姫(にょぜひめ)の病気を治してもらったことを喜び、阿弥陀如来のお姿を「一光三尊像」にして祀っていました。                               その仏像は時を経て、朝鮮半島の百済へ。そして日本の欽明天皇のもとに、仏教と共にもたらされました。                                   しかし後に悪い病が流行った時、物部氏によって難波の堀へ捨てられてしまいました。                           それを拾い上げたのが信濃の人「本田 善光」。善光は故郷の麻績郷(現在の飯田市)にお連れし、更に阿弥陀如来のお告げに従い、現在の地にお堂を建てて安置しました。                                         それが秘仏である御本尊であり、善光寺の始まりとのことです。

    『牛に引かれて善光寺詣り』                                                           昔、信濃国小諸に心の貧しいお婆さんが住んでいました。                                                  ある日、川で布を洗い干していると一頭の牛が現れ、角に布を引っかけて走り出しました。その牛を追いかけて、お婆さんがたどり着いたのが善光寺。            日が暮れたお堂に入ってみると、光明に照らされた牛のよだれが「牛とのみ 思い過すな仏の道に 汝を導く己の心を」と読めました。                                                                         すると、お婆さんはすっかり信心深い人間に生まれ変わりました。                   後日、近くの観音様に詣でると、観音様の足元にあの布が。 お婆さんは牛は仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深め、めでたく極楽往生をとげました。                                                 この仏様が小諸の布引観音といわれています。

全員が思い通りに参拝を済ませ、15時に善光寺を後にしました。

 

 

 

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🐾 静かな海野宿を歩く 🐾

2015年05月12日 | 日本の歴史

上信越自動車道の長野ICを15時42分に乗り、東御(とうみ)市の東部湯の丸ICを出て海野宿(うんのじゅく)に立ち寄りました。到着16時15分。

海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。                                       北国街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であり、佐渡で採れたの輸送や北陸諸大名の参勤交代の道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くあったようです。

今回は次回計画時の参考のため下見として立ち寄り、時間も16時過ぎで、静かな宿場町を散策しました。

道の中央を用水が流れ、その両側に格子戸のはまった美しい家並みが建ち並ぶ海野宿。 江戸時代の宿場の建物と、明治以降の養蚕造りの建物が良く調和しながら、歴史を語りかけています。

歴史的町並みが残る場所として、昭和61年(1986)に【北国街道】が建設省より「日本の道百選」に選ばれ、続いて昭和62年(1987)には海野宿が【宿場町・養蚕町】で文部省より「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されているとのことです。

   海野宿の見どころをご紹介                                                              

卯建(うだつ)には、いくつかの種類があり、江戸時代の「本うだつ」は建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げたもので、防火壁の役割を果たすことから「火回し」とも呼ばれたようです。

                                                                               明治時代に入ると、より装飾的な「袖うだつ」も設けられるようになりました。                              どちらも富裕な家でなければできるものではありませんでした。                  このような所から『うだつがあがらぬ』という言葉が生まれたとのことです。

海野格子(うんのごうし)格子戸のはまった家が続く海野宿ですが、一階の格子戸のほとんどは明治以降に作られました。                            これに対し二階格子の多くは江戸時代のもので出格子になっており、長短2本ずつ交互に組み込まれた模様が美しく『海野格子』と呼ばれています。

                                                                              また、江戸時代の旅籠屋は、一階より二階の方が張り出して造られた出桁造りの家になっている特徴があります

 

                                                                                                 

 

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❀クマガイソウを訪ねる❀

2015年05月10日 | 春景色

山梨県より『富士の国やまなし観光ネット』が配信され、いつも観光情報欄をチェックしています。                                   その中で西桂町にクマガイソウの群生地があり、約5,000株が5月初めから中旬にかけて見頃であります。とありました。

それも、環境省によりレッドデータブックの絶滅危惧Ⅱ類の指定を受けた貴重な花とのことであります。                                        その花とは、どんな花なのだろう  と思い出かけてみました。

日本では北海道南部から九州にかけて分布し、低山の森林内、特に竹林・杉林などに生育し大きな集団を作るようです。                            地下茎は節間が長く全長は1m以上になり、硬くて柔軟性に欠け先端の生長点は鉢の内壁などに当たると枯死し鉢植えに適さないそうです。

なのに乱獲や盗掘が後を絶たず、絶滅が危惧されるラン科アツモリソウ属に分類される多年草の植物です。

全体の特徴は、草丈40cmくらい、葉は対生するように2枚つき、それぞれ扇型の特徴的な形をしている。 花はその間からのびた茎の先につき、横を向く。            花弁は細い楕円形で緑色を帯び、唇弁は大きく膨らんだ袋状で、白く紫褐色の模様があり、唇弁の口は左右から膨らんで狭まっている。

こんな特徴を持つ珍しい花にビックリしました。                西桂町では5株から栽培を始め、一時は約3万株にまで増えていたようですが、乱獲や盗掘により約5,000株にまで減少したため、町が大切に保護しているということです。

名前の由来ですが、鎌倉時代の武将『熊谷直実』(くまがいなおざね)が背中に背負った母衣(ほろ:弓矢を防ぐためのに大きく膨らませた布のこと)に見立てたことから、 「熊谷草」(クマガイソウ)という名前がついたようです。

 

 

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◎甲斐善光寺参拝◎

2015年05月10日 | 古寺巡礼

平成27年春、7年に一度の御開帳との事で勝縁を頂けたらと思い参拝して来ました。                                          初めて知りましたが、善光寺は6寺有るとの事です。

この春の御開帳は平成27年4月5日(日)~5月31日(日)まで六善光寺同時御開帳されております。                              その六寺とは、信濃善光寺(長野県) 甲斐善光寺(山梨県) 飯田元善光寺(長野県) 善光寺東海別院(愛知県) 関善光寺(岐阜県) 岐阜善光寺(岐阜県)であります。

 

甲斐善光寺は、開基「武田信玄」公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)ご本尊「善光寺如来像」をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まるようです。

ここ板垣の里は、善光寺建立の大檀那「本田 善光」公 葬送の地と伝えられ、信濃より大本願「鏡空上人」以下、一山ことごとくお迎えされました。 

                                                                       その後、武田氏滅亡により、ご本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長3年(1598)信濃に帰座なさいました。                          甲府では新たに、今回御開帳の前立仏(まえだちぶつ)をご本尊と定め、現在に至っております。

豪壮な七堂伽藍は、江戸時代に一度焼失いたしましたが再建され、金堂は東日本最大級の伽藍として、山門と共に国の重要文化財に指定されております。           また、金堂下には「心」の字をかたどる、珍しい「お戒壇巡り」があり、真っ暗な中を手すり伝いに進み、ご本尊下にあるに触れることができました。                                  ご本尊様とご縁を結べ、良い年となることを、お祈りして来ました。

また、金堂中陣天井に、巨大な龍が二頭描かれており、その廊下部分のみ吊り天井で、手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こり、日本一の鳴き龍の声をしっかり聞いて来ました。

  

 

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🐾 塩の道を歩く。(千国越え)🐾

2015年05月04日 | 日本の歴史

毎年、ゴールデンウィークにJR 大糸線沿いで『塩の道祭り』が開催されています。 

                                                                         5月3日(日)小谷(おたり)5月4日(月)白馬村5月5日(火)大町市と千国街道を3コースに分け、塩や海産物を運んだ当時の風情たっぷりに、ボッカや牛方などに扮した村人の方々と共に歩いてきました。

平成25年(2013)に白馬村(佐野坂から白馬まで)のコースに参加し、今回2回目の参加です。

                                                                   2回参加して感じた事は、大きな「塩の道祭り」開催では共通しているようですが、3日間にわたっての実施で小谷村、白馬村、大町市の各々の開催内容に独自の特徴を付けている様に感じました。                                来年は大町市に参加してみたいと思っています。

                                                                   3日間参加しないと全体の良さが分からないかな と感じたのです。

                                                                      当然、村興しを念頭に入れてのお祭りでしょうが、郷土芸能披露で村の方々の真剣な取り組みが見てるものにガンガン伝わり、勉強させて頂いた感じがありました。

郷土芸能開始の挨拶には小谷地震での復興が進みつつあるお礼や小谷村の人口が3千人の所、祭りの開催で4千人と言う沢山の方々が来て下さった事へのお礼の言葉がありました。

ゴールデンウィークであり、松本から糸魚川に抜ける国道148号線は、久し振りに以前通った山間部の道に入りビックリ。              地震の影響を目の当たりにしたのです。                      それは道路の片側通行や寸断による通行止め、家屋の半壊状態、屋根しか残っていないのです。                                      地元の方の話では、幹線道路付近は良くなりましたが、一つ裏に入ると通行止めや壊れた家屋が空家状態となっているとの事でした。                           田舎に災害が発生すると益々の過疎化が進んでしまいます。

話は祭りに戻ります。 栂池高原ゴンドラリフト駐車場に7時20分着。                                  直ぐに歩く準備を済ませ、9km先のスタート地点である下里瀬 (くだりせ)へ行く無料シャトルバスに乗り込んだ。8時到着。                                  受付を済ませ、盛り上がるスタート会場内を覗いた。

下里瀬基幹センターの舞台では景気良い小谷太鼓の演奏が響き渡っていた。      お弁当、お蕎麦、採り立て山菜天ぷらの揚げ立てが用意され、ご馳走になった。

コース予定には9時10分出発となっていたが、既に歩き始めている方もいて自分は写真を撮りながらノンビリ歩こうと思っていたので8時20分に出発した。            この辺は白馬村とは違っていた。 

                                                                          白馬は民族衣装の代官、武士、商人、歩荷さん、飛脚などが先頭を歩き、その後を参加者が続いた。

糸魚川から松本城下まで約三十里(約120km)を結び、信州側では「糸魚川街道」、越後側では「松本街道」と呼ばれた千国(ちくに)街道は、またの名を“塩の道”と呼ばれていました。

松本藩では他からの塩の移入を禁止し“北塩”といって糸魚川から千国街道経由のみ許可したため、日本海からは塩をはじめ海産物、信州からは麻やたばこを積んだ牛馬や歩荷と呼ばれる人たちが盛んに行き来したとの事です。

                                                                      この道がまさに『塩の道』と呼ばれるゆえんだそうです。

それは華やかな大名行列などの往来もない生活物資運搬のための経済路線、いわばのにじんだ庶民の道として明治の時代まで続いたようです。

戦国時代、上杉 謙信がこの道を経て、仇敵「武田 信玄」に塩を贈ったという“義塩”の有名な故事があります。

                                                                   それは敵対した今川・北条氏は武田への塩の輸出を禁止した。「塩どめ」である。   これを聞いた謙信は憤り、「信玄と争うのは武力であって塩ではない」と、自領から従来通り信州への塩を輸送する許可を出したのである。 

                                                                       そしてこの道に再び塩の荷が通った。

歴史を紐解くと興味深い話が沢山ありますね。もっと勉強しておけば良かったと、後悔しています。

 

 

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